中関白家を家系図で簡単解説!清少納言や藤原道長との関係とは?

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平安時代の女性たち

中関白家(なかのかんぱくけ)は、平安時代の中期に活躍した「藤原道隆」の一族を指す呼称です。

日本の歴史にはたくさんの藤原氏が登場しますが、その中でも藤原氏が比較的大きな権力を持っていた時期に登場するのが中関白家なのです。また、中関白家は枕草子の作者「清少納言」や、摂関政治で知られる「藤原道長」たちとも深い関わりを持っている家柄でした。

 

そんな中関白家にはどんな人物がいたのでしょうか?あるいは、清少納言や藤原道長とはどのような関係だったのでしょうか?

 

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中関白家の人々

家系図を作成しましたのでまずはコチラをご覧ください。

中関白家を簡単に言うと、藤原道隆を祖とする一族のことです。図の通り、藤原道隆の一族(薄緑で囲んだ部分の人たち)が中関白家です。

※厳密には、中関白家に属する人物が他にもいますが本記事の趣旨から外れる為、ここでは藤原道隆と高階貴子とその子供たちのみを表記しています。

 

藤原道隆の娘 定子が一条天皇に嫁ぎ、中関白家は宮廷内での地位を確立し、凄まじい栄華を誇りました。

 

「中関白家(なかのかんぱくけ)」という呼称の由来は諸説あるのですが、藤原道隆の前に権力を握っていた「道兼」と、藤原道隆の次に権力を握った「藤原道長」の間の関白なので、「中継ぎの関白」という意味で「中関白」と呼ばれていると言われています。

 

では以下より、中関白家の主要な人物について解説していきます。

 

藤原道隆

藤原道隆/Wikipediaより

藤原道隆(ふじわらのみちたか)
生没年:天暦7年(953年)~長徳元年(995年)

中関白家の祖。娘の定子を一条天皇に嫁がせたことで藤原道隆は天皇の外祖父となり、中関白家は宮廷内で絶大な権力を手に入れました。定子が嫁いだ永祚2年/正暦元年(990年)から藤原道隆が亡くなる長徳元年(995年)までの約5年間が、中関白家の絶頂期と言えるでしょう。

 

清少納言の枕草子にも藤原道隆は登場するのですが、周囲に冗談を言う楽しい人物として描かれています。なんとなく気さくなオヤジといった感じです。

また、前述の通り藤原道隆は長徳元年(995年)に43歳で亡くなりました。道隆はかなりの酒飲みだったようで、酒の飲み過ぎが災いして亡くなったと言われています。

 

藤原伊周

藤原伊周/Wikipediaより

藤原伊周(ふじわらのこれちか)
生没年:天延2年(974年)~寛弘7年(1010年)

藤原道隆と正妻 高階貴子(たかしなのきし)との間に生まれた最初の子ども(嫡男)。道隆の斡旋によってスピード出世を果たしますが、周囲の人々には快く思われていなかったようです。

 

道隆が亡くなった後に、叔父の藤原道長と次期関白の座をめぐって争いますが敗北。女性関係で花山法皇に弓を射かける事件を起こすなどの行動を問題視され左遷されてしまいました。この事件を「長徳の変」と言います。

 

枕草子では優雅な貴公子として描かれていますが、どうしても2代目のボンボン的な印象が付きまとう人物です。

 

藤原定子

左の女性が定子/Wikipediaより

藤原定子(ふじわらのていし)
生没年:貞元2年(977年)~長保2年(1001年)

藤原道隆の長女。一条天皇のお后様で、清少納言がお仕えしていた女性としても有名です。清少納言との主従関係は極めて良好だったようで、枕草子の中には定子の人となりを伝える逸話が多く集録されています。父の性格を受け継いだのか、定子も明るくてノリの良い女性だったようです。

 

父の藤原道隆が亡くなった後は、宮廷での居場所を失っていき出家しましたが、一条天皇は定子を愛し続けたと伝わっています。しかし、長保2年(1001年)に出産が原因で亡くなりました。24歳の若さでした。

なお、定子の存在は枕草子の執筆意図にも大きく関係していますので、興味のある方はコチラもご覧になってみてください。

今までの印象が覆る!清少納言が枕草子に込めた本当の意味と内容とは
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藤原隆家

藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
生没年:天元2年(979年)~寛徳元年(1044年)

藤原伊周と定子の弟。その人柄は、かなり武骨な人物だったと伝わっています。若かりし頃の藤原隆家は枕草子にも登場しており、若者らしい無邪気な様子を見ることができます。

なお、兄の藤原伊周と共に長徳の変の首謀者であり、左遷されていた時期もありました。

 

あまり知られていませんが、藤原隆家は日本を救った英雄でもあります。刀伊の入寇という国難を撃退した人物で、もっと多くの日本人にその名を知ってほしい人物です。

 

