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拓麻呂です。
令和二年(2020年)のNHK大河ドラマ 麒麟がくるにも登場する『松平広忠』という戦国武将をご存じでしょうか?
実は、戦国の三英傑の一人 徳川家康(松平元康)の父親です。
家康は多くの日本人が知っていますが、その父 広忠の存在はほとんど知られていません。
わずか24歳で壮絶な最期を遂げた松平広忠。
家系図を交えつつ、その最期の状況を落ちた絵していきます。
家康の父『松平広忠』
松平家の系図
まずは、下記をご覧ください。
広忠は松平元康の父親、つまり徳川家康の父親です。
言い換えるならば、天下人の父親ですね。
自分の息子が戦国時代を終わらせ、約260年続く太平の世を実現したわけですから、父親としても誇りに思えることですよね。
しかし、広忠は家康が生まれてから約6年後に、非業の死を遂げており息子の成長を見届けることが出来なかったのです。
若くして散った広忠
広忠の父『松平清康』は、三河に松平家の地盤を築き上げた名将でした。
しかし、清康は突如として家臣の裏切りに合い、あっけなくこの世を去りました。
この事件を『森山崩れ(守山崩れ)』と言います。
父の突然の死で、広忠はわずか10歳にして松平家の家督を継ぐこととなりました。
その後、織田家に通じていた叔父に居城の岡崎城を奪われ放浪の身となるも、海道一の弓取りと称された大大名『今川義元』らお助力を得て、城を奪還しました。
この出来事を契機として、事実上松平家は今川家に従属するようになります。
天文16年(1547年)には、今川家への従属の証として、嫡子の『竹千代(たけちよ)』を人質として預けることになりました。
この竹千代が、後の徳川家康です。
しかし、ここで事件が起きました。
今川家へ向かう途上、戸田康光という武将の裏切りによって、竹千代は織田家へ送られてしまったのです。
この段階では、松平家と織田家は敵対関係にあります。
織田家に竹千代の身柄を拘束されているような状況です。
しかし、弘忠は今川家に味方する立場を崩さず、織田家と対峙し続けました。
ところが、この姿勢が広忠の運命を大きく変えることになります。
竹千代を奪われてから約2年後、広忠は『岩松八弥』なる人物に襲撃され、命を落としました。
岩松の脇差で、一刀両断されたと言われています。
この岩松八弥という人物は、織田配下の土豪が送り込んだ刺客であったとも言われています。
この広忠襲撃事件には、諸説がありハッキリしていない部分も多く、一説には広忠は病によってなくなったとも言われています。
ともかくも、広忠は竹千代の奪還が叶わぬまま、24歳という若さで無念の最期を遂げたのでした。
なお、竹千代は約2年に渡り、織田家に奪われたままとなり、最終的には今川義元の外交政策によって奪還されました。
清康、広忠の早世
このように、父を早くになくした竹千代、後の徳川家康。
前述の通り、祖父の清康も家臣の裏切りにあって亡くなっています。
この時の清康は、なんと25歳。
家康の祖父と父は、ともに早世しているのです。
その一方で、家康は75歳と言う、当時としてはかなり長寿でした。
家康は節制に熱心だったと言われており、その結果75歳と言う長寿を保つことができました。
もしかしたら、祖父と父の早世を受けて、短命では何も成すことなく虚しく人生を終えてしまうという危機感を持っていたのかもしれません。
家康は、豊臣家を滅ぼし天下を盤石にした翌年に亡くなってします。
つまり、この長寿があったからこそ、家康は天下を手にすることが出来たと言えるのです。
まとめ
以上、徳川家康の父 松平広忠の壮絶な最期でした。
わずか24歳で非業の死を遂げた広忠。
もう少し長生きして、その活躍を見てみたかった武将です。
しかしながら、広忠が長生きしていたら、家康の運命も違ったものになっていたでしょうし、そうなると歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。