徳川家康の主要家臣団一覧!戦国時代を制した三河武士たち

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戦国大名の家臣団

戦国時代の最終的に制した徳川家康。

いわゆる『三河武士』と言われる徳川家康の主要な家臣団の一覧です。

 

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戦国時代を最後に制した徳川家臣団

徳川家康の一門衆

徳川家康 とくがわ いえやす(1542~1616)

戦国時代で最後に笑った人物。

織田信長、豊臣秀吉と並ぶ戦国三英傑のひとり。

約260年続く泰平の世は、この徳川家康から始まります。

 

『竹千代』と呼ばれた幼少期は今川義元の人質となっていましたが、桶狭間の戦いで義元が討たれたことで独立を果たします。

 

若かりし頃は、織田家と同盟(と言うか従属)し、信長の覇業に貢献しています。

 

武田信玄と激突した『三方ヶ原の戦い』では、老獪な信玄の策に引っ掛かり大敗北。

敗走途中で恐怖のあまり糞をもらしたのは有名な話です。

 

正室の『瀬名』(築山殿)との間に嫡男『信康』を授かりますが、武田家への内通の疑い有りとして、信長に処刑を命じられ実行しています。

この事件には謎が多く、その原因には様々な説が唱えられています。

 

本能寺の変が起きた際は京都にいて、家康自身も危なかったのですが、伊賀ルートを辿り領国に逃げ帰りました。

これを『神君 伊賀越え』と言います。

 

豊臣政権下では、秀吉の妹『旭』を娶り、政権の中枢を担う五大老に列せられました。

 

秀吉没後は、関ヶ原の戦いで石田三成を撃破。

これにより、家康の権威はゆるぎないものとなり江戸幕府を開きます。

その後、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の世は揺るぎないものとなりました。

 

それから約一年後、大好物だった天ぷらを食べ、腹を壊して亡くなったと言われています。

享年75

 

家康が眠る日光東照宮は世界遺産となり、毎年多くの観光客が訪れています。

徳川家康のホトトギスが鳴くまで待った性格について簡単解説
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松平信康 まつだいら のぶやす(1559~1579)

家康の嫡男。

正室『瀬名』との間に生まれ、将来を有望視されていた武将。

 

とても武勇に長けた青年であった一方、踊り子に対して弓を射かけたりする問題児でもあったようです。

 

信康の正室は、織田信長の娘である『徳姫』

一方、家康の正室『瀬名』は今川氏の家臣(関口氏)の娘。

そして、瀬名の主筋である今川義元は、織田信長に桶狭間で討たれています。

 

つまり、瀬名にしてみれば徳姫は仇にあたる織田家の女性だったので、非常に仲が悪かったと伝わっています。

 

そんな不仲が災いし、徳姫は瀬名と信康が武田家に内通していると信長に密告。

これが事実であったどうかは諸説ありますが、家康は瀬名と信康の処刑を命ぜられます。

 

その結果、家康は正室と嫡男を自ら手にかけることとなりました。

 

この事件の原因に関しては様々な説があり、いまだに定説と呼べるものがありません。

 

結城秀康 ゆうき ひでやす(1574~1607)

家康の次男。

双子だったという説があります。

 

10歳くらいの時に、秀吉の養子となっています。

養子と言えば聞こえはいいですが、実質的には徳川が秀吉に臣従する証としての人質です。

 

後に下野(しもつけ、現在の栃木県)の結城家へ養子に出され、家督を相続しました。

 

兄である『信康』が家康の命により切腹させられているので、本来であれば次男の秀康が徳川家の跡取りになるはずでした。

しかし、弟の秀忠の方が母の家柄が良かったことなどもあり、秀康は養子に出されて後継者になれなかったと言われています。

また、秀康は武勇に優れた武将でした。

なので、戦国時代が終わった後には武勇は重視されなかったため、将軍職になれなかったとも言われています。

 

関ヶ原の戦いでは、上杉景勝の抑えとして活躍。

その後、34歳と言う若さで亡くなりました。

 

