毛利元就。
わすが一代で中国地方の大半を制覇するという偉業を支えた名将です。そして、毛利元就の覇業を支えた毛利家臣団。そんな毛利元就の主要な家臣一覧のご紹介です。
今回ご紹介する武将たちの簡単な列伝を記載するとともに、全武将の生没年を一覧にしてみましたので、ぜひ参照してみてください。
毛利元就の覇業を支えた男たち
まずは、今回ご紹介する元就の家臣団を生没年とともに一覧にしました。
こうやって並べてみると、毛利家って当時としてはかなり長寿だった人物が多いですね。
- 毛利元就 75歳
- 志道広良 91歳
- 宍戸隆家 74歳
- 福原貞俊 82歳
- 口羽通良 70歳
- 国司元相 100歳
- 熊谷信直 87歳
- 天野隆重 82歳
福原貞俊と国司元相は生年に諸説あるものの、いずれにしろ長寿ではあったようです。
毛利元就の父と兄は、酒の飲み過ぎで早世しているので、酒の飲み過ぎを戒めたりもしていたそうです。その成果が家臣の長寿にも表れているのかもしれませんね。
毛利元就 もうり もとなり
生年:明応6年(1497年)
没年:元亀2年(1571年)
大内氏、尼子氏の二大勢力に挟まれながらも、巧みな情操操作で毛利家を守り抜き、わずか一代で中国地方に覇を唱えた名将。吉川家に次男の元春を、小早川家に三男の隆景を養子にねじ込み、実質的に両家を乗っ取るなど、着々と地盤を固めていきました。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでは様々な謀略で、陶晴賢(すえ はるかた)を翻弄と言われ、約4倍の兵力差をひっくり返し、中国地方制覇へ一気に歩みを加速させていきます。
正室『妙玖(みょうきゅう)』との間に生まれた三人の息子は、いずれも戦国時代を代表する名将。そんな息子たちに説いた有名な逸話が『三矢の訓』です。
毛利隆元 もうり たかもと
生年:大永3年(1523年)
没年:永禄6年(1563年)
毛利元就の嫡男 毛利隆元。
父の毛利元就、弟の吉川元春、小早川隆景に隠れて、少々印象が薄い存在。有能な父と弟に対し、とてつもないコンプレックスを持っていたことでも有名です。
厳島の戦いに際しては、戦いを躊躇する元就を説き伏せたことで、陶晴賢との一戦を決意させます。
永禄6年(1563年)に急逝。元就は非常に悲しみ錯乱状態になったと伝わります。隆元の最期には不審な点も多く、一説には家臣の毒殺説も囁かれており、元就が毒を盛った疑いのある家臣 和智誠春と、隆元の後見役 赤川元保を自害させています。
しかし、これは真実ではなかったようで、この時いかに元就が錯乱していたかがわかるエピソードです。
吉川元春 きっかわ もとはる
生年:享禄3年(1530年)
没年:天正14年(1586年)
毛利元就の次男 吉川元春。
戦では生涯負けなしと伝わる毛利家随一の猛将で、弟の小早川隆景とともに毛利両川(もうりりょうせん)の片翼。大の秀吉嫌いでも有名です。
幼いころに、山陰の国衆『吉川家』に養子に出されます。元春が養子入りに際しての、元就による吉川家のっとりの謀略は、元就の恐ろしさが分かる一幕でもあります。
尼子氏の本拠地 月山富田城(がっさんとだじょう)包囲中に太平記を書写。『吉川太平記』として、現在でも太平記研究の重要な史料となっています。
小早川隆景 こばやかわ たかかげ
生年:天文2年(1533年)
没年:慶長2年(1597年)
毛利元就の三男 小早川隆景。
元就の才能を最も受け継いだ人物と言われ、兄の吉川元春とともに毛利両川(もうりりょうせん)の片翼です。
なお、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀秋は、隆景の養子に当たります。
幼いころに、山陽の国衆『小早川家』の養子となります。水軍を擁する小早川家の当主となった隆景は、毛利家の水軍を束ねる存在となりました。厳島の戦いでは、水軍を率い参戦。陶晴賢の退路を断ち勝利に大きく貢献します。
豊臣政権下では秀吉からの信頼を得て、豊臣五大老列せられ、文禄の役では碧蹄館の戦いの総大将を務め、日本軍の退路を確保する大活躍を見せました。
宍戸隆家 ししど たかいえ
生年:永正15年(1518年)
没年:文禄元年(1592年)
元々は毛利元就と争っていた国衆でしたが、元就の娘『五龍(ごりゅう)』を妻に迎えたことで、三兄弟に並び一門衆となった武将です。さらに五龍との間に生まれた娘は、元就の孫『毛利輝元』の正室となっています。
