なんとなくイメージしている「権力者 藤原道長」とはかけ離れた、人間味溢れる本当の人物像とは?
摂関政治で有名な藤原道長は、平安時代を代表する人物です。
そんな藤原道長が詠んだ有名な和歌

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
藤原道長の絶大な権力を象徴しているとされる和歌ですね。
この和歌にも象徴されているように、ときかく大きな権力を握り、政治を動かしていた印象の強い藤原道長ですが、確かにそのイメージは間違っていません。
事実、10世紀末頃から11世紀初頭の頃に政治の中心にいた人物が藤原道長であり、現代で言うところの総理大臣みたいなものでした。
ところが、当時の記録などから藤原道長の人物像を紐解いていくと、およそ権力者とは思えないようなびっくりエピソードや、藤原道長を身近に感じられるエピソードなど、非常に興味深い人物であったことがわかってくるのです。
①まともに文章が書けなかった?
②実は〇〇になったことがなかった!
③現代人にも身近なあの病気を患っていた!
④超有名なあの女性と○○な関係だった?
⑤霊をも恐れぬ度胸の持ち主だった!
藤原道長とは、実際はどんな人物だったのでしょうか?
この記事では、そんな藤原道長の人物像を解説するとともに、藤原道長にまつわる意外な豆知識やトリビアをお伝えしていきます。
藤原道長は文章がまともに書けなかった?
藤原道長は、文章がきちんと書けませんでした。
そんな藤原道長が書いた「御堂関白記(みどうかんぱくき)」という日記が現存しています。
文章が書けないのに日記が書けるのか?と疑問に思われるかもしれませんが、その日記の文章がデタラメなのです。「文法がおかしくて誤字脱字が多い」といった感じですね。
当時の男性貴族の日記は漢文で書かれています。漢文は当時の男性貴族にとっては必須教養でした。そんな必須教養が、藤原道長には欠けていたのです。
なぜかと言うと、藤原道長のような当時の名門貴族は、学問などしなくても勝手に出世できたからだと考えられています。
現代で例えると「大学を卒業していなくても名家の出身だから将来が約束されている」という、極めて反感を買いそうな状態だったわけですね。
なお、藤原道長は御堂関白記の中で、

こんな日記は人に見せず、破り捨ててしまえばいい・・・
と書き残しています。
もしかしたら、教養の無さを恥ていたのかもしれませんね。
藤原道長は「関白」になったことがなかった!
藤原道長の日記が「御堂関白記」という題名にもなっている通り、藤原道長は「御堂関白」と呼ばれることがあります。
・「関白」とは、天皇を補佐する役職のこと(現在の総理大臣みたいなもの)
上記の「御堂」と「関白」を組み合わせ、藤原道長は「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれているのです。
この解説だけですと、藤原道長は「関白」に就いていたかのように思われ、実際に日本国のNo.2とも言える立場ではあったのですが、実は「関白」になったことがありません。
寛弘8年(1011年)には関白へ任命されたものの辞退しており、亡くなるまで関白になることはありませんでした。
御堂関白記によると、

今年は重く慎まなければならないことがあるので辞退しました
と書かれていますが、本音としては、

関白になると、職権の縛りが窮屈になる
というのが、関白にならなかった理由なのではないかとも言われています。
藤原道長の死因は糖尿病?
藤原道長は糖尿病を患っていたことでも知られています。糖尿病と言えば、現代でもよく聞く病ですね。
「御堂関白記」や、藤原実資という人物が書いた「小右記」という日記によると、藤原道長が苦しんでいた症状が以下のようだったことがわかります。
・喉が渇き、よく水を飲む
・痩せてしまい体力が無い
・背中に大きな腫物ができた
例えば「目がよく見えない」という症状に関して、御堂関白記には