徳川秀忠 とくがわ ひでただ(1579~1632)

家康の三男。

家康の後を継いだ江戸幕府2代将軍。

長男の信康が自害、次男の秀康は結城家を継いでいたため、三男の秀忠が将軍となりました。

 

関ヶ原の戦いでは大軍を率い、家康とは別行動をとっていましたが、関ヶ原の本戦に向かう途中、真田正幸と激突。

真田の居城 上田城の攻略に手こずり、関ヶ原の本戦に間に合わないという失態を犯しました。

 

正室は、織田信長の姪っ子にあたる『江(ごう)』。

江は豊臣秀吉の側室となる『淀』の妹です。

 

この江との間に生まれたのが、3代将軍 徳川家光です。

 

松平忠吉 まつだいら ただよし(1580~1607)

家康の四男。

 

関ヶ原の戦いには21歳の若さで参戦。

本来先鋒のはずだった福島正則を出し抜き、井伊直政とともに西軍に攻めかかったため、関ヶ原の火蓋は切って落とされました。

 

その功績も認められ62万石の大名となりましたが、28歳の若さで亡くなりました。

 

松平忠輝 まつだいら ただてる(1592~1683)

家康の六男。

正室は伊達政宗の娘の『五郎八姫(いろはひめ)』。

 

ちょっと身勝手な性格だったようで、傍若無人な逸話がたくさん残っています。

大坂冬の陣では、江戸で留守番を命じられるも、なかな江戸に向かわず伊達政宗に説得される

大阪夏の陣では、合戦に遅刻したうえ、兄の秀忠の家臣を無礼討ち。

 

そんなこんなで、父の家康がブチ切れて、忠輝とは面会を拒絶していたそうです。

 

家康が亡くなった後も乱交を繰り返したため、所領を没収され追放されました。

何気に92歳まで生きています。

 

徳川四天王

酒井忠次 さかい ただつぐ(1527~1596)

徳川四天王の筆頭。

家康の父『広忠』の頃から仕えていた重臣中の重臣。

家康が今川義元の人質になっていた時も付き従い、独立後も家康を支え続けました。

その活躍は『東三河の旗頭』と賞されました。

 

また、家康の正室『瀬名』と、嫡男の『信康』の処刑を、織田信長から直接言い渡された人物でもあります。

家康の使者として信長に面会している時に処刑を命ぜられ、回答に窮したと思われます。

しかし、信長と同盟しているとは言え、実質的には従属しているような状況だったため、断るに断れず、瀬名と信康の処刑を受け入れてしまいました。

この時の忠次の決断は評価が分かれるところですが、当時の状況を考えれば致し方なかったとも思います。

 

関ヶ原の戦いの前に息子に家督を譲り亡くなっているので、四天王の中では唯一関ヶ原に参戦していない武将です。

 

本多忠勝 ほんだ ただかつ(1548~1610)

徳川四天王の一人。

四天王の中では、人気、知名度ともにNo.1の武将ではないでしょうか?

 

家康にはもったいないほどの名将だったという意味を込めて、『家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭に 本多平八』と謳われたほどの人物です。

 

忠勝が愛用した槍は有名で、刃先にとまったトンボが真っ二つになってしまったことから『蜻蛉切(とんぼぎり)』と呼ばれています。

名槍 蜻蛉切を振り回し、多くの合戦を戦い家康を助けました。

特に、家康の伊賀越えの際の活躍は有名です。

 

ちなみに、三方ヶ原の戦いで家康が糞を漏らしたことに、真っ先に気付いたのは忠勝でした。

どうやら悪臭がしていたようです。

 

忠勝の娘『小松姫』は、真田幸村の兄『信之』の正室として有名です。

父 忠勝と同様に、小松姫もたいへん勇敢な女性だったと伝わっています。

家康に過ぎたるもの!本多忠勝のプロフィールと蜻蛉切の逸話
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榊原康政 さかきばら やすまさ(1548~1606)

