山陰の雄!尼子経久、尼子晴久の主要家臣団一覧!毛利元就のライバルたち

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戦国大名の家臣団

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

戦国時代の中国地方の大大名。

毛利氏、大内氏、そして尼子氏。

 

典型的な下剋上で成り上がり、一時は山陰地方11カ国を有した尼子経久を始め、戦国初期から中期の中国地方で活躍した尼子家臣団のご紹介です。

 

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尼子経久、晴久の家臣たち

尼子経久、晴久の一門衆

尼子経久 あまご つねひさ(1458~1541)

尼子家を山陰の大大名に押し上げた戦国時代初期を代表する名将。

個人的には、戦国初期の東国を代表する武将が北条早雲ならば、西国の代表は尼子経久を推します。

 

若かりし頃に家督を相続するも、寺社領を横領したりしたため、出雲守護の京極氏と不和になり、本拠の月山富田城から追放されてます。

しかし、その2年後に奇策を持って城を奪還し、逆に京極氏を追放、西国における下剋上の先駆けとなりました。

 

その後は出雲を拠点に勢力を拡大、11カ国を領有する大大名となり、尼子家を大内家並ぶ中国地方を二分する巨大勢力にまで成長させました。

経久亡き後、徐々に尼子の衰退がはじまることを考えると、まさに一代の英雄でした。

 

また、人に褒められると直ぐに贈り物を与える癖があったらしく、家臣が庭の松の木の枝を賞賛したところ、その松を引っこ抜いて家臣に与えようとしたため、周りの者に制止されたというエピソードが残っています。

気前のいい豪快な性格の持ち主だったと思われます。

 

ともかくも、戦国時代初期を代表する名将であることは間違いありません。

 

尼子久幸 あまご ひさゆき(??~1541)

経久の弟。

経久と晴久の二代に仕えました。

 

台頭しつつあった毛利元就を倒すため、当主の晴久が毛利の居城 吉田郡山城に攻めるため息巻いていましたが、老練な久幸はこれを無謀であるとして晴久を諫めようとしました。

ところが晴久は、久幸の態度を見下し『臆病野州』なる不名誉なあだ名を付け、臆病者のレッテル張りをしました。

 

屈辱的な扱いを受けたまま、久幸は毛利攻めに参加。

しかし、元就の巧みな戦術に翻弄された尼子軍は、圧倒的な戦力を有していたにも関わらず、城を落とすことが出来ませんでした。

それどころが、逆に元就の勇名を轟かせてしまい、作戦は大失敗。

この戦闘の最中、毛利の援軍に来た陶晴賢の奇襲により、久幸は討ち取られたと言われています。

この戦いを『吉田郡山城の戦い』と言います。

 

尼子政久 あまご まさひさ(1488~1518)

経久の嫡男。

文武両道の名将と伝わっている人物。

 

笛の達人だったそうで、政久の奏でる音色は兵を鼓舞することがありました。

しかし、この笛の音が政久に不幸をもたらします。

出雲にある阿用城(磨石城)攻めの総大将として出陣した政元でしたが、なかなか落とせず苦戦します。

そこで得意の笛で部隊を鼓舞したのですが、城内から笛の音のする方に矢が放たれ、不運にも政久の喉に直撃。

26歳の若さで亡くなりました。

 

本来であれば、経久の後を継ぐ人物であっただけに、政元が生きていれば尼子の歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。

 

尼子国久 あまご くにひさ(1492~1554)

経久の次男。

武勇に優れた尼子の主力部隊『新宮党』を率いた猛将。

『新宮党(しんぐうとう)』とは、新宮谷に屋敷があったことに由来しています。

数々の戦に従軍し、新宮党の名に恥じぬ戦果で、尼子家の発展に大きく貢献しました。

 

しかし、その武勇を鼻にかけ、横柄な態度が目立っていた為、新宮党は周囲から煙たがられる存在になっていきます。

そして、新宮党の態度に業を煮やした当主の晴久に呼び出され騙し討ちにされ、新宮党は全滅しました。

この事件は、毛利元就の陰謀という説もあり、主力を失った尼子氏は徐々に衰退していくことになります。

 

