平安時代に絶大な権力を誇った『藤原道長』と、源氏物語の作者である『紫式部』は、愛人関係にあったと言われています。
この説は、はたして本当なのでしょうか?
この記事では、紫式部が藤原道長の愛人であったと言う説の真相を探ってきたいと思います。
紫式部が藤原道長の愛人説の根拠
紫式部が藤原道長の愛人だったとされる根拠は『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』という史料にあります。
なお、正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』と言います。
『尊卑分脈』とは、簡単に言うと平安時代~鎌倉時代あたりの、高貴な人たちの家系図をまとめたものです。
この『尊卑分脈』の中に、紫式部関して『道長妾』という記述があります。
『妾(めかけ)』とは『正妻ではない妻のこと』、つまり『側室』という意味です。現代風に言えば、愛人ですね。
これが、紫式部が藤原道長の愛人だったと言う説の根拠とされています。
ただし『尊卑分脈』は史料としての信用性が低いという弱点があります。当時の有力貴族が漏れていたり、逆に実在が疑われる人物について書かれていたりと、記載されている人選に疑問が残るのです。
このことから、『道長妾』という記述に関しても、必ずしも正しいとは言えないのが現状になっています。
紫式部の宮廷出仕と源氏物語の執筆背景
とは言え、紫式部と藤原道長がかなり近い関係に合ったのは確かです。
まず、紫式部が宮廷出仕を始めた理由は、源氏物語の噂を藤原道長が聞きつけたからと言われています。
紫式部が書いていた源氏物語が評判となり、紫式部の教養に目を付けた藤原道長が宮廷出仕を要請したのです。
源氏物語は藤原道長が強力なスポンサーとなり、宮廷出仕後も源氏物語は書き続けられました。
やがて、源氏物語は丁寧な装飾が施され、藤原道長の権威を箔付けする存在となります。
そして、ロングセラー小説として現在でも読み継がれていますね。
この辺の経緯の詳細は、コチラの記事に詳しくまとめてあるので是非ご覧になってみてください。

紫式部の宮廷出仕を要請し、そして源氏物語執筆の背景にも関わっていた藤原道長は、紫式部にとって、とても重要な存在だったのは間違いありません。
藤原道長の誘いを断ってた紫式部
紫式部の宮廷出仕、源氏物語執筆のスポンサー、これらの事実を顧みると愛人関係にあったとしてもおかしくないのかなと感じます。
しかし、紫式部自身が残した日記(紫式部日記)に、彼女が藤原道長とどう接していたかを匂わせる記述が存在するのです。
道長いわく、紫式部は『好き者』と評判だったらしく、以下のようなやり取りがあったそうです。
※『好き者』とは、異性に対して色目を使う人、性欲の盛んな人、というような意味。
「好き者であるそなたを、口説かぬ男はおらんであろう」
こう書かれた紙を、道長は紫式部にそっと手渡しました。
それを見た紫式部は、こう返します。
「だれがそんな噂を立てているのですか?心外です!!」
また、こんな逸話もあります。
夜、寝ていた紫式部の部屋の戸をバンバンと叩く音がしました。
紫式部は恐怖を感じながらも無視し続けました。
翌朝、戸を叩いていた人物が藤原道長だったことがわかり、紫式部派こう漏らしています。
「戸を開けていたら、どんなに後悔していたことでしょう・・」
かなり簡略化していますが、以上のようなエピソードが、紫式部が直筆の日記に書かれています。
これらの記述を見る限り、紫式部は藤原道長と一定の距離を保っていたのでは?と思えてなりません。
道長の片思い?
以上のことから、筆者としては、紫式部と藤原道長は近い関係ではあったけれども、愛人関係ではなかったと考えています。
紫式部からしてみれば、道長は立場が上の人物です。
なので、無視する訳にもいかないので、それなりにご機嫌をとりつつも、うまく いなしていたのではないでしょうか。
現代風に言えば、男性の上司が、仕事の出来る女性社員に手をだそうとしている、という状況に似ている気がします。
やたら上司に気に入られるものの、上司とのやりとりを上手くかわしている女性社員、といったかんじでしょうか。
なんとなく、そんな感じだったんじゃないかと感じます。
そういった意味で言うと、藤原道長は紫式部に恋心を持っていた可能性はあるのかもしれません。
ですが、紫式部には全くその気が無かった。しかし、紫式部が社交辞令でそれっぽい態度を取るので、藤原道長も脈ありを勘違いしていた。
といった、道長の悲しい片思いが見え隠れしているような気がしないでもありませんね。
他にも紫式部を始めとして、平安時代中期の女性たちに関して多数執筆していますのでので、↓コチラ↓からぜひご覧になってみてください。
