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拓麻呂です。
溝尾茂朝(みぞお しげとも)という戦国武将をご存じでしょうか?
かなりマニアックな人物ですが、あの明智光秀の家臣です。
2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場するのではないかと個人的には思っているのですが・・・。
知名度がほとんど無く、その事績や人物像も不鮮明な謎の武将『溝尾茂朝』とは一体どのような人物だったのでしょうか?
また、その最期はどのようなものだったのでしょうか?
明智五宿老『溝尾茂朝』
溝尾茂朝の基本情報
溝尾茂朝はかなりマニアックな人物なので、まずは彼の簡単なプロフィールからお伝えします。
【本名】溝尾茂朝(みぞお しげとも)※一説には『三沢』という苗字だったとも言われている。
【通称】庄兵衛 ※小兵衛、昌兵衛、惣兵衛、勝兵衛と表記する場合もある。
【生年】天文7年(1538年)
【没年】天正10年(1582年)
【享年】45
【出身地】不詳 ※光秀が織田信長と足利義昭を仲介する時に初めて登場するため、その前半生はほとんど分かっていない。
また、光秀の重臣『明智五宿老』の一人でした。
明智五宿老のメンバーを以下の通りです。
明智秀満(あけち ひでみつ)
明智光忠(あけち みつただ)
斎藤利三(さいとう としみつ)
藤田行政(ふじた ゆきまさ)
そして溝尾茂朝(みぞお しげとも)
光秀が本能寺の変を決意した時、五宿老はその気持ちを最初に打ち明けられたと言われています。
茂朝ら五宿老に対する光秀の信頼が、とても大きなものだったことが分かります。
溝尾茂朝と山崎の戦い
本能寺の変後、光秀と秀吉が争った山崎の戦い。
光秀は細川幽斎や筒井順慶を味方に引き入れることに失敗し、圧倒的に不利な状況で決戦に臨みました。
茂朝は、同じく五宿老の斎藤利三、藤田行政(伝五)らとともに奮戦しますが、兵力差は如何と見しがたくあえなく敗北。
秀吉が勝利し明智軍は撤退しますが、光秀が落ち武者狩りに襲われ深手を負います。
傷を負い逃げられないと悟った光秀は自害。
この時に介錯を行ったのが溝尾茂朝と言われています。
その後も、光秀の首を守りながら敗走を続けていましたが、再び落ち武者狩りに襲われました。
茂朝は光秀の首を竹藪に隠し、光秀の居城 坂本城に辿り着いたのちに自害して果てました。
明智光秀と溝尾茂朝
本能寺の変、そして山崎の戦いの後、茂朝を含め五宿老は壊滅しました。
ある者は自害し、ある者は捕らえられ処刑され、主君の光秀と運命をともにしました。
明智秀満は光秀亡き後も徹底抗戦し、坂本城落城とともに自害。
斎藤利三は山崎の戦後に捕縛され処刑。
明智光忠は本能寺の変で重傷を負い養生中、光秀自害を知りに自らも自害。
藤田行政は山崎の戦いで重症を負い敗走、その最中に光秀自害を知りに自らも自害。
その中でも、光秀自害のその時まで側に付き従うことができたのは茂朝だけした。
最期まで光秀の傍らにいて、介錯まで務めた茂朝は、光秀のとってまさに忠臣の中の忠臣だったのかもしれませんね。
まとめ
以上、明智五宿老の一人 溝尾茂朝についてでした。
光秀が本能寺の変を決意した時、その心中を最初に告げられたのが明智五宿老でした。
五宿老の中でも、秀満と利三は無謀であると反対したとも言われていますが、最終的には5人とも変に参加し活躍しています。
なんだかんだで、光秀と五宿老の結束は固かったのでしょう。
その中でも、最後まで光秀に付き従い介錯を務めた茂朝が、最も信頼されていた家臣だったのかもしれません。
他にも、明智光秀の性格や人物像、本能寺の変についてなどの記事を扱っています。
ここを見れば『明智光秀』と、その妻『妻木煕子』のすべてが分かる!
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。