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拓麻呂です。
戦国時代に『雑賀孫一』という人物がいます。
しかしながら、雑賀孫一という名称は本名ではありません。
また、雑賀孫一に相当すると思われる人物も複数おり、実像が掴みにくい人物でもあります。
そんな『雑賀孫一』とは、一体どんな人物だったのでしょうか?
雑賀孫一とは何者なのか?
『雑賀孫一』という名称について
『雑賀孫一』は『さいか まごいち』と読みます。
漢字表記に関しては『雑賀孫一』と『雑賀孫市』の二通りがありますが、どちらかが間違っているわけではありません。
『雑賀孫一』という名前は、紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県)を本拠としていた『雑賀衆』と言う傭兵集団の頭領が代々名乗っていました。
つまり『雑賀孫一』という名は世襲制だったため、歴史上には複数人の雑賀孫一が存在していたことになります。
一般的に『雑賀孫一』と言えば、戦国時代に活躍した3人の人物を指します。
一人は『鈴木重意(すずき しげおき)』。
一人は『鈴木重秀(すずき しげひで)』。
一人は『鈴木重朝(すずき しげとも)』。
鈴木氏は雑賀衆の筆頭で、雑賀衆を取りまとめていた存在です。
なので『雑賀孫一』のことを『鈴木孫一』と呼ぶ場合もあります。
鈴木重意(すずき しげおき)
『鈴木左太夫(さだゆう)』の名前でも知られる人物。
鈴木重秀の父親とされています。
ハッキリした人物像が分かっておらず謎の多い人物ですが、秀吉政権下において藤堂高虎に謀略によって切腹させられたとされていますが、真相は不明です。
鈴木重秀(すずき しげひで)
雑賀孫一と言えば、この人物を指すことが多いです。
鈴木重意の息子と言われていますが詳細は不明です。
約10年に渡る石山合戦の際に、本願寺に味方し織田信長と戦った人物です。
雑賀衆を率い本願寺顕如に味方していた重秀は、得意の鉄砲戦術で信長を大いに苦しめたと伝わっています。
石山本願寺の僧侶である『下間頼廉(しもつま らいれん)』と並び、『大坂之左右之大将』(本願寺を支えた双璧というような意味)とあだ名されるほどの武勇を誇りました。
その活躍は凄まじく、得意の鉄砲戦術を駆使して、籠城戦では信長側の武将である塙直正(ばん なおまさ)を討ち取っています。
また、第一次木津川口の海戦にも参陣。
毛利氏の村上水軍と協力し、織田水軍を完膚なきまでに蹴散らしています。
信長が雑賀攻めを行った際にも、織田の重臣である佐久間信盛隊を撃破するなど、なにしろ織田信長を苦しめ続けた雑賀衆。
そんな雑賀衆を率いた人物が『鈴木重秀』です。
最終的には秀吉の雑賀攻めに屈し、軍門に降りました。
鈴木重朝(すずき しげとも)
鈴木重秀と同様に、鈴木重意の息子とされ、『雑賀孫一』を名乗ったもう一人の人物。
重秀と同一人物とする説もありますが、別人であったと思われます。
重秀と同じく、さんざん信長を苦しめますが、秀吉の雑賀攻めに敗れ仕官しています。
秀吉政権下では一万石を与えられ、鉄砲隊の養成を担っていました。
関ヶ原の戦いの前哨戦となる『伏見城攻撃』では、西軍に加担し参戦。
家康に信頼され伏見城を守備していた『鳥居元忠』を討ち取ったのは、この鈴木重朝です。
関ヶ原で西軍が負けた後は、伊達政宗に仕え鉄砲師範として活躍し、大坂夏の陣にも参戦しました。
雑賀衆とは?
以上、鈴木重意、鈴木重秀、鈴木重朝の3名が、戦国時代に活躍した『雑賀孫一』に相当する人物です。
織田信長に敵対した人物と言えば、美濃の斎藤氏や浅井・朝倉連合軍、上洛途中で激突した六角承禎、三好三人衆、足利義昭、武田や毛利と言ったあたりが思い浮かびます。
ですが、信長を最も苦しめたのは石山本願寺であり、石山本願寺の強さを支えたのが雑賀衆であたことは見逃せません。
約10年に渡り、信長の前に立ちはだかり続けたのは、他家の大名ではありませんでした。
石山本願寺という宗教勢力が持つ信仰心、そして本願寺が抱えていた雑賀衆という傭兵集団が信長を最も苦しめた勢力だったのです。
諸説ありますが、長篠の戦いでは、信長が『鉄砲三段撃ち』で武田を破ったとされています。
ですが、孫一の率いた雑賀衆は、三段撃ちを上回る五段撃ちだったという説もあります。
鉄砲戦術に長け、信長を散々に苦しめた雑賀衆。
そんな雑賀衆を率いた人物たちが『雑賀孫一』と呼ばれる男たちなのです。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。