宍戸家は幕末まで毛利家の家老として重用されていきました。
志道広良 しじ ひろよし
生年:応仁元年(1467年)
没年:弘治3年(1557年7月26日)
毛利家の重臣 志道広良。
毛利元就が家督を相続する際に起こった異母弟との家督争いでは、元就を強く支持。以降、元就からの信頼は絶大なものだったと言われています。
元就の嫡男 毛利隆元に『君は船、臣は水』の格言を残したことでも有名。
(主君は船、家臣は水、船は水が無ければ浮かぶことができない、家臣あっての主君である!という意味)
志道広良の生まれ年はなんと応仁の乱が勃発した年と同じ。当時としては異例の91歳での大往生でした。
井上元兼 いのうえ もとかね
生年:文明18年(1486年)
没年:天文19年(1550年)
毛利家臣の中でも、特に武勇の誉れ高き井上氏の一族。
毛利元就が幼いころ、井上元兼の叔父に当たる『井上元盛』が、元就の領地を横領。その恨みを元就は忘れず天文19年(1550年)一族もろとも粛清されていました。
井上氏は武勇を誇り、傲慢な態度が目立ったことも粛清の理由だったと伝わっています。
桂元澄 かつら もとずみ
生年:明応9年(1500年)
没年:永禄12年(1569年)
毛利元就の家督相続の際、桂元澄の父が謀反の疑いで自害させられました。
厳島の戦いでは、その過去を利用し「元澄は元就に恨みを残している」と偽りの書簡を敵の陶晴賢に送り、偽りの内応を約束したという説があります。この謀略によって陶晴賢は油断し、厳島の戦いでの敗北につながったとも言われています。
厳島の戦い後は、厳島の支配責任者も務めました。
福原貞俊 ふくはら さだとし
生年:永正9年(1512年)(永正16年説もあり)
没年:文禄2年(1593年)
毛利家の最高幹部である四人衆の一人。(他の3人は、吉川元春、小早川隆景、口羽通良)主に、小早川隆景を補佐し、山陽方面で活躍しました。
口羽通良 くちば みちよし
生年:永正10年(1513年)
没年:天正10年(1582年)
毛利家の最高幹部である四人衆の一人。(他の3人は、吉川元春、小早川隆景、福原貞俊)
志道広良の弟とも言われています。主に、吉川元春を補佐し、山陰方面で活躍しました。
渡辺通 わたなべ かよう
生年:永正8年(1511年)?
没年:天文12年(1543年)
平安時代の頼光四天王の一人『渡辺綱(わたなべのつな)』の末裔。
尼子氏の月山富田城攻めに失敗し、敗走する毛利元就の身代わりとなって討死。この時の恩を元就は終生忘れず、渡辺家は江戸時代も重用され続けました。
赤川元保 あかがわ もとやす
生年:不詳
没年:永禄10年(1567年)
主に、毛利隆元の補佐を務めた人物。隆元五奉行の一人。隆元の急逝した際には、その責任を問われて自害しました。
児玉就忠 こだま なりただ
生年:永正3年(1506年)
没年:永禄5年(1562年)
隆元五奉行の一人。戦は苦手でしたが、元就が彼の人柄を気に入り重用されました。毛利元就と毛利隆元の橋渡役としても活躍しました。
国司元相 くにし もとすけ
生年:明応元年(1492年)(永正12年説もあり)
没年:天正19年(1592年)
隆元五奉行の一人。祖先は、南北朝時代のばさら大名『高師直(こうのもろなお)』。
尼子氏との郡山合戦では、34人もの首を取る大活躍。武勇に優れ、時の将軍でもあり剣豪でもある『足利義輝』から『槍の鈴』の免許を与えられています。
生年には諸説あるものの、明応元年生まれとすると100歳の長寿だったことになります。
粟屋元親 あわや もとちか
生年:不詳
没年:永禄4年(1561年)
隆元五奉行の一人。元就の主要な戦いには大抵参加しており、その武勇を発揮しました。
熊谷信直 くまがい のぶなお
生年:永正4年(1507年)
没年:文禄2年(1593年)
源平合戦で活躍した『熊谷直実』の末裔。
熊谷信直の娘は、毛利元就の次男 吉川元春の妻。この娘は容姿がイマイチでしたが、元春が妻として迎えてくれたことに感謝し、以降元春に従い各地を転戦したと伝わります。
天野隆重 あまの たかしげ
生年:文亀3年(1503年)
没年:天正12年3月7日(1584年)
元は大内氏に属していましたが、後に元就に従属。妻は毛利四人衆の一人『福原貞俊』の妹。
山中鹿介(やまなか しかのすけ)が尼子再興を掲げ蜂起した際には、これを撃破。武勇に優れた人物でした。
