ご来訪ありがとうございます。
拓麻呂です。
2019年の大河ドラマ『麒麟がくる』で主人公となる明智光秀の家臣を簡単な列伝付きでご紹介!
光秀本人は、本能寺の変を起こした非常に有名な人物ではあるのですが、その家臣団は案外知られていません。
ですが、変の首謀者とされている重要人物『明智五宿老』などを抑えておき、大河ドラマをより楽しむための予習、復習にぜひご活用ください。
明智光秀を支えた武将たち
一門衆
明智光秀 あけち みつひで(??~1582)
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と並ぶ、戦国武将の中でも非常に有名な人物。
しかしながら、その前半生は不明な部分が多い。
明智氏は美濃国(現在の岐阜県)を本拠とする豪族で、室町時代に守護を務めた土岐氏の流れをくむとも言われています。
斎藤道三、義龍父子が争った『長良川の戦い』で道三に味方し敗れたため、越前国(現在の福井県)の朝倉氏を頼って落ち延びたという説があります。
この、朝倉氏の庇護を受けた辺りから光秀は歴史上に登場してきます。
この時期、京都を追われた室町幕府15代将軍 足利義昭が朝倉義景に保護されていました。
そして、義昭が京都に復帰する為、信長の力を頼ろうと、義昭、信長間の仲介をしたのが明智光秀(と細川藤孝)でした。
ここで光秀と信長に接点が出来ます。
その後、信長の協力により義昭は京都に復帰しすが、後に不仲となり袂を分かちます。
この時に、光秀は信長に従い、織田家の家臣となりました。
これ以降、丹波攻略戦などで活躍し、信長の覇道に大きく貢献していきます。
そして、光秀と言えば1582年『本能寺の変』です。
本能寺の変の動機は、光秀怨恨説、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説など様々な憶測が飛び交っており、今なお真相はわかっていません。
本能寺の変後は、中国地方から戻ってきた秀吉と激突した『山崎の戦い』で敗北。
敗走している途中、小栗栖で落ち武者狩りに合い命を落としたと言われる一方で、その後も生き延び『南光防天海(なんこうぼう てんかい)』という僧侶になったとも言われています。
明智秀満 あけち ひでみつ(1536?~1582)【明智五宿老】
光秀の信任が厚かった武将。
光秀の右腕的人物で、明智五宿老の一人。
通称『左馬之助』。
明智光秀と名前が似ているので、ちょっと紛らわしい・・。
一説には、明智満春とも言われています。
本能寺の変の中心的人物でもあり、変の際には先鋒を務めています。
光秀と秀吉が争った山崎の戦いの時、秀満は安土城を攻めていました。
その最中、光秀が亡くなったことを知った秀満は、馬に乗って琵琶湖に飛び込み、そのまま居城の坂本城まで帰り着いたという伝説があります。
これが『明智左馬助の湖水渡り』と言われる、非常に有名な伝説です。
その後、秀吉軍に坂本城を包囲され、もはやこれまでと、自身の妻、光秀の妻子を刺した後に自刃しました。
明智光忠 あけち みつただ(1540~1582)【明智五宿老】
光秀のいとこで、明智五宿老の一人。
本能寺の変を起こした中心人物でもあります。
変の際には、信長の長男『信忠』が居た二条城を襲撃。
信忠を自害に追い込むも、光忠は銃撃を受け負傷。
光秀が亡くなったことを知った光忠は、秀満と共に坂本城に籠城。
最後は、秀満とともに自害しました。
明智光近 あけち みつちか(??~1582)
光秀のいとこ、もしくは光忠の息子と言われていますが定かではありません。
本能寺の変後、山崎の戦いで片桐且元に討たれました。
明智五宿老
斎藤利三 さいとう としみつ(1534~1582)
明智秀満、明智光忠と並ぶ明智五宿老の一人。
明智光秀の家臣と言えば、この人が最も有名ではないかと思われます。
徳川三代将軍 家光の乳母を務めた春日局は、利三の娘です。
利三は四国の長宗我部元親と親戚関係にあり、織田と長宗我部間の外交を担当していました。
その結果、織田と長宗我部は良好な関係を築きましたが、勢力が大きくなってきた信長は、長宗我部を蔑ろにし始め、ついに挙兵。
利三自身も、利三の主である光秀も面目丸潰れとなり、この屈辱が本能寺の変の遠因をする説もあります。
明智秀満、明智光忠、藤田行政、溝尾茂朝らと同様に、本能寺の変を起こす光秀の意志を早くから知らされていた重臣。
