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拓麻呂です。
『堀田道空(ほった どうくう)』という戦国武将をご存じでしょうか?
司馬遼太郎さんの小説『国盗り物語』などに登場するものの、戦国時代のファンでも知っている人の少ない、超マイナーな武将です。
しかしこの道空、超有名武将との接点があるうえ、かなり有名な戦国時代の出来事に絡んでおり、見過ごすわけにはいかない武将でもあるのです。
そんな『堀田道空』とは、どんな武将だったのか?
かなり限られた情報から、道空という武将をご紹介していきます。
斎藤道三の家臣『堀田道空』
堀田道空の活躍
堀田道空は、美濃(現在の岐阜県南部)を支配した大名『斎藤道三』の家臣であったと言われています。
そいして、道空の活躍が確認できるのは『信長公記(しんちょうこうき)』と言われる史料です。
信長公記は、織田信長の一代記です。
執筆者は、信長の家臣だった『太田牛一(おおた ぎゅういち)』という人物。
この信長公記の中に、堀田道空は登場します。
信長公記によると、斎藤道三と織田信長が顔合わせを行った、いわゆる『正徳寺の会見(しょうとくじのかいけん)』の場面で、道空が登場します。
道空は、この会見に臨む信長を、丁寧にもてなしていたことが記されています。
なお、正徳寺の会見によって、道三は信長の実力を認めたと言われています。
また、道空は現在の愛知県津島に領地があったとされ、信長が道空の屋敷の庭で遊んだ後に、清州城に帰っていった、ということが書かれています。(清州城は信長の居城)
道空に関する記述はこれだけで、これ以上のことはよく分かっていません。
これだけでは、道空が道三の家臣であったかもよく分からず、津島という土地も織田家の領地である尾張(現在の愛知県西部)にあるので、道空は信長の家臣であったことも十分に考えられます。
また、一説には、道空は『堀田正定』なる人物ではないかと言われており、この正定が出家して『道悦』と号したとされています。
このように、道空に関してはほとんど情報がなく、その実像はほとんど分からないのです。
つまり道空とは、正徳寺の会見に関わった実在の人物ではあるものの、『正徳寺の会見を仲介した道三の腹心』というイメージは、後世の創作物によって形成されていったものと思われます。
まとめ
以上、堀田道空についてでした。
なにしろ信長公記のわずかな記述にのみ登場する人物のため、その実像は何も分かっていないと言っても良いくらいです。
前述の通り、個人的な見解としては、正徳寺の会見に関わった実在の人物ではあるものの、『正徳寺の会見を仲介した道三の腹心』というのは、後世に作られたイメージなのかなと考えています。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。