戦国時代の夫婦と言えば、浅井長政とお市、豊臣秀吉とねね、明智光秀と妻木煕子、細川忠興とガラシャ、立花宗茂と誾千代など、様々な有名カップルが存在します。
その中には、織田信長と濃姫(帰蝶)も入るのかなと思いますが、果たして二人の仲は良かったのでしょうか?
織田信長の正妻と言うことで知名度は抜群な濃姫ですが、その実像は分からないことだらけで、多くの謎に包まれています。そんな信長と濃姫の夫婦仲を、限られた情報から妄想を膨らませて推測していきます。
二人の間には、果たして恋愛感情はあったのでしょうか?
※なお、「濃姫」という通称で呼ばれたのは信長に嫁いで以降のことですが、煩雑さを避けるため本記事では『濃姫』で統一しています。
政略結婚で結ばれた信長と濃姫
まずは、濃姫と織田信長の結婚の動機から見ていきましょう。
二人は、戦国時代の武家社会ではよく行われていた政略結婚で結ばれています
濃姫は、美濃を支配していた斎藤道三の娘で、織田信長は尾張に勢力を誇っていた織田信秀の嫡男。
美濃と尾張は境を接しているので、斎藤家と織田家はしばしば争っていましたが、やがて同盟を締結することになります。
その時に、同盟の証として織田家に嫁いだのが濃姫です。
つまり、現在の恋愛結婚ではなく、言ってしまえば政治的な理由、あるいは親の都合で結ばれた関係なのです。
なので、結婚した直後には、恋愛感情はなかったのではないでしょうか。
うつけ者だった織田信長
濃姫が織田信長に嫁いだのは、天文18年(1549年)。信長15歳くらいの時です。
現在で言えば、中学生~高校生にあたるわけで、この頃は非常に多感な時期ですね。現在でも、反抗期になったりグレたりするのも、概ねこの時期だと思います。
このような年ごろの織田信長は、世間でも有名な『うつけ』だったことで知られています。『うつけ』とは、現代で言うところのヤンキーみたいなものです。
まさしく、多感な年ごろの男の子、といった感じでしょうか。
この頃の織田信長のうつけっぷりを示すエピソードして、父 織田信秀の葬儀での一幕は有名です。
そんな、うつけの信長に嫁いだ濃姫。彼女の心中はどうだったのでしょうか?
ここからは想像なのですが、そこまで抵抗はなかったものと考えられます。
と言うのも、濃姫は織田信長よりも一つ年下の同世代。濃姫もまた多感な年ごろでした。
しかも、父親の斎藤道三は下剋上で成り上がった人物で、後に名跡を継いだ斎藤家も守護代の家柄で名門というわけでもありませんので、お嬢様の英才教育のようなものを、濃姫が受けていたとはあまり思えません。
むしろ、やんちゃな女の子だったのではないでしょうか。
今でもそうですが、思春期の頃ってちょっとワルな感じの人に惹かれたりすることってありませんか。
そう考えると、信長と濃姫は同じようなタイプで、相性はそんなに悪くなかったのではないかと考えられます。
また、濃姫は信長が初婚の相手ではなく、その前に『土岐頼純』という人物に嫁いでいます。
この土岐氏は、斎藤道三以前に美濃(現在の岐阜県南部)の実権を握っていた守護大名の家柄、つまり名門の家柄です。
そんなお堅い家に嫁いだ思春期の濃姫は、もしかしたら息苦しさを感じていたかもしれません。
このような経緯もあり、濃姫としては、むしろ信長のうつけっぷりに興味を持ったりしていた可能性もあるのかもしれませんね。
恋愛感情はあったのか?
多感な年ごろに結ばれた、やんちゃな織田信長と濃姫。破天荒な振る舞いをする織田信長を、濃姫はカッコイイと感じていたのかもしれません。
一方で織田信長は、斎藤道三との会談に際して、従来のうつけっぷりは鳴りを潜め、キリっとした態度で道三に対したと言われています。
そういったギャップ、そしてキメるところはキメる信長は、濃姫の心をガッチリ掴んでいたのではないでしょうか。
ほとんど妄想の域ですが、相思相愛の間柄だったのかなと思います。
唯一引っかかるのは、信長と濃姫は子宝に恵まれなかったという点ですが、こればっかりは天からの授かりものなので、致し方なかったのかなと感じます。
そんな信長と濃姫でしたが、二人が最後はどうなったのかは分かっていません。
と言うのも、濃姫の最期の状況がハッキリしていないからです。
濃姫の最期については諸説あるので、詳しくはコチラをご覧ください。
濃姫と織田信長まとめ
以上、信長と濃姫の間に恋愛感情はあったのか?でした。
思春期に結ばれたやんちゃな二人。
政略結婚なので、婚前は特別な感情は無かったと思われます。
しかしながら濃姫は、信長のうつけっぷりに大きな魅力を感じていたのかもしれませんね。
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