ですが、当初の利三は本能寺の変に反対しており、やむなく参加したとも言われています。
本能寺の変の後、光秀と豊臣秀吉が激突した『山崎の戦い』では、明智軍の先鋒として活躍するも敗北。
光秀は逃走中に落ち武者狩りに襲われ落命。
利三も逃亡しますが、秀吉の捜査網からは逃れることが出来ず捕縛、処刑されました。
藤田行政 ふじた ゆきまさ(??~1582)
明智秀満、明智光忠と並ぶ明智五宿老の一人。
明智伝五の名でも知られています。(大河ドラマ 麒麟がくるでは『藤田伝吾』)
光秀の父『明智光綱』の代から仕えていたと言われています。
明智秀満、明智光忠、斎藤利三、溝尾茂朝らと同様に、本能寺の変を起こす光秀の意志を早くから知らされていた重臣です。
本能寺の変後、山崎の戦いでは、日和見をしていた筒井順慶を味方にしようと交渉役を担うも失敗。
山崎の戦いで全身に傷を負い、最後は自刃しました。
溝尾茂朝 みぞお しげとも(1538~1582)
明智秀満、明智光忠と並ぶ明智五宿老の一人。
光秀の丹波攻略で活躍した武将。
明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政らと同様に、本能寺の変を起こす光秀の意志を早くから知らされていた重臣です。
徳川家康が信長に謁見する為、京を訪れた時には、饗応役を務めています。
山崎の戦いの後は、光秀とともに敗走。
光秀が落ち武者狩りで負傷し自刃した時には介錯を務め、光秀の首を守りさらに逃走。
しかし、別の落ち武者狩りに合い負傷し、最後は自害して果てました。
妻木一族
妻木氏は、光秀の正室である『妻木煕子』の生家です。
妻木広忠 つまき ひろただ(1514~1582)
光秀の正室『煕子』の叔父に当たる人物。
妻木範煕と同一人物とも言われていましたが、現在では範煕の兄とされています。
山崎の戦いで光秀が敗れた後、明智軍の戦死者を弔う墓を作り、その墓前で自害したと伝わっています。
妻木範煕 つまき のりひろ(??~??)
光秀の正室『煕子』の父親。
妻木広忠と同一人物とも言われていましたが、現在では別人とされています。
妻木範賢 つまき のりかた(??~??)
光秀の正室『煕子』の弟。
本能寺の変後は、明智秀満に従軍したと言われています。
妻木範武 つまき のりたけ(??~??)
光秀の正室『煕子』の弟。
妻木範之 つまき のりゆき(??~??)
光秀の正室『煕子』の弟。
明智三羽鴉(あけちさんばがらす)
明智三羽鴉とは、本能寺の変で真っ先に突撃した3名の武将の総称です。
安田国継 やすだ くにつぐ(1556~1597)
通称『作兵衛』。
本能寺の変で真っ先に突撃した一人。
信長の小姓で美男子と伝わる森蘭丸を討ち取ったのは、この安田国継だと言われています。
本能寺の変後は、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂など、そうそうたる面々に仕えました。
古川九兵衛 ふるかわ きゅうべえ(??~??)
本能寺の変で真っ先に突撃した一人。
箕浦大内蔵 みのうち おおくら(??~??)
本能寺の変で真っ先に突撃した一人。
敵は本能寺にあり
以上、明智光秀の主要家臣団でした。
今回ご紹介した以外にも、『旧幕臣』や『丹波衆』などもいるのですが、あまりに詳細が不明なため、それなりの逸話の残る主要な人物のみ取り上げました。
とくに『明智五宿老』と言われる『明智秀満』『明智光忠』『斎藤利三』『藤田行政』『溝尾茂朝』ら5名は、早くから本能寺の変を知らされていた重要人物です。
彼らとの信頼関係があったからこそ、光秀は本能寺の変の決行に踏み切れたのかなとも感じます。
歴史を大きく動かした大事件『本能寺の変』。
そんな裏切り行為であったにも関わらず、彼ら5人は最後まで光秀に従って戦いました。
また、光秀には、妻である煕子との心温まるエピソードも残されています。
単なる謀反人では終わらない、大きな人間的魅力を持った人物。
それが明智光秀だったのかなとも思います。
他にも、明智光秀の性格や人物像、本能寺の変についてなどの記事を扱っています。
ここを見れば『明智光秀』と、その妻『妻木煕子』のすべてが分かる!
2020年大河ドラマ 麒麟がくる放送記念
【明智光秀&妻木煕子 大特集】
他の戦国武将の家臣団に関して知りたい方は、コチラをご覧ください。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。