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拓麻呂です。
丹波の青鬼と呼ばれた戦国武将『籾井教業(もみい のりなり)』。
同じく赤鬼と呼ばれた『赤井直正』と並び称される武将です。
その一方で、ほとんど知名度が無く、実像がよくわからない武将でもあります。
そんな籾井教業の人物像を、できる限り浮かび上がらせていきたいと思います。
丹波の青鬼『籾井教業』
籾井教業の略歴
籾井教業は『青鬼』と恐れられた猛将です。
籾井城の城主でもありました。
丹波の戦国武将『波多野氏』と姻戚関係にあり、波多野家当主『波多野秀治』とともに、室町幕府15代将軍『足利義昭』に仕えていたようです。
赤井直正らと同様、織田軍の丹波攻略の司令官 明智光秀の前に立ち塞がりました。
籾井綱利?
前述の通り、信長の丹波攻略は明智光秀に一任されていました。
しかし、籾井教業は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に攻められ自刃、教業の居城であった籾井城も落城したと伝わっています。
実際の丹波攻略は明智光秀が行っていること、そして最後の籾井城主は『籾井綱利』という人物なので、『籾井教業』なる猛将は、架空の人物なのではないか?とも言われています。
籾井教業は実在したのか?
実際のところ、籾井教業という武将について分かっていることは以上です。
あまりにも情報が少ないので、ここからは筆者の想像になります。
明智光秀の丹波攻略は、赤井直正や波多野秀治の激しい抵抗に合い、かなり難渋していました。
丹波勢には、相当な苦戦を強いられているので、赤井直正や波多野秀治の他にも、屈強な猛将がいてもおかしくはありません。
名前が違いますが、おそらくは『籾井綱利』が、教業に相当する人物なのでしょう。
そう考えると『籾井教業』は架空の人物となってしまいますが、大事なのはそこじゃなくて、丹波勢が屈強で、明智光秀を以てしても苦戦を強いられたということです。
丹波の青鬼と称される猛将が創作されたのだとしたら、そこには元になる何かしらの人物なりが居たのだと思われます。
火のないところに煙は立たないのです。
丹波勢には、屈強な男たちがいて、光秀を苦境に陥らせたという事実があります。
その丹波勢力の中に赤井直正がおり、波多野秀治がおり、そして籾井綱利なり教業という『青鬼』と呼ばれる武将がいた、あるいは教業に相当するような、また別の猛将がいたということなのかなと考えています。
まとめ
以上、籾井教業という武将についてでした。
歴史上には、架空の人物なのでは?と疑われる人物も多いですが、そういった人物が創作される過程には、何からの元ネタがあるのではと考えています。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。