北条早雲に始まる『北条五代』。
北条氏の代々の当主は関東の制覇を目指し、戦国時代を駆け抜けました。
その五代の中でも名将の誉れ高き武将『北条氏康』。
氏康の頃には戦国時代も成熟期を迎え、武田信玄、上杉謙信、今川義元ら強豪と凌ぎを削りました。
北条の悲願『関八州制覇』。
その覇業を支えた北条氏康の主要家臣団一覧です。
関八州制覇を夢見た男たち
北条氏康の一門衆
北条氏康 ほうじょう うじやす(1515~1571)
北条早雲、北条氏綱に続く、後北条氏の三代目。
武田信玄、上杉謙信、今川義元ら強豪と凌ぎを削った名君。
通称『相模の獅子』
当時に関東の権力者たち、足利公方家、山内上杉家、扇谷上杉家を川越夜戦では、圧倒的不利な状況でありながら、敵の油断を誘い大勝利したと言われています。
『川越夜戦』と呼ばれるこの戦いは、戦国三大奇襲戦のひとつに数えられています。
また、上杉謙信や武田信玄に、居城である小田原城を包囲されるも、籠城で乗り切ったことでも有名。
後に、城下町を丸まる堀や塀で囲んだ『総構え(そうがまえ)』と呼ばれる堅固な城に改修された小田原城は、戦国時代でも有数の堅固な城です。
武田信玄、今川義元と『甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)』を結び、関八州(関東全域)の制覇を目指し邁進するも、今川義元が桶狭間の戦いで討たれ、武田信玄が駿河に侵攻。
三国同盟は破綻し、宿敵であった上杉謙信と『越相同盟(えっそう)』同盟を結びました。
上杉謙信のライバルと言えば、武田信玄を思い浮かべる方が多いと思います。
それは確かにそうなのですが、個人的には関東の覇権をかけて争った北条氏康の方が、謙信の真のライバルに相応しいと思っています。
氏康自身が内政や防衛戦で活躍したこと、また上杉謙信、武田信玄のネームバリューがありすぎることで、ちょっと地味で知名度が劣ります。
ですが、強敵たちと凌ぎを削り、一歩も引けを取らなかった氏康は、間違いなく戦国時代を代表する名将であったとは間違いないでしょう。
北条綱成 ほうじょう つなしげ(1515~1587)
氏康の家臣を代表する人物。
元々は今川の家臣『福島(くしま)氏』の出身でしたが、氏康の父『氏綱』の娘を娶って北条一門になりました。
川越城の城将としても知られ、川越夜戦では敵の軍勢に囲まれピンチに陥るも、援軍の氏康本体を呼応し、城外へ打って出て敵を挟撃。
川越夜戦の大勝利にも貢献しました。
『地黄八幡』の旗印を掲げて数々の戦場に臨み、氏康の覇道を助けた猛将です。
『勝った!!勝った!』と叫びながら突撃してくる綱成の部隊は何しろ強く、『地黄八幡』の旗印を目にした敵は恐れおののいたと伝わっています。
北条幻庵 ほうじょう げんあん(1493~1589)
北条家の御意見番。
氏康に祖父『早雲』の四男。
早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の、いわゆる北条五代全ての当主を支えた長老。
若かりし頃に出家していますが、完全な法体になったわけではなく、『第一次国府台の戦い』など、北条氏の合戦にも普通に参加しています。
また、和歌にも嗜みがある教養人でもありました。
享年97という、当時としては、驚異の長寿を保ちました。
豊臣秀吉の小田原征伐で敗れた北条氏滅亡の1年前に亡くなった幻庵。
北条五代の栄枯盛衰を見てきた幻庵にとって、北条の最後を見ることなく没したのは、幸せなことだったのかもしれません。
北条為昌 ほうじょう ためまさ(1520~1542)
氏康の弟。氏綱の三男。
