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拓麻呂です。
戦国時代の猛将は『鬼』の異名で呼ばれることがあります。
例えば、
島津義弘は『鬼島津』
馬場信春は『不死身の鬼美濃』
吉川元春は『鬼吉川』
井伊直政は『井伊の赤鬼』
そして、佐久間盛政は『鬼玄蕃』
玄蕃とは、盛政の役職名『玄蕃允(げんばのじょう)』に由来します。
盛政は、身長は180センチ以上だったとされ、鬼の名に相応しい豪快な人物でした。
その最期ですら、彼の豪胆さが発揮されているのです。
鬼玄蕃『佐久間盛政』
佐久間盛政の簡単な略歴
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
(もめんとうきち こめごろうざ かかれしばたに のきさくま)
これは、織田信長を支えた武将4名の特徴を表現した詩です。
木綿藤吉は羽柴秀吉。
米五郎左は丹羽長秀。
懸かれ柴田は柴田勝家。
退き佐久間は佐久間信盛。
この内3名と、盛政は大きな関りを持っています。
盛政の母親は、柴田勝家の姉。
盛政の父は、佐久間信盛のいとこ。
羽柴秀吉は、盛政が晩年に争った相手です。
そんな盛政は、叔父である柴田勝家の先鋒として、北陸方面の一向一揆鎮圧などで戦功をあげ存在感を増していきました。
疾風怒濤!賤ケ岳の戦い
本能寺の変で織田信長が自害した後、羽柴秀吉が明智光秀を撃破、その後の主導権を巡って柴田勝家と争うことになり、賤ケ岳の戦いで激突します。
盛政は、もちろん勝家陣営、しかも副将格です。
柴田勝家の反対を押し切り、秀吉方の武将『中川清秀』を急襲。
清秀を討ち取り、初戦を勝利に導きました。
この後の判断が、盛政の運命を分けます。
さらなる戦功を挙げようと、盛政の舞台は敵中に留まりました。
勝家からは引き上げるよう命令されていたと言います。
しかし、盛政は、
勝家は老いてしまい、判断が鈍っている。何も気にすることはない。俺の兵法に任せておけば良いのだ。
と言って、撤退命令を聞かなかったと伝わっています。
その結果、敵中深くに孤立した盛政隊は、駆けつけた秀吉軍に包囲され、さんざんに打ち負かされてしまいました。
この時に盛政と激突したのが、後に賤ケ岳七本槍に数えられる福島正則らであったと言われています。
敗れた盛政は敗走。
身を隠していた越前国(現在の福井県)の山中に身を潜めていましたが、捉えられて斬首されました。
若さゆえの・・・
盛政が斬首されたのは30歳の時。
平均寿命が今より短かった戦国時代とは言え、あまりにも短い人生でした。
老練な勝家の指示を聞かず、敵中深くに居座ってしまったのも、若さゆえ血気にはやってしまった結果なのかなとも感じます。
結果的には、賤ケ岳の戦いで秀吉が勝利するので、もし盛政が勝家の指示通り引き返していたとしても、その後の処遇は厳しいものになったかもしれません。
ですが、もし盛政が賤ケ岳の戦い後も生き延びていたら、要所で登場してくる猛将として、戦国時代を彩っていたかもしれません。
年齢的には、関ヶ原の戦い辺りまで生きていてもおかしくないです。
もっと長生きしていれば、戦場を引っ掻き回し、後世に残るような熱いエピソードを残してくれそうな武将でした。
『若さゆえの過ち』という言葉もありますが、まさしく盛政のことを言っているような気がします。
個人的には、もう少し人生を見てみたかった武将です。
賤ケ岳での判断ミスが悔やまれますね・・・。
まとめ
以上、佐久間盛政の最期についてでした。
盛政は、もともとの性格が豪胆だったのかなとも思います。
武功の為に、自分の意志を貫いて戦場を突き進んだ盛政。
ある意味、一般的な戦国武将の猛々しさを地で行く人物だったのかなと感じています。
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