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拓麻呂です。
本能寺の変で自害した織田信長。
その弔い合戦を挑むべく、中国地方の毛利家と対峙していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、わずか7日間で京都に戻ってきた奇跡の大行軍『中国大返し(ちゅうごくおおがえし)』。
人間離れした偉業として語り継がれる『中国大返し』の行軍ルート、移動距離、移動日数などを、地図を交えながら見ていきたいと思います。
羽柴秀吉の中国大返し
中国大返しMAP
まずは、現在一般的に言われている、中国大返しの行軍MAPを見てみましょう。
ざっくりと言ってしまうと、現在の岡山県から京都府までの約200キロを、7日間で走破した出来事。
1日平均で約30キロを走破したと言われています。
それが『中国大返し』です。
一般的に、当時の軍隊の1日の移動距離は約20キロとされているそうです。
この数字比べてみると、1日で約30キロを走破した中国大返しが、いかに凄かったかが分かります。
しかも、出発地点の高松城から、中継地点の姫路城までは、約90キロの道のりを2日かからない速さで走破しています。
このような異例の行軍なので、中国大返しは偉業とされる一方で、話を盛っているのではないか?とも言われているのです。
中国大返しの情報は『天正記』という書物を根拠にしています。
天正記は、1580年代の秀吉の活躍を記録したものなので、ある程度の誇張はあるのではないかとの見方もあります。
用意周到だった中国大返し
本能寺の変が起こった時、秀吉は毛利氏と対峙していたため、急遽和平を結び、京都へ引き返していきます。
この時に、黒田官兵衛の発案で、毛利家の軍旗を何本か拝借したそうです。
この軍旗を、山崎の戦いで掲げることで、毛利が秀吉に味方したと思わせる工作でした。
毛利の軍旗を見た明智光秀軍に、大きな動揺が走ったと伝わっています。
また、行軍ルートとなる街道周辺に領土を持つ諸将に、通行を知らせる書状を送り事前に通知するとともに、織田信長が生きているとの偽の情報を流布させ、動揺を抑えていました。
このような情報操作が功を奏し、道中で味方を増やした秀吉軍が、山崎の戦いで明智軍を圧倒し、見事勝利します。
これにより、信長亡きあとの情勢は、秀吉有利に傾いていくのです。
毛利氏の動き
前述の通り、本能寺の変が起こった時、秀吉と毛利氏は交戦中でした。
急遽停戦となり、京都へ引き返していく秀吉軍に、毛利氏は追撃を仕掛けようとしたと言われています。
撤退している敵に追い打ちをかけれな、大きな戦果が得られます。
しかし、毛利は追撃しませんでした。
この時、毛利氏を制したのが、毛利の重鎮 小早川隆景だと言われており、結果的に秀吉は弔い合戦を成し遂げ、天下人への道を歩み始めます。
秀吉は、この時の小早川隆景の対応に感謝したと言われており、豊臣政権下での毛利は、とても重要な役職を任されています。
まとめ
以上、中国大返しの行軍ルートや日数、移動距離でした。
最後に、もう一度MAPを表示しておきます。
中国大返しも含め、本能寺の変から山崎の戦いに至るまでの詳細な経緯、光秀と秀吉双方の動きに関しては、コチラの記事をご覧ください。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。