北条綱成が、氏綱の娘を娶った際、綱成は為昌の養子になっています。
しかし、養父の為昌より、綱成の方が年上という妙な関係でした。
現在、人気の観光地となっている『鶴岡八幡宮』の再建なども手掛けたようですが、わずが23歳で亡くなりました。若くして亡くなったことが悔やまれる人物です。
北条氏尭 ほうじょう うじたか(1522~1562)
氏康の弟。氏綱の四男。
上杉謙信(長尾景虎)の抑えとして活躍していたこと、伊達氏との外交を担当していたことなどを鑑みると、北条氏にとって重要な位置を占めていた人物だと思われます。
亡くなったのが40歳前後とされ、為昌同様、若くして亡くなったのが悔やまれる武将です。
北条氏政 ほうじょう うじまさ(1538~1590)
氏康の嫡男。氏康の後を継ぎ、北条氏の4代目当主となった人物。
氏政というと、どうしても避けては通れないのが、秀吉の小田原攻めでの対応です。
小田原攻めの際は、名目上は5代目の氏直が当主でしたが、氏政も権力を持っていました。
ですが、秀吉に従うか否かで家中をまとめられず、結果的に秀吉に攻められ北条氏は滅亡しました。(小田原征伐の要因は、猪俣邦憲の沼田領強奪などの要因もあり)
この時の北条氏の会議を『小田原評定(おだわらひょうじょう)』と言います。
現代でも、結論が出なくて時間を無駄にした会議を揶揄して、『小田原評定』なんて言ったりします。とても不名誉な印象ばかりが残るかわいそうな人です。
最後は責任をとって自害しました。
この氏政の自害をもって、実質、秀吉の天下統一が成りました。
結果的に北条氏を滅ぼしたので、一般的には暗愚とされていますが、北条氏の最大版図は氏政の代で実現しています。これは、忘れてはならない事実ではないでしょうか。
北条氏照 ほうじょう うじてる(1540~1590)
氏康の次男。氏政の弟。
兄の氏政は、一般的に評価が低いですが、氏照は武勇に優れた名将とされることが多いです。
武蔵国(現在の東京、埼玉あたり)の大石氏の養子になっているのですが、養父が亡くなった後、北条姓に戻っているため、大石氏照よりは『北条氏照』と呼ぶのが一般的です。多くの合戦に参加し、父の氏康、兄の氏政を助け、北条氏の躍進に大活躍しました。
後半生には八王子城を築いたことでも有名で、一説には信長の安土城を模して築城されたとも言われています。
しかしながら、秀吉の小田原攻めの際は、八王子城ではなく小田原城に籠って徹底抗戦を主張していました。最期は、氏政とともに責任を取らされ自害。
八王子城も落城し、多くの女性が城近くの御主殿の滝に身を投げました。これが原因で、御主殿の滝を含む八王子城は有名な心霊スポットとなっています。
北条氏邦 ほうじょう うじくに(1541~1597)
氏康の三男。藤田氏の養子になっていますが、氏照同様、後に北条姓に戻っています。
織田信長は亡くなった本能寺の変後、織田家の関東方面軍だった滝川一益を翻弄。
これに手こずった一益は、京都に戻るのが遅れ、織田の重臣であったにも関わらず、信長の後継者を決める会議(清須会議)に参加出来ませんでした。これが影響して、一益の権威や発言力が失墜しています。
秀吉の小田原攻めでは徹底抗戦を主張し、居城である『鉢形城』に籠城。
前田利家率いる数万の軍勢を相手に善戦しますが、抗しきれず降伏しました。
その後は、前田利家に恭順しています。
この『鉢形城』は、武田信玄や上杉謙信の攻撃をも耐え抜いた堅城として知られ、また、当時の遺構を色濃く残す城跡になっていて、現在の城跡ファンにも人気のスポットとなっています。
北条氏規 ほうじょう うじのり(1545~1600)
氏康の五男。