60センチ~90センチ先の人の顔がよく見えず、手に持ったものだけは判別できる
という状態だったと書かれています。
「視力の低下」「喉の渇き」「体重の減少」などは、まさに糖尿病の症状であり、背中の腫物に関しても、免疫力の低下によって起こる化膿ではないかと考えられています。
このようなことから、藤原道長の死因は重度の糖尿病だったとも言われているのです。
なお、藤原道長の兄「藤原道隆」も、酒の飲み過ぎで糖尿病を患っていたと見られており、それが原因で急逝しています。
もしかしたら、糖尿病になりやすい家系だったのかもしれませんね。
藤原道長は紫式部と愛人関係だった?
藤原道長は、源氏物語の作者「紫式部」と愛人関係だったという説があります。
この説に明確な根拠はないのですが、紫式部が書いた日記「紫式部日記」に、愛人関係を匂わせる記述が存在します。
紫式部いわく、藤原道長にこんなことを言われたんだとか・・・

源氏物語のような恋愛物語を書いた君は「好きもの(色好み)」と評判だぞ
続いて、紫式部はこのように書いています。

ある夜、私の寝ていた部屋の戸を誰かが叩いていたのですが、恐ろしくて出られませんでした
この時、戸を叩いていたのが藤原道長だったのではないか?という説があるのです。
つまり、紫式部に対する「色好み」という評判を聞きつけた藤原道長が、夜這いをかけにいったと捉えることができます。
ですが、この説は「紫式部の部屋の戸を叩いたのは藤原道長かもしれない」という憶測が産んだ説であり、そもそも紫式部日記には、紫式部が「好きもの」と言われたタイミングと、紫式部の部屋の戸が叩かれたタイミングの時系列が明記されておらず、はっきりしたことはわかっていません。
愛人説も含め紫式部と藤原道長の関係については、コチラの記事で詳しく解説していますので是非ご覧になってみてください。

なお、藤原道長は源氏物語の主人公「光源氏」のモデルなのではないかという説も存在します。
霊をも恐れぬ度胸の持ち主だった!
藤原道長の性格を物語る興味深いエピソードがあるので、現代風の言葉で要約してご紹介します。
道長は、かなり豪胆な性格をしていたようです。
雨が降りとても嫌な雰囲気の夜、肝試しをすることになりました。
人々は、
周囲の人々こんな不気味な日に肝試しなんてとんでもない・・・
と、怯えていました。
しかし、藤原道長だけは、
藤原道長どこへでも行ってやりましょう!
と、怯える様子がありません。
そこで、藤原道隆、藤原道兼、藤原道長の兄弟たちは、それぞれ目的地を定め、肝試しに赴くことになりました。
道隆と道兼は困り果てた様子でしたが、そんな中、道長だけが、
藤原道長従者は連れず、僕一人で行ってきます
と言って、ひるむ様子もありません。
やがて兄弟たちはそでぞれ肝試しに出かけていきましたが、道隆と道兼は途中で帰ってきてしまったのです。
ところが道長は一向に帰ってくる気配がありません。
やがて、道長が堂々とした様子で帰ってくると、
藤原道長目的の場所まで行った証拠として、その場所にあった柱の一部を削ってまいりました
と、平然と言ってのけたのでした。
【「大鏡」より意訳】
このエピソードがどこまで事実かはわかりませんが、藤原道長の性格や人物像をあらわす興味深い逸話ではないでしょうか。
この他にも、道長の甥にあたる「藤原伊周」とのやりとりからも、藤原道長の人物像が伝わってきます。
藤原伊周とのエピソードに関しては、コチラの記事で詳しくご紹介しています。さらに理解が深まりますので、ぜひごらんになってみてください。

藤原道長の人物像まとめ
以上、藤原道長の人物像トリビア5選でした。
藤原道長とは・・・
②実は関白になったことがなかった
③糖尿病に苦しめられ、糖尿病で亡くなった
④紫式部と愛人関係だった(かもしれない)
⑤霊をも恐れぬ豪胆な人物だった
といった人物だったのです。
権力者としてのイメージが強く、一見すると堅物にも思われる藤原道長ですが、実際には権力者らしからぬ意外な一面があったのでした。
そんな藤原道長の娘たちは奥さんについても執筆していますので、ぜひご覧になってみてください。
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【参考にした主な書籍】