徳川四天王の一人。

数々の合戦で活躍した武勇に優れた武将。

三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦いなど、家康の主要な合戦にはほとんど参加しています。

 

関ヶ原の戦いでは、秀忠隊に属していたものの、真田昌幸の上田城攻めに手こずり、本戦に参加出来ませんでした。

 

家康が天下統一し泰平の世が訪れた後、徳川家の武断派と内政派の間で対立が発生。

戦国時代は槍働きで活躍した康政は当然武断派でしたが、泰平の世になり槍働きは必要ないことであるとして、この争いから身を引いたと伝わっています。

 

井伊直政 いい なおまさ(1561~1602)

徳川四天王の一人。

甲冑を真紅で統一した『赤備え』の部隊を率い活躍した猛将。

真紅に染め抜いた甲冑を身に着けた直政は『井伊の赤鬼』の異名で恐れられました。

 

赤備えは、もともと武田信玄に仕えた猛将『飯富虎昌』『山県昌景』の代名詞でした。

しかし、武田勝頼の代になって武田家は滅亡。

その旧臣たちが直政の配下にとなり、赤備えを受け継ぎました。

 

関ヶ原の戦いでは、薩摩の猛将『島津義弘』の部隊と激突。

いわゆる『島津の退き口』で、敵中突破を図る島津軍を追撃している最中、直政に銃弾が直撃。

その傷が原因で、関ヶ原の戦いから約2年後に亡くなりました。

徳川四天王 井伊直政!大河ドラマ『おんな城主直虎』虎松のその後
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その他の徳川家康の家臣団

本多正信 ほんだ まさのぶ(1538~1610)

内政面で徳川家を支えた家康の側近。

秀吉政権で例えるなら、石田三成のようなポジションの人。

『本多』という名字ですが、四天王の本多忠勝との血縁はありません。

 

三河で一揆が発生した時は一揆勢に味方していましたが、後に許されています。

 

家康が天下統一した後に、武断派と内政派で対立が起こり、本多忠勝や榊原康政らと険悪になるも、家康からの信頼は厚く、むしろ武断派が遠ざけられていきました。

これは、泰平の世では、武勇は必要なくなったという意味でもあります。

 

家康の知恵袋的な存在でありつつも、なんとなく悪知恵の働く曲者のイメージがあります。

 

本多正純 ほんだ まさずみ(1565~1637)

本多正信の嫡男。

家康、秀忠の二代に仕えた人物。

 

大阪夏の陣で勝敗を決定づけた『大坂城の堀埋め立て』は正純の進言によるものとされています。

 

後に、家康が祀られる日光東照宮を参拝した秀忠を暗殺しようとしたとして改易されています。

これを『宇都宮城 吊り天井事件』と言います。

(宇都宮城に宿泊する予定だった秀忠を、吊り天井を仕掛けて圧死させようとしたらしい)

 

しかし、この事件の証拠はなく、一説には正純を快く思っていなかった土井利勝による策謀だったとされています。

おそらくですが、正純は潔白であったと思われます。

 

本多重次 ほんだ しげつぐ(1529~1596)

『鬼作左(おにさくざ)』の異名で知られる気性の荒い武将。

豪胆で清廉潔白、細かいことが大嫌い、家康に対しても物怖じしない漢というイメージがピッタリな人物。

その一方で、内政面、軍事面の両方で活躍した名将でもあります。

合戦で負傷したため、片目が潰れていたそうです。

 

日本で一番短い手紙とされる『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』は、妻への想いが込められた内容で、重次の意外な一面が感じられます。

 

頑固で豪胆な性格が災いし、豊臣秀吉とは不仲たったようで、後に蟄居させられています。

秀吉の母『大政所(おおまんどころ)』が徳川家の人質となるため下向した際に不手際があり秀吉が激怒。

これが蟄居の決定打になったようです。

 

大久保忠世 おおくぼ ただよ(1532~1594)

