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拓麻呂です。
戦国時代で最も有名な人物と言えば、織田信長なのかなと思います。
しかし、信長の父親である『織田信秀』については、あまり言及されることがありません。
実は、信秀が固めた地盤があったからこそ、信長は飛躍できたと言っても過言ではありません。
そんな織田信秀の人物像や逸話などを、ご紹介してみたいと思います。
織田家の地盤を固めた織田信秀
信秀のプロフィール
まずは、信秀の簡単な略歴をご紹介します。
信秀は永正8年(1511年)の生まれとされています(諸説あり)。
有名な武将としては、松永久秀、真田幸隆あたりと、ほぼ同世代です。
織田家はもともと、室町時代の守護大名『斯波家(しばけ)』に仕えていました。
斯波家は『三管領(さんかんれい)』と言われる重職を担う家柄で、守護大名の中でも特に権威のある一族でした。
斯波家に仕える織田は三家に分かれており『清州三奉行(きよすさんぶぎょう)』と呼ばれていました。
その三家のうちの一つが、信秀と信長の家系です。
なので、信秀は斯波家の元で力を蓄えていきました。
同じ清州三奉行の織田藤左衛門らとの争い、今川氏との争いなどに勝利しつつ徐々に地盤を固めていくも、美濃を支配していた斎藤道三に敗北。
道三と和睦したことで、後に信長と濃姫(道三の娘)の婚姻が実現しています。
このような信秀の活躍によって、尾張に地盤を固めていきましたが、42歳で亡くなりました。
織田家は、信秀の活躍によって戦国大名化した一族と言って差し支えないと思います。
信秀の葬儀での出来事
そんな信秀を代表する逸話があります。
皮肉なことに、信秀亡きあとの逸話なのですが・・・。
信秀の葬儀での出来事です。
僧侶が300人も参加した信秀の葬儀でしたが、息子の信長の姿がありませんでした。
信長は若い頃『うつけ者』と呼ばれる破天荒な性格で知られています。
そんな信長は、うつけ者らしく葬儀に似合わぬラフな格好で登場し、とんでもないことを仕出かしました。
お焼香のために祭壇の立った信長は、抹香を鷲掴みにして信秀の祭壇にぶん投げたのです。
信長がなぜこんな暴挙に及んだのかはハッキリしていません。
うつけ者の名に相応しい行為と言えば、確かにそうです。
僕は、この行為を単なる若気の至りなのかなと考えています。
信長のうつけっぷりは相当なものだったようで、教育係を任されていた平手政秀という武将が、信長を諫める為に切腹をするような事態も起こっています。
(平手政秀の切腹理由は諸説あり)
信秀が没した時、信長は10代後半くらいです。
現在で言えば、高校3年生前後といったところでしょうか。
高校生と言えば思春期真っ盛りです。
この時期に、親への反抗期を経験した方も多いのではないでしょうか?
『うつけ者』というと、あまりピンと来ないかもしれませんが、現代風に言ってみればヤンキーです。
つまり、信長は反抗期の不良だったわけです。
現在でも、成人式でステージに上がってしまうような悪目立ちする若者っていますよね。
あれと同じなんじゃないかと思います。
いろいろな見解がある信長の破天荒なうつけぶりですが、彼の行動に深い意味なんかなくて、ただ単に反抗期のヤンキーだったと言うことだと、僕は考えています。
まとめ
以上、織田信秀のプロフィールと、葬儀での信長の行動に関してでした。
信長が活躍出来た背景には、信秀の築いた地盤がありました。
しかし、信長は父の葬儀で抹香を投げつけると言う暴挙に及んでしまいました。
いつの時代にも、若気の至りによる親不孝は存在しているんですね。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。