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拓麻呂です。
戦国時代の北九州。
歩行不能となりながらも、輿に乗って幾多の戦場を縦横無尽に駆け回った猛将がいました。
立花道雪
その勇猛ぶりから『鬼道雪』ともあだ名された立花道雪に迫ります。
雷切一閃!猛将 立花道雪
出典:Wikipediaより
名刀雷切の誕生
道雪がまだ若かりし頃。
突然のにわか雨に見舞われた道雪は、近くにあった大樹の下で雨宿りをしていました。
すると、突然の落雷。
轟音と共に大樹に落ちた雷は、その下にいた道雪にも襲い掛かります。
道雪は腰に帯びていた刀を抜き、雷(雷神)を一刀両断。
その影響で下半身が不自由になるも、なんとか一命をとりとめました。
道雪は、雷を斬った刀を『雷切(らいきり)』と名付け、いつも身近に置くことにしました。
これが『雷切』の誕生伝説です。
この逸話により、道雪は『雷の化身』とも言われています。
大友宗麟の家臣として
道雪は、元の名前を『戸次鑑連(べっき あきつら)』と言います。
『立花』は、立花城主であったことから、『道雪』は主君 大友宗麟(おおとも そうりん)と共に出家した際に名乗った法号です。
一般的には『立花道雪』の名が知られています。
道雪は主君 大友宗麟に尽くした忠義の武将としても名高く、島津氏や龍造寺氏に敗れ、劣勢となった大友氏を最後まで支え続けました。
さらに、キリスト教に傾倒して政務を顧みない宗麟に対し、涙を流し諭したとも伝わっています。
また、北九州に進行してきた毛利氏とも争い、毛利両川の異名を持つ『吉川元春』『小早川隆景』の両雄をも跳ねのけています。
その勇猛ぶりは東日本まで鳴り響き、甲斐の武田信玄も面会を望んでいたと言われるほどです。
生涯71度の合戦に臨みましたが、足が不自由だった道雪は輿に乗り、部隊を指揮していました。
兵が弱腰の時には、『輿と一緒にわしも戦場に置いていけ!』と言って指揮を鼓舞したため、道雪が率いる舞台はとても勇敢に戦いました。
大友家の為に、数々の戦場で戦った道雪は、その人生を象徴するかのように、陣中で病を得てこの世を去りました。
立花宗茂と立花誾千代
戦国時代末期に登場する有名な人物として『立花宗茂』という武将がいます。
この宗茂は、道雪の養子にあたる人物です。
道雪には息子がいなかったため、道雪と共に大友家の双璧を成す『高橋紹運(たかはし しょううん)』から婿養子に迎えた人物が立花宗茂になります。
そして、宗茂の妻、つまり道雪の娘にあたる人物が、勇猛な女城主として有名な『立花誾千代(たちばな ぎんちよ)』です。
大友家に立花道雪あり!
歩行不能でありながら、生涯に渡り大友家への忠誠を示し続けた道雪。
島津、毛利、龍造寺をいう強大な大名たちを敵に回しても一歩の引かぬ勇猛ぶりを見せつけました。
しかし、道雪亡き後の大友家は、飛ぶ鳥落とす勢いで九州を席捲していた島津氏の猛攻を、ついに支えきれなくなります。
宗麟は、窮状を秀吉に報告。
秀吉の命(惣無事令、そうぶじれい)を聞かず、領土を拡大し続ける島津氏に対し、秀吉は討伐軍を派遣(九州征伐)。
抗しきれなくなった島津は、九州制覇を目前にして、秀吉に屈します。
ここからは妄想です。
もし、道雪がいなかったら、大友家はもっと早くに、島津や毛利に滅ぼされていたかもしれません。
そういった意味では、島津の九州制覇を阻んだのは立花道雪の存在があったから、とも言えるかもしれません。
そこまで有名ではないけれど、北九州の地で凄まじい活躍と存在感を発揮していた猛将が立花道雪なのでした。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。