家康の父『広忠』の代から仕える武将。

三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどにも参戦。

とくに長篠の戦いでの活躍は目覚ましく、織田信長から称賛されています。

 

本多正信が三河の一揆に味方した罪で追放になっていた際、正信の復帰にも尽力。

小田原攻めの後、北条氏の居城であった小田原城を任されました。

 

大久保忠佐 おおくぼ ただすけ(1537~1613)

大久保忠世の弟。

槍の扱いに長け『蟹江の七本槍』と呼ばれました。

 

兄と同様、多くの戦いに参加し、特に長篠の戦いでは目覚ましい活躍を見せ、織田信長から称賛されています。

 

関ヶ原の戦いでは、秀忠軍に属していましたが、真田昌幸の上田城攻めに手こずり、本戦に参加できませんでした。

 

大久保忠隣 おおくぼ ただちか(1553~1628)

大久保忠世の嫡男。

 

初陣で敵将の首を取る活躍を見せ、多くの戦いに参戦。

とくに三方ヶ原の戦いでは、敗走する家康を最後まで守り抜き、戦後に出世しています。

 

家康の後継者を決める際には、次男の秀康を推していましたが、三男の秀忠を推す本多正信と対立。

結局、秀忠か将軍になりましたが、秀忠政権下でも重用されています。

 

しかし、この後継者争いが遠因となり、忠隣は失脚したと言われています。

 

大久保忠教 おおくぼ ただたか(1560~1639)

大久保忠世の弟ですが、年齢差は親子並み。(忠教は八男坊)

『大久保彦左衛門』の名でも知られています。

 

彼の功績と言えば『三河物語』を著者であるということ。

三河物語は、戦国時代後期から江戸時代初期のことが書かれた、たいへん貴重な史料となっています。

 

鳥居元忠 とりい もとただ(1539~1600)

家康が今川義元の人質だった頃から仕えている古参。

 

関ヶ原の戦いの直前、家康は上杉景勝討伐に向かうため、京都 伏見城の留守を元忠に任せました。

家康が遠征したと知れば、その隙に石田三成ら反家康勢力が挙兵する可能性があります。

その時に真っ先に強襲されるのが伏見城です。

このような危険な留守番を任された元忠でしたが、嫌な顔ひとつせず引き受けました。

 

家康にしてみれば、これまで忠義を尽くしてくれた元忠への信頼があったとは言え、危険な任務であることには変わりはなく、苦渋の決断であったようです。

家康が元忠に留守居役をお願いしたその夜、2人は遅くまで酒を酌み交わしたと伝わっています。

 

そして、家康が発った後、三成らが挙兵。

伏見城は4万の大軍に包囲されました。

約12日間の籠城戦の末、元忠は討死。

 

おそらく伏見城の留守居役を任された時点で、玉砕を覚悟していたものと思われます。

その忠義は『三河武士の鑑』と称されました。

 

板倉勝重 いたくら かつしげ(1545~1624)

子供の頃に出家していた元僧侶。

僧侶として一生を過ごすはずでしたが、父親が討死したり、兄弟が他家を継いでいたりだったので、家康の要請で還俗し家臣となりました。

 

主に内政面で活躍し、京都の治安を守る『京都所司代』にも任命されています。

 

勝重の治世はとても評判が良く、『板倉政要』という内政の凡例として後世に伝わっています。

 

石川数正 いしかわ かずまさ(??~1592?)

