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拓麻呂です。
令和二年(2020年)のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。
主人公の明智光秀ということもあって、藤田伝吾など今まであまり描かれてこなかった明智家の家臣が登場します。
その中の一人が『明智左馬助(明智秀満)』。
斎藤利三と並び、光秀の片腕とも言える重臣です。
そんな左馬助は『明智』を名乗っていますから、当然光秀と近い関係にあります。
意外と知られていない光秀と左馬助の関係を、家系図を使って簡単に解説します。
明智光秀と明智左馬助(明智秀満)
光秀と左馬助の関係
まずは、こちらの系図をご覧ください。
左馬助は光秀の長女を妻としています。
なので、左馬助から見ると光秀は義父ということになります。
この長女の名前は不詳ですが、一説には『お藤』とか『倫(さと)』と言われています。
もともと荒木村重という武将の息子(村次/村安)に嫁いでいましたが、村重が主君の織田信長を裏切ったため、離縁となり、その後左馬助に嫁ぎました。
↓荒木村重の謀反についてはコチラの記事をご覧ください。↓
父親を巡る謎
このように。光秀とは義理の親子でだった左馬助ですが、その父親が誰だかよくわかっていません。
一説には、光秀の叔父にあたる『明智光安』の子とされています。
この説に従うならば、光秀と左馬助は『いとこ』ということになります。
ただ、左馬助の出自に関しては異説が多く謎だらけなのですが、そのなかでも一般的に採用されているのが『三宅氏』の一族だという説です。
父親は『三宅出雲(みやけ いずも)』なる人物で、左馬助はもともと『三宅弥平次』と名乗っていたと言われています。
この他にも、『遠山氏説』、『塗師の子説』、『白銀師の子説』など様々な説が存在しますが、概ね『明智光安の子説』か『三宅氏説』のどちらかであろうとされています。
今現在、どちらが正しいか知る術はないのですが、左馬助の息子とされている人物が『三宅重利』で、『三宅』を名乗っているので、個人的には『三宅氏説』を支持しています。
光秀の懐刀『明智左馬助』
このように出自のハッキリしない左馬助ですが、光秀に信頼された重臣であったことは間違いありません。
光秀には『斎藤利三』、『明智光忠』、『藤田行政(藤田伝吾)』、『溝尾茂朝(溝尾庄兵衛)』、そして『明智秀満(明智左馬助)』という五人の重臣(明智五宿老)がいましたが、そのなかでも筆頭格だったのが左馬助です。
左馬助は、本能寺の変で明智軍の先鋒となって大奮戦。
山崎の戦い後に光秀が亡くなった後も、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に徹底抗戦の姿勢を貫き坂本城で籠城戦を戦い抜きました。
この時に生まれたのが『左馬助の湖水渡り』というエピソードです。
そして、左馬助は大奮戦のすえ、城内にいた妻子を殺害した後に自害。
一族もろとも、潔く散る道を選びました。
最後の最後まで、明智家重臣としての役目を果たし続けた人生でした。
まとめ
以上、明智光秀と明智左馬助(秀満)の関係でした。
左馬助は光秀の妻を娶っているので、義理の親子の関係。
一説には、明智光安の息子とされていて、これが正しいとするならば、光秀と左馬助はいとこの関係。
謎こそ残るものの、信頼関係の熱い主従関係であったことは間違いない。
という感じになるのでした。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。