塩冶興久 えんや おきひさ(1497~1534)

経久の三男。

政久、国久の弟。

出雲源氏の嫡流である塩冶氏を取り込むため、塩冶家の養子となりました。

 

塩冶家の当主として、尼子家の勢力拡大に尽力するも、褒賞への不満など複数の要因により、経久に反旗を翻す。

興久は大内義隆(大内氏は尼子と中国地方を二分していた大名家)に援軍を求めましたが、大内としては尼子、塩冶の共倒れを望んでおり、優勢であった塩冶氏には味方しませんでした。

 

結局は尼子本家に押し切られ、興久の自害をもって乱は終結しました。

 

尼子晴久 あまご はるひさ(1514~1560)

経久の孫にあたる人物。

父の政久が若くして亡くなっていた為、祖父である経久の後に家督を継承。

大内氏と凌ぎを削りながらも、徐々に台頭しつつあった『毛利元就』とも争い、3万ともいわれる大群で毛利の居城 吉田郡山城を包囲したが失敗に終わりました(吉田郡山城の戦い)。

その翌年に『大内義隆』の軍勢に月山富田城を包囲されるが見事に撃退するなどの活躍も見せています。

 

しかし、横暴な態度が目立っていた、尼子家の最大戦力である『新宮党』を粛清したため、尼子家の斜陽を招いたとされ、暗愚な武将として扱われることも。

この粛清事件は、尼子家の戦力を低下させようとした毛利元就の謀略であったという説もあります。

 

現在、世界遺産となっている石見銀山(いわみぎんざん)を巡って、元就と争っている最中に急逝。

経久、晴久を失った尼子家の没落は、一気に加速していくことになります。

 

尼子誠久 あまご さねひさ(1510?~1554)

国久の嫡男で、尼子の主力部隊『新宮党』の一員。

父とともに多くと合戦で活躍し尼子家を支えますが、横着になりすぎたため新宮党は粛清されました。

後に、山中鹿介によって尼子家再興のシンボルとなる『勝久』は、誠久の息子です。

 

尼子義久 あまご よしひさ(1540~1610)

晴久の嫡男で、実質的に尼子家最後の当主。

父 晴久の急逝により21歳で家督を相続。

 

父の政策から一転し、毛利元就との講和を模索。

しかし、老練な元就はこの隙をつき、晴久の代から争点であった石見銀山を奪取。

義久の弱気な態度に不安を示した多くの国衆が、毛利方に寝返る事態となりました。

 

結局、毛利との講和も実現せず、尼子家代々の名城 月山富田城を包囲され落城。

ここに山陰の雄 尼子氏は滅亡した。

なお、義久は助命され、後に山中鹿介と尼子勝久による尼子家再興の動きにも全く呼応せず、静かな余生を送っています。

元就との講和を模索していたことからも、根っからの平和主義者だったのではないでしょうか。

 

 尼子勝久 あまご かつひさ(1553~1578)

新宮党の一員だった誠久の五男。

新宮党が粛清された時はわずか2歳で、乳母とともに京都に亡命して僧になっていました。

 

後に、尼子は毛利によって滅亡させられるも、山中鹿介を中心とする旧臣たちが尼子家再興を掲げ蜂起。

その際に、出家していた勝久を大将として迎え、尼子家再興のシンボルとなりましたが、再興軍も毛利に負けてしまい、織田信長を頼り上月城の防衛にあたります。

しかし、上月城は毛利の大群に包囲され、さらに信長からも見捨てられて援軍もなく完全に孤立。

勝久が自害したことで、尼子家再興の夢は崩れ去りました。

 

尼子経久、晴久の家臣団

宇山久兼 うやま ひさかね(1511~1566)

尼子家の筆頭家老。

吉田郡山城の戦いや、毛利氏との石見銀山を巡る戦いなど、尼子家の重要な戦いに従軍し活躍。

尼子の居城 月山富田城が毛利に包囲された際も、兵糧集めのために自腹を切るなどの忠節ぶりを見せて活躍。

しかし、大塚与三衛門という武将の讒言により、毛利への内通を疑われ処刑されてしまった悲運の武将。

久兼を失った尼子は一気に崩れ、月山富田城は落城、尼子家は滅亡しました。

このような事態を招いた大塚与三衛門の罪は大きい。

 