家康が今川義元の人質だった頃から仕え始めたと伝わっています。

 

四天王の一人『酒井忠次』に従い活躍。

信頼のおける家臣でしたが、突如として豊臣秀吉に寝返り。

 

徳川家の中枢を担っていた数正は、徳川の内部事情を知り尽くしていたため、この離反はたいへんな衝撃となりました。

裏切りの今でも分かっていません。

 

石川家成 いしかわ いえなり(1534~1609)

家康が今川義元の人質だった頃から仕え始めた古参。

 

義元が桶狭間で倒れた後、独立直後の家康を支え、数々の合戦で活躍。

家成は一向宗の信者でしたが、三河で一向一揆が発生した際には改宗して、家康に忠義を示しています。

 

その活躍は『西三河の旗頭』と呼ばれ、家康からの信任もかなり厚かったと言われています。

 

伊奈忠次 いな ただつぐ(1550~1610)

元々は、家康の嫡男『信康』に仕えていました。

信康亡き後に、徳川家の内政面で活躍。

 

農業の生産力向上にも寄与し、江戸幕府の財政基盤を築きました。

 

服部半蔵 はっとり はんぞう(1542~1596)

とても有名な伊賀忍者。

『服部半蔵』という名は服部家の当主が世襲するもので、家康の代に活躍したのは『服部正成』とされています。

なので、『服部半蔵』と言えば、一般的に正成のことを指します。

 

父の代から家康に仕えており、数々の合戦で伊賀忍者を率いて、夜襲などで活躍していたようです。

 

一説には、織田信長に謀反を疑われた家康の嫡男『信康』が自刃する際に、介錯を務めたのも半蔵でした。

しかし、家康の嫡男である信康の首を切り落とすのには、さすがに抵抗があったようで、涙を流しながら『主に刃は向けられません』と訴え、刀を振り下ろすことが出来ませんでした。

 

本能寺の変が発生した後、京都にいた家康にも危機が迫ります。

この時、いわゆる『伊賀越え』をして三河に逃げ帰るわけですが、伊賀出身の半蔵の手引きが非常に役立ったと思われます。

 

一応、伊賀忍者というポジションで伊賀衆を率いていたのは事実ですが、徳川家での扱いは普通の武将とあまり変わらない感じがします。

 

なお、現在の東京メトロ半蔵門線の『半蔵門駅』は、服部半蔵の屋敷があった場所とされています。

 

土井利勝 どい としかつ(1573~1644)

家康、秀忠、家光の三代に仕え、江戸幕府の草創期を支えた武将。

江戸幕府の初代大老。

 

いわゆる『宇都宮城 吊り天井事件』の首謀者ともされており、本多正純を失脚させたことで秀忠の代では側近の筆頭になりました。

 

幕府の基本法である『武家諸法度』に『参勤交代』を組み込んだのは、この利勝です。

後半生は、実質的に幕府を牛耳っていました。

 

渡辺守綱 わたなべ もりつな(1542~1620)

『槍の半蔵』と呼ばれた猛将。

四天王の一人『酒井忠次』が今川勢と戦い敗走した時には、一人で踏みとどまって槍を振り回し凄まじい戦果を挙げたと言われています。

 

三河で一向一揆が発生した時には一揆勢に味方していますが、戦後に許されています。

 

その後も数々の戦いで活躍。

大阪冬の陣、夏の陣にも参戦しています。

 

平岩親吉 ひらいわ ちかよし(1542~1611)

家康が今川義元の人質だった頃から仕え始めた古参。

 

家康の嫡男『信康』の傅役であったため、信康が自害した際には、親吉も責任を取り謹慎しています。

 

あくまで一つの説ですが、家康と豊臣秀頼(秀吉の嫡男)が二条城で会見した際、秀頼を毒殺しようとしたと言われています。

饅頭に毒を仕込んで秀頼に供しましたが、秀吉に付き従っていた加藤清正が怪しみ、秀頼を庇って毒饅頭を食べてしまいました。

加藤清正は、家康と会見し帰る途中で亡くなっているので、このような毒殺説が囁かれていますが、真偽は不明です。

 

ちまみに親吉自身も、二条城の会見から数か月後に亡くなっているのですが、毒が入っていないことを証明する為、毒饅頭を一口食べたことが原因と言われています。

 

金地院崇伝 こんちいん すうでん(1569~1633)

以心崇伝の名でも知られる僧侶。

内政や外交で活躍した『黒衣の宰相』。

 

