桶狭間の戦いの発生理由と流れを時系列でわかりやすく解説

戦国時代の合戦

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

永禄3年(1560年)5月19日『桶狭間の戦い』

駿河・遠江・三河を領有する大大名『今川義元』を破り、『織田信長』が台頭する契機となった有名な合戦です。

 

この桶狭間の戦いが発生した理由、そしてどのような経緯を辿って勝敗が決したのか?

その流れを、時系列で分かりやすく追いかけてみたいと思います。

 

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桶狭間の戦いの流れ

合戦の発生原因

信長の父『信秀』の代から不仲だった織田家と今川家。

信秀が亡くなると、国力で劣る織田の家臣たちの中から、今川へ寝返る者が続出しました。

このような状況の中、信長は今川家と戦うことを決意、それに応戦する形で義元が挙兵したとされています。

 

ただし、桶狭間の戦いの要因としてよく言われているのが、義元に上洛の意志があったという説。

これには諸説あるのですが・・・

要は『上洛するための途上に織田家があったから戦うことになった』、もしくは『上洛の足掛かりとして織田の領土に侵攻した』、あるいは『上洛とは関係のない単なる領土侵犯』のどれかであって、義元が西上した結果、信長と激突したことには変わりがありません。

 

永禄3年(1560年)5月13日

【今川義元 進軍】

2万5千人とも言われる軍勢を率い進軍を開始した今川勢は、5月13日に遠江(静岡県西部)の掛川城に入城。

さらに進軍し、5月16日には三河(愛知県東部)岡崎城に到着。

翌17日には先に出陣していた先発隊が、織田領である尾張(静岡県西部)に侵攻。

さらに翌18日には、今川軍本体が尾張に侵入。

織田家から寝返った近藤景春の居城 沓掛城(くつかけじょう)に入城し、軍議を開催。

織田家が築いた砦の攻撃を諸将に命じました。

 

なお、この時に丸根砦を攻撃したのが『松平元康』、後の徳川家康です。

 

永禄3年(1560年)5月18日【織田信長が軍議を開催】

【織田信長が軍議を開催】

今川軍の尾張侵入を受けて、信長と重臣たちが軍議を開催するも、具体的な対策が浮かばぬまま軍議は終了、重臣たちを落胆させました。

しかし、これは今川方を油断させるため、あるいは情報が漏れることを懸念した、信長の策であったとも言われています。

 

永禄3年(1560年)5月19日

【織田信長 出撃】

今川軍が、織田家の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始。

さらに義元が率いる今川本体も、出陣を開始。

 

この報に対し、信長が出陣命令を発した後、重臣たちに先駆け一人で出撃。

後に熱田神宮で家臣と合流し戦勝を祈願、士気を大きく鼓舞しました。

なお、この時の出陣の直前に『幸若舞(こうわかまい)』、いわゆる『敦盛』を舞ったと言われています。

 

【織田軍の中島砦部隊出撃】

丸根、鷲津の両砦が陥落。

 

織田軍の中島砦を守備していた佐々政次は、迫りくる今川軍に対し300の兵で対抗するも、瞬く間に殲滅されました。

その後、柴田勝家ら重臣たちの反対を押し切り、信長が前線基地の中島砦に入り勝利を誓いました。

この時、蟄居中であった前田利家も参陣。

 

【今川義元 桶狭間山に着陣】

織田の前線基地 中島砦から約3kmの距離にある桶狭間山に義元が着陣。

ここで今川軍は酒宴を始め、すでに戦勝ムードが漂っていたと言われています。

 

一方、織田軍は義元が桶狭間山で休憩中との報を受け、13時頃に中島砦を出撃。

一説には、暴風雨の吹き荒れる中での出撃たったと言われています。

敵の大将 今川義元の首だけを目指し、進軍を開始しました。

 

【織田軍が義元本隊を急襲】

中島砦を出てから約1時間後、桶狭間山に到着した織田軍が今川義元の本体を急襲。

戦勝ムードに浸り、完全に油断していた今川軍は大混乱に陥りました。

もはや立て直し不可能と判断した今川軍は退却を開始。

 

【今川義元討死】

桶狭間山を急襲してから約1時間後、退却する今川軍に肉薄した織田軍の『服部小平太』が、義元を襲撃。

義元は応戦し反撃しますが、続いて襲い掛かってきた『毛利新介』の攻撃により落命。

総大将の義元を討たれた今川軍は総崩れとなり、織田軍の勝利となりました。

 

その後、桶狭間山近くの丘で、義元の首実検を行ったと言われています。

 

今川義元は凡将か?

昨今はだいぶ見直されつつありますが、まだまだ義元に対する悪いイメージは残っていると思います。

一説には、今川軍2万5千に対し、織田軍は3千とも言われており、確かに結果だけをみれば大軍を擁しながら無残に敗れた義元は愚将ということになります。

 

ですが、それは結果論であり、義元は壮絶な家督争い(花倉の乱)を制し、今川家の当主となり、駿河、遠江、三河の三国を支配した大大名です。

太原雪斎(たいげん せっさい)という有能な右腕をも従わせ、武田信玄や北条氏康とも互角に渡り合った名将です。

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桶狭間の敗戦と言うのは、いわば交通事故のようなものであり、義元が無能だったから討ち取られた訳ではないと思っています。

 

義元が無能だったから討ち取られたのであれば、本能寺において無防備な状態で明智光秀に討たれた織田信長の方が、はるかに無能です。

 

また、義元は公家風の衣装を身にまとい、でっぷりと太った容姿で描かれることも多いですが、あれも後世の人々が勝手に悪いイメージを持っているにすぎません。

今川家は足利将軍家に近い家柄であったため、公家風な容姿をしていたのは事実と思われますが、当時の公家文化とは権威を示すものであり、今川家の象徴でもありました。

 

戦国時代は、朝廷権威が失墜していたかのようなイメージですが、義元あたりの時期は、まだまだ朝廷権威は健在で、戦国武将たちの正当性を示す、あるいは権威を象徴するものとして存在しています。

 

桶狭間での敗戦という、たった1度のミスにより、後世にまでダメ武将のイメージを持たれてしまった戦国一の不運な武将。

それが『今川義元』と言えるのではないでしょうか?

 

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まとめ

以上、桶狭間の戦いの流れを、出来るだけ簡略化してお伝えしました。

 

戦国時代の三大奇襲戦にも数えられる桶狭間の戦いですが、本当に奇襲だったのか?そもそも信長は不利だったのか?などなど、たくさんの疑問が投げかけられていることも事実です。

 

実像が分からない部分も多い戦いですが、今川家という巨大勢力が衰退していくキッカケとなり、信長が台頭していく契機となったことには変わり有りません。

そういった意味では、歴史に大きな影響を与えた戦いだったのかと思います。

 

織田信長や今川義元だけでなく、他の戦国武将に関する情報はコチラをご覧ください。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。