幼少期に今川義元の人質となっており、この時に同じく人質だった徳川家康とも交流があったと言われています。その経緯から、徳川家との外交でも活躍しました。
秀吉の小田原攻めの際は、徹底抗戦はだった兄の氏照や氏邦と違い穏健派でしたが、結局は戦うことになり、韮山城に籠城。
兄の氏政、氏照は自害となり、氏規は五代目当主『氏直』とともに、高野山へ蟄居となりました。
その後、許されて河内狭山藩に1万1千石の領地を与えられました。この氏規の子孫が明治維新まで残り、北条氏の血を保つことが出来ました。
北条氏繁 ほうじょう うじしげ(1536~1578)
『地黄八幡』の綱成の嫡子で、氏康の娘を妻に迎えています。父の綱成同様、氏康に信頼され、その覇道に大きく貢献しました。
安房(現在の千葉県の一部)の里見氏と争ったり、常陸(現在の茨城県)の佐竹氏の抑えで活躍しており、主に北条氏領国の東側の攻略で活躍しました
北条氏康の家臣団
大道寺盛昌 だいどうじ もりまさ(1495~1556)
初代『北条早雲』の代から仕える重臣。二代『北条氏綱』を経て、三代目の氏康まで仕えました。
鶴岡八幡宮の再建事業で担当しましたが、一度、里見氏に強襲され焼失。しかし、その後も粘り強く再建事業に邁進、無事に完了させ、八幡宮を信仰する国人衆から、北条氏は大きな支持を得ました。
主に政治面で活躍した武将です。
大道寺政繁 だいどうじ まさしげ(1533~1590)
大道寺盛昌の孫。氏康、氏政、氏直に仕えました。上野(こうずけ、現在の群馬県)の松井田城主。
秀吉の小田原攻めでは、前田利家や上杉景勝に松井田城を包囲され、わりとあっさり目に降伏。その後は、前田利家に部隊に参加し、道案内などを務め、結果的に北条家滅亡の手助けを行いました。
しかし、その行動が裏目にでます。戦後、秀吉から北条を裏切った不忠者の烙印を押され、切腹させられました。
清水康英 しみず やすひで(1532~1591)
清水氏は、初代『早雲』の代から仕えた一族。康英の母(祖母とも)は、氏康の乳母も務めていました。北条氏康にも重用され、その覇業に大きく貢献した一族です。
現在の三浦半島や伊豆半島辺りを水軍を組織し、海上方面の防衛を担った人物です。
秀吉の小田原攻めでも、海からの侵攻を防ぐために活躍。
しかし、長宗我部元親、九鬼守隆、加藤嘉明ら、数千の水軍を相手に踏ん張り続けますが、最後は降伏しました。
遠山綱景 とおやま かげつな(1513~1564)
遠山氏は、初代『早雲』の代から仕えた一族。北条氏康にも重用され、その覇業に大きく貢献した一族です。
二代『氏綱』の時の、江戸城攻略で活躍し、江戸城を任されました。連歌師を招き、歌会を催したりしており、かなりの教養人でもあったようです。
安房の里見氏と激突した『第二次国府台の戦い』で討死しました。
松田憲秀 まつだ のりひで(1530?~1590)
氏康、氏政、氏直に仕えた人物。
秀吉の小田原攻めでは、籠城を進言していましたが、秀吉側の誘いに乗り裏切りを画策。
しかし、憲秀の次男が裏切りを密告したため、計画がバレてしまい幽閉されました。
戦後に、不忠者の作品を押され、切腹になりました。憲秀の裏切りは、北条氏を生き残らせるためだったという説もあります。
垪和氏続 はが うじつぐ(??~1580)
大道寺氏や遠山氏と並ぶ重臣。
その名前に、北条氏が代々名乗っている『氏』の字が使われているので、かなり重用された人物なのではないかと思われます。
武田信玄、今川義元と結んだ『甲相駿三国同盟』が瓦解した後に、武田信玄と対峙し功績がありました。
太田康資 おおた やすすけ(1531~1581?)