大坂の陣の契機となる、いわゆる『方広寺鐘銘事件』を、本多正純と謀り扇動した人物。

 

なお、三代将軍 家光の名付け親は、この崇伝です。

 

南光坊天海 なんこうぼう てんかい(1536?~1643)

100歳を超えても生きていた大僧侶。

 

天海と明智光秀が同一人物という俗説があるため、ある意味、とても有名な人物。

つまり、本能寺の変を起こした光秀が山崎の戦いの後も生き延び、天海になったとする説です。

  • 天海の出生や前半生があまり分かっていないこと
  • 家康が祀られる日光に『明智平』という地域があること
  • 光秀の孫が大阪の陣で豊臣方に味方したにも関わらず処罰されていないこと
  • 天海のお墓が、光秀の居城であった『坂本城』の近くにあること

などの事実から、『天海=光秀』という説が生まれたようです。

 

真偽のほどは分かりませんが、面白い説だなと思います。

 

林羅山 はやし らざん(1583~1657)

武将ではなく学者。

家康の晩年から、秀忠、家光、家綱の4代に仕えました。

 

いわゆる儒学者で、江戸の基本思想となる『朱子学』を根付かせた人物です。

 

奥平信昌 おくだいら のぶまさ(1555~1615)

家康の長女『亀姫』を正室に迎え重用された武将。

 

もともとは今川家に属していましたが、桶狭間で義元は討死し勢力が弱まったため、家康に与しました。

家康と武田に挟まれた場所に領地があったので、武田家に味方したこともありましたが、奥平氏の重要性を考慮し、家康の長女が嫁ぎ姻戚関係を構築しました。

 

後述の『鳥居強右衛門』のエピソードでも知られている武将です。

 

鳥居強右衛門 とりい すねえもん(1540~1575)

本名は『鳥居勝商(とりい かつあき)』。

強右衛門は通称。

 

奥平信昌の家臣で、長篠の戦いでのエピソードで知られる人物です。

 

信昌が籠る長篠城が武田勝頼に包囲され、絶体絶命のピンチに陥っており、家康に援軍を依頼。

しかし、完全に包囲された状況で城を抜け出すのは困難でした。

この時に、援軍要請のため家康の元へ向かったのが強右衛門です。

強右衛門は見事に包囲網を潜り抜け援軍の要請に成功し、長篠城に戻ろうとしたことで、武田勢に捕縛されました。

 

強右衛門は磔にされ拷問を受けます。

『長篠城に向かって援軍要請に失敗したと叫べ、そうすれば武田の家臣として登用し、命は助けてやる』

強右衛門はこの条件を受け入れ、長篠城に向けて大声を張り上げました。

 

『間もなく援軍が到着するぞ!もう少しの辛抱だ!!』

 

強右衛門の決死の鼓舞によって長篠城は士気を取り戻し、城を守り抜くことに成功しました。

しかし、怒り狂った武田勝頼によって、強右衛門は処刑されてしまいました。

 

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徳川家康の家臣団まとめ

以上、徳川家康の主要家臣団でした。

 

家康は天下を制した人物だけあって、家臣には有名な武将が多いです。

本多忠勝、井伊直政、服部半蔵あたりは、とても人気のある人物です。

 

屈強として名高い『三河武士』。

家康の覇業の背景には、数多くの名将たちの活躍があったのでした。

 

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の徳川四天王にスポットを当てた記事も執筆していますので、興味のある方はぜひご覧になってみてください。年表付きです。

徳川四天王とは?最強は誰?【活躍やエピソードを年表付きでわかりやすく解説】
徳川四天王まとめ!この記事では徳川四天王の活躍を簡単な年表を交えつつ解説するとともに、それぞれの人物像や印象深いエピソードなどを、初心者でもわかりやすくご紹介していきます。

 

織田信長や豊臣秀吉などなど、他の戦国武将の家臣団に関して知りたい方は、コチラをご覧ください。

戦国大名の家臣団一覧!戦国時代の主要武将の簡単な列伝付き
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