多胡辰敬 たご ときたか(1497~1562)

尼子晴久の忠臣。

17箇条から成る『多胡家家訓』を定めた人物としても知られ、生涯その家訓を実践し続けたと言われています。

多胡家家訓の中にある『命は軽く、名は重い』の言葉でも著名。

 

かなり教養豊かな人物だったようで、連歌師を招き和歌を詠んだりもしています。

 

佐世清宗 させ きよむね(??~??)

晴久と義久の2代に仕えた武将。

尼子家臣の中では、宇山久兼に次ぐ所領を持っていた尼子家の中心人物。

尼子氏の主要合戦でも活躍。

毛利元就によって月山富田城を包囲され、徹底的な兵糧攻めにあい、極限まで耐え続けたが降伏し、以後は毛利家臣となる。

 

教養人でもあり、連歌会に参加したり、画家としても活躍しました。

 

立原久綱 たちはら ひさつな(1531~1613)

山中鹿介の叔父にあたる人物で、晴久と義久の2代に仕えた武将。

尼子家滅亡後、鹿介を中心とした尼子家再興にも呼応。

尼子勝久を擁立し、毛利家と争いました。

 

上月城が落城し、尼子勝久は自刃、鹿介は処刑され、久綱も捕縛されましたが、うまく脱走し、83歳まで生きました。

 

亀井秀綱 かめい ひでつな(??~??)

尼子経久の忠臣で、晴久、義久までの3代に仕えた武将。

主君 経久とともに、大内義興の軍勢に加わり上洛、船岡山合戦にも参戦しています。

 

毛利元就の家督相続の際、元就の腹違いの弟である相合元綱(あいおう もとつな)をそそのかし、お家騒動となりますが、元綱を裏で操っていたのが尼子であり、その中心人物が秀綱であったと言われています。

 

出雲国内の寺社を管轄していた人物でもあり、出雲大社などとも多くの書状をやり取りしていました。

 

山中鹿介 やまなか しかのすけ(1545?~1578)

尼子の家臣と言えば真っ先に名前が挙がる忠臣。

毛利元就に滅ぼされた尼子家の再興に生涯をかけた人物。

鹿介は通称で、実名は『幸盛』。

三日月に向かって『我に七難八苦を与えたまえ』と願ったエピソードでも有名です。

 

毛利家によって滅亡した尼子家を再興させるため旧臣たちを糾合し、京都で僧になっていた尼子誠久の五男 勝久を担ぎ挙兵。

最初は順調に進み、旧領を回復していきましたが、毛利の反撃を受け徐々に劣勢になり、一旦は失敗に終わります。

しかし、鹿介は囚われの身となるが脱走し、織田信長に救援を乞い、織田軍の先鋒として毛利と戦いまいた。

 

鹿介は上月城(こうづきじょう)を守備し、毛利の大群に包囲されてしまいます。

ところが、信長は上月城に救援をださず、鹿介は見捨てられ落城。

勝久は自刃、鹿介は捕らえられ、護送中に処刑されました。

 

鹿介が亡くなったことで、戦国尼子氏の火は完全に消え失せました。

 

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山陰の雄 尼子家

以上、尼子経久、晴久の主要家臣団一覧でした。

 

尼子家を巨大勢力にした経久は、戦国時代初期の人物で、中期から後期なって活躍する武田信玄や上杉謙信、織田信長や豊臣秀吉などとも全く関りがありません。

しかも、経久以降があまりパッとせず、巨大勢力の割には比較的早く滅亡してしまったので史料も少なく、知名度や人気が低いのも残念なところです。

 

しかし経久の実力は、後年登場する毛利元就や、織田信長、武田信玄らと比較しても引けをとらないものであったと考えています。

 

東国の下剋上の雄が北条早雲なら、西国は尼子経久です。

戦国ファンとしては、もっともっと世間に注目してほしい武将たちですね。

 

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。