隆円

隆円(りゅうえん)
天元3年(980年)~長和4年(1015年)

伊周、定子、隆家の弟。出家しているため「隆円」は法名で、実名は不明。

定子の葬儀の際には、大雪だったにもかかわらず歩いて霊柩車に従い「ふるさとにゆきも帰らで君ともに同じ野辺にてやがて消えなむ」の哀傷歌を残すなど、とても姉想いな人物だったようです。

 

枕草子にも僧都の君(そうずのきみ)」という名で登場しており、コミカルな人柄が描かれています。

 

藤原原子

藤原原子(ふじわらのげんし)
天元3年(980年)頃?~長保4年(1002年)

藤原道隆の次女で三条天皇の妃。枕草子にも「淑景舎」とか「中の姫君」といった名前で登場しており、姉の定子からもお墨付きをもらうほどの可愛らしいお姫様だったようです。

23歳の頃に突然血を吐いて亡くなってしまったため、何者かに毒を盛られたのではないかという噂もあります。

 

三女

名前不明
生没年:??~??

藤原道隆の三女として「大鏡」に出てくる女性です。

和泉式部との熱愛で知られる敦道親王に嫁ぎましたが、父の藤原道隆が亡くなった後に離婚しているようです。

 

御匣殿

御匣殿(みくしげどの ※本名は不明)
生没年:??~長保4年(1002年)

藤原道隆の四女。難しい名前をしていますが、この名は彼女が「御匣殿別当」という役職に就いていたことからそう呼ばれていて、本名は不明です。

姉の定子は3人の子供たちを御匣殿に託して亡くなり、御匣殿は定子に変わって子供たちの養育に務めました。献身的に子供たちを育てていた御匣殿は、一条天皇(定子の夫)にも愛され懐妊。しかし出産することなく、定子や原子と同じく若くして急死してしまいました。

 

清少納言と中関白家の関係

清少納言/Wikipediaより

冒頭で、中関白家は清少納言と深い関わりがあるとお伝えしましたが、実際にどのような関係だったのかを見て行きましょう。とは言え、中関白家の人たちを紹介する部分でも触れている通り、清少納言が書いた枕草子には中関白家の人々がたびたび登場するのです。

 

清少納言は、中関白家の定子に女房として仕えていたため、枕草子には定子周辺の出来事や清少納言が中関白家の人たちと絡むシーンがたくさん書かれています。ゆえに清少納言は中関白家を様子を間近で見ていた人物だったのです。

 

藤原道長と中関白家の関係

続いて中関白家と藤原道長の関係を見て行くにあたり、こちらのご覧ください。

 

このように、中関白家の長である藤原道隆の弟が藤原道長なのです。

また、藤原道隆が亡くなった後に政治の実権を握ったのも道長なので、実質的には中関白家の後釜のような立場になります。

 

余談ですが、藤原道長は「御堂関白(みどうかんぱく)」の異名を持っているので、いかにも関白になったかのような印象を受けますが、実は藤原道長は生涯を通して関白になったことがありません。

 

没落した中関白家

一時は栄華を誇った中関白家でしたが、藤原道隆が亡くなった後は一気に没落していきます。

道隆は、息子の藤原伊周を次期関白にしよう目論んでいたのですが、一条天皇に認められることはありませんでした。そして、新たに台頭してきたのが藤原道長でした。

 

伊周と道長は、次期権力者の座を巡って争いますが、伊周は敗北。女性関係の問題で花山法皇に弓を射かけた罪なども問われ、伊周と隆家が左遷されたのはすでに述べた通りです。

 

父 道隆の後ろ盾を失い、兄弟の伊周や隆家とも引き離された定子は、徐々に宮廷での居場所を失っていき、失意のうちに24歳で急逝。定子存命中に、藤原道長の長女 彰子がすでに一条天皇のお后様になっていたため、中関白家の栄華は完全に潰えました。

以降は藤原道長が中心となり歴史を紡いでいくこととなるのです。

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中関白家まとめ

以上、中関白家の紹介と清少納言や藤原道長との関係でした。

藤原道隆を中心として一時は栄華の絶頂を極めた中関白家。

中関白家は没落してしまった関係で、歴史的には敗者となります。いつの時代も敗者の歴史は悪く伝わるもので、中関白家も例外ではありません。特に道隆と伊周は、あまり良い印象が持たれていないように感じます。

 

しかし、一時ではあったにせよ映画を誇っていたことは確かで、その華やかな様子は清少納言の枕草子にしっかりと書き残されています。

枕草子は中関白家の華やかな時代を感じられる貴重な記録です。ぜひ枕草子に触れてみて中関白家の華やかさを感じでいただければ幸いです。

 

中関白家に関しては、個別の記事も書いていますので、それぞれの詳細を知りたい方はぜひご覧になってみてください。

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最後までお読みいただきありがとうございました。

 

【参考にした主な書籍】

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