最上義光は『出羽の狐』と呼ばれた戦国大名です。
東北地方と言えば、伊達政宗がクローズアップされがちですが、最上家も伊達家に負けない存在感を発揮しています。
東北は伊達だけじゃない!最上義光の主要家臣団一覧です。
鮭様 最上義光と家臣たち
最上義光の一門衆
最上義光 もがみ よしあき

山形城址の最上義光像
生年:天文15年(1546年)
没年:慶長19年(1614年)
最上家11代当主。
『出羽の狐』と呼ばれる策略家である一方、高身長でガタイの良い豪傑でもあったようです。名前の『義光』は『よしみつ』ではなく『よしあき』と読みます。妹の『義姫(よしひめ)』は、伊達政宗の生母として有名です。(政宗は義光の甥にあたる)
父親の『義守(よしもり)』とは不仲だったと言われており、次男の『義時(よしとき)』に家督を譲ろうとしたため、内乱が勃発。義光は義時を打倒し、最上家の家督を継ぎました。
この争いを『天正最上の乱』と言いますが、史実であったかは疑問視されています。
出羽国(でわのくに、現在の山形県と秋田県南部)の派遣を巡って、大宝寺義氏、小野寺義道らと争い優勢となりますが、豊臣秀吉の勢いが関東から東北まで迫ってきたため、秀吉の小田原征攻めに参陣し恭順を示しました。
なお、この直前に甥の伊達政宗が、実弟の小次郎を処刑する事件が起こっています。
義光の妹であり政宗の生母であった『義姫』が、小次郎を溺愛し政宗を毒殺しようとした事件だったのです。この事件の黒幕が、伊達家の乗っ取りを企てた義光だったと言われています。
秀吉政権下では、娘の『駒姫』を豊臣秀次の側室に送りましたが、秀次に謀反の疑いがかけられ一族が粛清されます。この際に、駒姫も処刑されるという悲劇に見舞われています。
関ヶ原の戦いが起こった際には、上杉景勝や直江景勝を相手に奮戦。
長谷堂城を守り抜き、見事勝利しました。これが、北の関ヶ原と呼ばれる『長谷堂城の戦い』です。
慶長19年(1614)69歳で亡くなりました。
鮭が大好物だったと言われ『鮭様』と呼ばれていたそうです。
最上家親 もがみ いえちか
生年:天正10年(1582年)没年:元和3年(1617年)
義光の次男で、最上家12代当主。長男である義康が、義光と不和になり粛清されたため、当主になりました。家親の『家』の字は、徳川家康の『家』から一字賜った(偏諱)ものです。
関ヶ原の戦いでは、江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠に従軍しており、真田昌幸の籠る上田城を責めています。
父の義光が亡くなった3年後に、36歳の若さで急逝しました。
山野辺義忠 やまのべ よしただ
生年:天正16年(1588年)没年:寛文4年(1665年)
義光の四男。義光の後を継いだ家親の弟。
家親の急逝に伴い、義忠は次期当主候補と目されたため、家親の嫡男『義俊』と家督争いが勃発。このお家騒動が原因で、最上家は領地を没収され、後に水戸藩に仕えることとなります。
後に、いわゆる水戸黄門の教育係を任されたのが、義忠の次男である義堅です。
最上義光の家臣団
氏家定直 うじいえ さだなお
生年:永正元年(1504年)?没年:元亀元年(1570年)?
義光の父である義守の代から最上家に仕える重臣。
義守と義光が不和になった際は、病気と称して裏で工作を図り義守を隠居させ、最上家当主の座を義光に譲渡させました。
氏家守棟 うじいえ もりむね
生年:天文3年(1534年)没年:文禄2年(1593年)?
氏家定直の息子。持ち前の知略で、義光を支えた謀将。
敵方への外交交渉や内応工作などで活躍した、最上家躍進の影の立役者。延沢満延や鮭延秀綱が最上家に降ったのは、守棟の外交力や謀略によるものです。
彼の知略無くして、義光の出羽制圧は実現しなかった言っても良いほどの、最上家躍進のキーマンです。
最上家臣団を代表する武将は誰かと言われれば、僕は氏家守棟と志村光安を挙げます。
氏家光氏 うじいえ あきうじ
生年:永禄8年(1565年)?没年:不明
氏家守棟の養子。妻は最上義光の娘である竹姫。
敗色濃厚な戦の際に、単騎で敵陣に突っ込み、戦局をひっくり返したと言われる猛将。上杉景勝、直江兼続と戦った長谷堂城の戦いでも奮戦。
お家騒動で最上家が改易された後は、毛利家預かりの身になったそうです。
志村光安 しむら あきやす
生年:不明没年:慶長14年(1609年)?
氏家守棟と双璧を成す、義光家臣団を代表する武将。
北の関ヶ原と呼ばれる長谷堂城の戦いでは、長谷堂城を守備するため城に籠り直江兼続に抵抗。城を完全に包囲されるも、見事に守り抜いただけでなく、その直後に上杉領内に侵攻。東禅寺城を攻め落とすと言う戦果を挙げています。
話術も巧みで、光安と口論になっても、絶対に勝てなかったと言われています。
鮭延秀綱 さけのべ ひでつな
生年:永禄6年(1563年)?没年:正保3年(1646年)
もともとは小野寺家臣。小野寺家が義光と争った際、氏家守棟の外交工作により敗れて以降、最上家に仕えました。
長谷堂城の戦いでは、城に籠る志村光安救援のため、後詰として大奮戦。勝利に大きく貢献し、敵であった直江兼続からも、その活躍を絶賛されました。
延沢満延 のべさわ みつのぶ
生年:天文13年(1544年)没年:天正19年(1591年)
もともとは義光と敵対してましたが、氏家守棟の内応工作に降り、最上家に仕えました。
かなりの怪力だったらしく、義光がその怪力を試そうと、家中の力自慢7、8人で満延に襲い掛からせたところ、物ともせず振り払いました。この光景を見た義光は驚き逃げ出しましたが、捕まってしまいます。
その際、義光は桜の木にしがみ付いていたのですが、満延が義光を強引に引っ張ったら、桜の木が引っこ抜けてしまったそうです。
満延の怪力ぶりを示すエピソードですが、桜の木が引っこ抜けるまでしがみついていた義光も、相当な怪力だったのではないでしょうか。
楯岡満茂 たておか みつしげ
生年:天文16年(1547年)没年:寛永16(1639年)
もともとは義光と敵対してましたが、後に最上家に仕えました。
小野寺義道が最上領内に攻めてきた時には、これを撃退する活躍を見せています。禄高が4万石だったそうで、これは最上家で最も多い禄高でした。
東北の雄!最上義光
以上、最上義光の主要家臣団一覧でした。
東北地方の戦国大名と言えば、多くの場合、伊達政宗を思い浮かべると思います。
しかし、政宗とも密接に関わりつつ、着実に地盤を固めていったのが最上義光です。
現在の山形県全域を支配したその実力。
政宗と双璧を成す名将が、最上義光です。
東北は伊達政宗だけではなく、義光も強烈な印象を残した戦国時代を代表する武将だと考えています。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。
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