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拓麻呂です。
美濃の蝮と呼ばれた戦国大名『斎藤道三』。
織田信長や明智光秀らとも関わりを持つ、重要な武将です。
そんな斎藤道三に仕えた主要家臣団の一覧です。
美濃の蝮 斎藤道三と家臣たち
斎藤道三の一門衆
斎藤道三 さいとう どうさん(??~1556)
下剋上の代表格で『美濃のマムシ』と呼ばれた謀将。
松永久秀、宇喜多直家と並び、戦国の三梟雄に名を連ねています。
一昔前までは、道三が一人で美濃一国を乗っ取ったとされていましたが、最近では親子二代で成し遂げたものだと言われています。
美濃はもともと土岐氏の守護国で、土岐頼芸(とき よりなり)が治めていました。
道三は土岐氏に仕えていましたが、謀略によって頼芸を追放、美濃一国を手に入れました。
後に『うつけ』と呼ばれていた織田信長と同盟。
同盟に先立ち、信長と面会した時にその才能を見抜いたと言われています。
なお、この同盟で信長に嫁いだのが、道三の娘である『濃姫』です。
最後は、嫡男の義龍を不破になり、長良川の戦いに発展。
信長が援軍に向かいますが間に合わず、戦場に散りました。
斎藤義龍 さうとう よしたつ(1527~1561)
道三の嫡男。
身長が2メートル近くあったそうです。
一説には、道三に美濃を追放された土岐頼芸と側室の間に授かった子供で、後にその側室が道三に嫁いだため、実際は土岐頼芸の子供だと言われています。
そのためが、道三は義龍ではなく次男坊に家督相続しようとしていました。
道三は頼芸を追放した過去もあります。
こういった要因が重なり、後の父子間の争い『長良川の戦い』に発展していったと思われます。
長良川の戦いで道三を破り家督を手に入れますが、約5年後に亡くなりました。
斎藤龍興 さいとう たつおき(1548~1573)
年代的に道三との直接的な関りは薄いですが、ある意味有名な人物なので取り上げました。
義龍の息子。
道三から見ると孫。
義龍亡き後に斎藤家の当主となりました。
義龍が斎藤家当主になった時期は、織田信長が美濃攻略に集中していた時期と重なります。
無能な当主として名高く、当主就任からわずか6年で、信長によって斎藤家は滅ぼされました。
龍興の有名なエピソードとして、竹中半兵衛との逸話があります。
もともとは龍興の家臣であった半兵衛は、政務を顧みず遊んでばかりいる龍興に愛想を尽かし、一計を案じます。
半兵衛はわずか16名で、斎藤家の居城 稲葉山城を襲撃。
酒宴でどんちゃん騒ぎをしていた龍興は不意を突かれ、わずか16名の襲撃で稲葉山城を乗っ取られてしまいました。
その後、半兵衛は稲葉山城を返還。
斎藤家が滅亡してからは朝倉家を頼るも、信長の朝倉攻めの際に討死しました。
斎藤道三の家臣団
明智光安 あけち みつやす(??~1556)
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の叔父にあたる人物。
長良川の戦いでは道三に味方するも敗北。
居城に籠りましたが、最後は自害して果てました。
なお、明智光秀も道三に味方しており、戦後は浪人となり、後に信長へ仕えることになります。
稲葉一鉄 いなば いってつ(1515~1588)
美濃三人衆の筆頭。
美濃を土岐氏が支配していた頃からの家臣。
稲葉良通の名でも知られています。
頑固一徹という言葉がありますが、一鉄の頑固な性格が語源と言われています。
信長が美濃を攻めた際に寝返り、斎藤家の攻略を手助けしました。
本能寺の変後は、豊臣秀吉に仕えました。
安藤守就 あんどう もりなり(??~1582)
美濃三人衆の一人。
竹中半兵衛の、稲葉山城乗っ取りにも加担しています。
信長が美濃に攻めてきた時に寝返り、美濃攻略を手助けしました。
伊勢長島の一向一揆攻めの出陣するも、撤退時に襲撃され負傷。
なお、この時に同じく美濃三人衆の一人である『氏家卜全』が討死しています。
過去に武田信玄に寝返ろうとしたらしく、罪に問われて追放されました。
そして、本能寺の変に便乗して再起を図りましたが、美濃三人衆筆頭の稲葉一鉄の部隊と戦い討ち取られました。
氏家卜全 うじいえ ぼくぜん(??~1571)
美濃三人衆の一人。
土岐氏の時代から仕えていた人物。
信長が美濃に攻めてきた時に寝返り、美濃攻略を手助けしました。
伊勢長島の一向一揆攻めにも参加しましたが、撤退戦で殿軍を務め討死しました。
不破光治 ふわ みつはる(??~??)
一般的には、稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全を美濃三人衆と呼びますが、ここに不破光治を加え『美濃四人衆』とする場合もあります。
斎藤家滅亡後は、織田家に仕えます。
織田家では、前田利家、佐々成政と並び『府中三人衆』の一人に数えられています。
丸茂光兼 まるも みつかね(??~??)
斎藤家の忠臣。
信長の美濃攻めで、次々と寝返った美濃三人衆とは対照的に、斎藤家に忠義を尽くしました。
安藤守就、氏家卜全が攻めてきた際には、男女問わず農民たちを動員し対抗。
見事撃退することに成功しました。
日根野弘就 ひねの ひろなり(1518?~1602)
斎藤義龍が家督相続に際し、弟2人を斬殺しています。
その時に、弟たちを斬ったのが弘就だと言われています。
斎藤家の滅亡後は、浅井長政に仕えますが、家臣を殺めて出奔。
その後、織田信長、豊臣秀吉に仕えました。
まとめ
以上、斎藤道三の主要家臣団一覧でした。
信長や秀吉よりも世代が上なため、彼らの活躍期にはすでに亡くなっていた道三。
道三亡き後に、信長によって攻略された美濃一国。
信長を認め、娘(濃姫)を嫁がせた織田家によって滅ぼされた斎藤家。
戦国時代の苛烈さが伝わってきますね。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。