元々は、川越夜戦で北条氏と戦った扇谷上杉家の家臣。
戦国初期の有名人『太田道灌(おおた どうかん)』の曾孫にあたります。
婚姻政策により北条氏に仕えることとなりましたが、扱いが不満だったらしく後に裏切っています。
第二次国府台の戦いで氏康と戦うも敗れ、その時に自害したとも、佐竹氏を頼って落ち延びたとも言われています。
板部岡江雪斎 いたべおか こうせつさい(1537~1609)
主に外交で活躍したお坊さん。秀吉の小田原攻めの際も、開城の交渉を行っています。
北条氏滅亡後も、徳川家康の元で活躍しており、関ヶ原の戦いにおいては、小早川秀秋の東軍寝返りを誘い成功。
この小早川秀秋の裏切りが、関ヶ原の勝敗を決することとなりました。
猪俣邦憲 いのまた くにのり(1549?~1590?)
あまり有名ではありませんが、結果的に北条氏滅亡のキッカケを作った超重要人物。
北条氏と真田氏の間で沼田領(群馬県)を巡って争いが起こりましたが、秀吉の裁定により真田領とされました。
しかし、これを不服とし真田氏の名胡桃城を攻撃し奪い取りました。
これが大問題となり、融和に向かっていた秀吉と北条の関係が破綻。
秀吉の裁定で決めたことを勝手に覆した罪は重く、北条征伐の大きな原因となりました。
結果、秀吉の大軍に攻められ北条氏は滅亡。邦憲も自害したと伝わっています。一方で、前田利家に仕えたという説もあります。
石巻康敬 いしまき やすまさ(1534~1613)
上記の、猪俣邦憲による名胡桃城攻撃の尻拭いで苦労した人。
弁明の使者として秀吉の元に遣わされますが、途中で捕縛され幽閉されました。
しかしながら、北条滅亡後も生きており、徳川家康に仕えています。
梶原景宗 かじわら かげむね(1533~??)
元海賊。
北条氏の水軍力を強化するため氏康に招かれ、仕えることになりました。
秀吉の小田原攻めでも、徳川家康の水軍と戦っています。
北条氏滅亡後は、五代当主『氏直』とともに高野山に蟄居させられました。
風魔小太郎 ふうま こたろう(??~1603)
風魔小太郎は、もともとは盗賊で、北条氏に代々仕える忍者。
名前が世襲制なので、歴代当主がみんな『風魔小太郎』ですが、氏康に仕えたのは3代目~5代目あたりと思われます。
川越夜戦などの大きな戦いでも、偵察などの任務で活躍。北条家の合戦の裏には、必ず風魔の活躍がありました。
北条氏滅亡後は、盗賊に戻ったようで、懸賞金がかけられていたそうです。
戦国時代は北条に始まり北条に終わる
戦国時代の始まりはいつなのか?様々な意見がありますが、その中の一つに1492年~1493年あたりとする説があります。
その理由の一つは、細川政元による『明応の政変』があります。そして、明応の政変と連動して関東近辺で起こった出来事。それが、北条早雲による『伊豆討入』です。
では、戦国時代の終焉はいつなのか?これにも様々な意見がありますが、その中の一つに『秀吉の天下統一』があります。秀吉による天下統一は、事実上、1590年の北条氏の滅亡でほぼ完遂しています。
つまり、戦国時代とは『北条に始まり、北条に終わる』という見方ができるのではないでしょうか。
北条早雲、北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直の北条五代。
その中でも、戦国時代でも特に人気のある武田信玄や上杉謙信が争い、織田信長が台頭してきた時代。その時代に現れたのが『北条氏康』です。
武田や上杉、毛利や島津に比べ、やや人気や知名度の面で劣る印象のある北条氏。
しかし、北条氏が夢見た関八州制覇の歴史には、戦国時代のエッセンスが大量に含まれていると言えるのではないでしょうか。
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