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拓麻呂です。
中国地方の覇者『毛利元就』の家臣である『志道広良』という戦国武将をご存知でしょうか?
元就にとても信頼されていた人物で、元就の嫡男『毛利隆元』に、主君たるものの教えを説いた隠れた名将です。
そんな志道広良とは、どんな武将だったのか?
また隆元に残した名言とは何だったのか?をお伝えします。
毛利の長老『志道広良』
志道広良とはどんな人物か
志道広良は毛利家の中枢にいた重臣です。
志道氏は元々は坂氏を名乗っていましたが、広良の代から志道を名乗りました。
坂氏は毛利氏の一族なので、元を辿れば血縁関係ということになります。
広良は、毛利家の『執権』でした。
執権とは簡単に言うと、当主の政務を一番近くで補佐する役目のことです。
毛利元就は次男だったので、本来であれば毛利家当主になる人物では無かったのですが、早くから元就の才気を見抜き、親交を深くしていたと言われています。
広良は元就の後見役(教育係みたいなもの)だったこともあり、元就から厚く信頼されていくことになります。
その信頼のほどは、元就自身が『私が無理なことを言っていたら、ぜひ広良から意見をしてもらいたい』という起請文を提出し、広良にお願いするほどでした。
その後、元就の兄である『興元(おきもと)』が急逝したため、毛利家では家督争いが勃発します。
元就は、腹違いの弟『相合元綱(あいおう もとつな)』と、家督相続をかけて戦うことになりました。
この時も、広良は徹底して元就に味方しました。
広良らの活躍により、元就に家督を継がせるよう、足利将軍家からの同意を得ることに成功。
家督相続の大義名分を得た元就陣営は、相合元綱を撃破し勝利、元就は毛利家当主となりました。
このように、元就の幼いことから常に寄り添い、信頼を得てきた人物が志道広良なのです。
毛利隆元に残した格言
広良は、元就の嫡男である『毛利隆元』の後見役も務めました。
隆元は、元就の後を継ぎ、毛利家当主になる人物です。
そんな広良が、隆元に残した言葉があります。
君は船、臣は水にて候
現代風に言うと、このような意味になります。
船は水があってこそ浮かぶことができ、本来の力を発揮することが出来る。
当主も家臣がいてこそ力を発揮できる、家臣を疎かに扱うことは、毛利家の滅びに繋がりますぞ。
このように、隆元に対して当主の在り方を説いた広良。
元就、隆元の二代に渡り、毛利家当主を側近くで仕え、毛利家飛躍の土台を支えたのが志道広良という戦国武将なのです。
長寿の多い元就の家臣
志道広良は91歳という長命を保ちました。
戦国時代で90代まで生きられた人物は、そう居るものではありません。
多くの武将が40~60代くらいで亡くなっている戦国時代にあって、元就の家臣は長生きした人物が多いです。
まず、元就自身が75歳まで生きています。
そして、志道広良は91歳。
元就の長女『五龍』を娶った『宍戸隆家』は74歳。
毛利四人衆の一人『福原貞俊』は82歳(75歳とも)。
同じく四人衆の一人で広良の弟(息子とも)である『口羽通良』は70歳。
猛将であり毛利五奉行の一人『国司元相』は、なんと100歳。
毛利水軍を率いた『児玉就方』は74歳。
元就の次男『元春』の妻の父親『熊谷信直』は87歳。
などなど。
元就は、父と兄が若くして亡くなったことで毛利家当主になっています。
なので、元就は摂生に努めていたと言われています。
もしかしたら、その影響があるのかもしれませんね。
まとめ
以上、志道広良の人物像と格言でした。
元就、隆元父子を補佐し、毛利家を支えた広良。
毛利家飛躍のキッカケとなった厳島の戦いから約2年後に、広良は亡くなりました。
厳島の戦いの勝利は、毛利を支え続けてきた広良にとって、とても嬉しい知らせだったかもしれませんね。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。