平賀広相 ひらが ひろすけ
生年:大永8年(1528年)
没年:永禄10年(1567年)
平賀氏の家督争いに元就が介入し、広相を当主に据えたことで関係が強化され、元就に従うことになります。厳島の戦いの前年には、陶晴賢の使者を捕縛するなどして活躍しました。
三吉隆亮 みよし たかすけ
生年:不詳
没年:天正16年(1588年)
三吉氏は藤原家の末裔とも言われています。元々は宍戸氏と共に毛利元就と敵対してましたが、後に従属。三吉氏からは毛利元就の側室(隆亮の妹とも言われる)も輩出しています。
阿曽沼広秀 あそぬま ひろひで
生年:不詳
没年:慶長2年(1598年)
阿曽沼氏は、平将門を撃破した『藤原秀郷(ふじわらのひでさと)』の末裔。厳島の戦いにも従軍し、元就の覇業に貢献しました。
和智誠春 わち まさはる
生年:不詳
没年:永禄12年(1569年)
毛利元就の嫡男 毛利隆元を饗応した直後に彼が急逝。隆元に毒を持ったと疑われ処刑されました。しかし、これは元就が悲しみのあまり錯乱状態となっており、誠春は無実だったと言われています。
市川経好 いちかわ つねよし
生年:永正17年(1520年)
没年:天正12年(1584年)
毛利元就の次男 元春が養子に入った吉川家の人物。元春の養子入り(と言うか元就の吉川家乗っ取り)に尽力。
後年、大内家の残党が蜂起した際、出陣中だった経好に代わって、彼の妻が居城を守り抜きました。
水軍
児玉就方 こだま なりかた
生年:永正10年(1513年)
没年:天正14年(1586年)
児玉就忠の弟。兄 就忠の推挙で元就に仕えます。毛利水軍を率い各地の海を転戦しました。
乃美宗勝 のみ むねかつ
生年:大永7年(1527年)
没年:天正20年(1592年)
厳密には小早川隆景の家臣ですが、重要な役割を果たした人物なのでここに入れました。浦宗勝の名でも知られています。
厳島の戦いに際し、独立状態にあった村上水軍を毛利に引き入れる為に尽力。宗勝は『1日だけ毛利に味方してほしい』と村上水軍に嘆願しました。この言葉に毛利の覚悟を感じた村上水軍は、毛利陣営として厳島に参戦したと伝わります。
陶晴賢陣営の船をことごとく撃沈し退路を断つなど、八面六臂の大活躍を見せ、元就の大勝利に大きく貢献。その後も、小早川隆景に従い各地を転戦しました。
村上武吉 むらかみ たけよし
生年:天文2年(1533年)
没年:慶長9年(1604年)
瀬戸内海の能島(のしま)を拠点としたことから『能島武吉』とも呼ばれます。一般的に戦国期の村上水軍の頭領と言えば、この人の印象が強いです。宣教師ルイス・フロイスは武吉を『日本最大の海賊』と評しています。
厳島の戦いでは元就陣営として参戦したとされる一方で、毛利方としては参戦していないのではないか?とも言われています。
一時は毛利氏から離反し争うも、後に帰参。
織田信長の水軍と激突した『第一次木津川口の海戦』では、織田水軍を木っ端みじんに粉砕。(武吉の参戦を裏付ける史料はありませんが、立場的に参戦していた可能性はあると思われる)瀬戸内海の激しい潮流で鍛え上げられた村上水軍の操船技術の前に、織田水軍は手も足も出なかったと言われています。
村上通康 むらかみ みちやす
生年:永正16年(1519年)
没年:永禄10年(1567年)
瀬戸内海の来島(くるしま)を拠点としたことから『来島通康』とも呼ばれます。(当時、通康自身は来島を名乗ったことは無いそうです)
村上武吉同様、厳島の戦いでは元就の勝利に大きく貢献しました。なお、来島水軍は後に織田信長に寝返っています。
村上吉充 むらかみ よしみつ
生年:不詳
没年:不詳
拠点は瀬戸内海の因島(いんのしま)。能島、来島と違い、先代から毛利氏、小早川氏とは親密で、早い段階から毛利水軍の一員として活躍。村上武吉同様、厳島の戦いでは元就の勝利に大きく貢献しました。
元就が中国地方の覇者たる理由
以上、毛利元就の主要家臣団でした。
毛利元就は戦国時代を代表する人物です。
彼が築いた領土は、一代で広げた版図としては、戦国時代最大を誇ります。 織田信長や武田信玄は、先代が築いた地盤があったことを考えると、小さな国衆からスタートした毛利元就は、ある意味、最も結果を残した戦国大名とも言えるかもしれません。
そんな元就の覇業を共に支えた主要な毛利家臣団のご紹介でした
他の戦国武将の家臣団に関して知りたい方は、コチラをご覧ください。
【参考にした主な書籍】