意外な真実!比叡山延暦寺焼き討ちの理由!明智光秀と織田信長の思惑

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戦国時代と戦国武将

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

織田信長の残虐行為として名高い『比叡山延暦寺の焼き討ち事件』

老若男女問わず犠牲となった、戦国時代においても、特に凄惨な事件です。

 

この事件は、信長と光秀、両者の性格の違いを表す出来事としても扱われてきました。

信長は宗教や古い権威に拘らない人物で、一方、明智光秀は旧来の権威や宗教勢力を重んじる性格だったと言われています。

 

しかし、昨今はこの見方に疑問が投げかけられるようになっています。

 

比叡山延暦寺の焼き討ち事件。

この時、織田信長と明智光秀は果たして何を想ったのか?

比叡山延暦寺の焼き討ち事件の真実を紐解いてみたいと思います。

 

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比叡山延暦寺焼き討ち事件の真実

明智光秀は焼き討ちに反対したのか?

一般的な説として、光秀は延暦寺の焼き討ちに反対していたと言われています。

幕府や朝廷など、旧来の権威を重んじた光秀は、寺社などの古来からの宗教勢力に対しても熱い信仰心を持っていたとされています。

 

このような考えを持つ光秀にとって、延暦寺の焼き討ちは許される行為ではありませんでした。

この時に、焼き討ちを止められなかった自責の念、あるいは焼き討ちを強行した信長への恨みが、本能寺の変のキッカケになったとも言われています。

 

この説は、比叡山延暦寺の歴史を記す『天台座主記』という史料の記述がもとになっています。

 

ところが、全く別の見解を記す史料も存在しています。

延暦寺焼き討ちの10日前に、近江の豪族に宛てて出された書状には、このようにあります。

(比叡山にある仰木という場所の人たちを)皆殺しにすることが大事である

 

これが焼き討ち直前の光秀の考えであるとするならば、反対するどころか、むしろ乗り気だったと思われ、通説とは全く違った光秀像が見えてきます。

 

しかし、こういった書状は、現代でいうところのビジネス文書のようなものです。

業務連絡とか、部下に情報を伝える時って、必ずしも本音を伝えるわけではなく、立場的に会社の方針に従っているだけ、っていうケースも多いかと思います。

なので、この書状だけで光秀が焼き討ちに反対していたかと言われると、説得力に欠けるかなという印象です。

 

しかしながら、焼き討ち後の光秀は、比叡山の麓に領地を与えられ坂本城を築城を始めています。

この光秀に対する厚遇は、焼き討ちでの功績を認められた可能性も捨てきれません。

 

個人的には、光秀は本心では多少反対してはいましたが、織田家中の組織人としての立場を優先したに過ぎないと考えています。

後の本能寺の変に繋がるような感じでもなく、かと言って前のめりに焼き討ちを行ったわけでもなく、淡々と組織人としての職務をこなしただけ、という感じではないでしょうか。

 

焼き討ちの理由

次に、織田信長の立場から比叡山焼き討ちを見ていきたいと思います。

 

信長が焼き討ちを実行したもともとの理由。

それは、信長と敵対する浅井家・朝倉家に延暦寺が味方していたことに加え、権威に奢った僧侶たちの行いが堕落していたから、とされています。

信長からの度重なる警告が出されていたようですが、延暦寺は無視し続けました。

その結果、延暦寺に対して鉄槌がくだされました。

これが、一般的に言われている比叡山焼き討ちの理由です。

 

ところが、戦後に行われた発掘調査では、信長の頃の焼き討ちの形跡が見つかっていないそうです。

 

ここで意外と知られていない事実をお伝えします。

比叡山の焼き討ちは信長の専売勅許のような扱いを受けていますが、実はそうではありません。

信長以前にも、何度か攻撃にあっています。

 

まずは1499年、明応の政変により幕府の実権を握っていた『細川政元』が、敵対する足利義植を支援したとの罪で、比叡山を攻め放火しています。

 

さらに遡れば、1434年に室町幕府6代将軍 足利義教に攻められています。

足利義教は『万人恐怖』と呼ばれる恐怖政治を行った人物です。

強大な軍事力を持っていた延暦寺が慢心していたからという理由で攻められました。

この理由は、信長の焼き討ち理由にも共通しています。

 

実は、信長は義教に憧れを持っており、義教の行いを模倣していたのではないかという見解があります。

そのひとつが比叡山への攻撃です。

 

また、信長は奈良県の正倉院に納められている宝物『蘭奢待(らんじゃたい)』という香木の一部を切り取ることで、自身の権威を誇示しました。

この蘭奢待の切り取りも、義教がやっています。

 

ついでながら、義教は部下に襲われて亡くなっています。

本能寺の変で配下の明智光秀に襲撃されて亡くなった信長は、その最期も義教と重なります。

これは偶然でしょうけど、なんとも皮肉なものです。

 

信長の意外な一面

さらにもうひとつ。

信長は宗教勢力を否定し、神をも恐れぬ人物だったと言われることがあります。

 

確かに延暦寺を攻めたり、伊勢長島の一向一揆にも凄惨な弾圧を行っています。

しかしながら、信長が敵視したのはあくまで仏教勢力であり、日本古来からの神道、つまり神社を攻撃した形跡は一切見られないのです。

と言うか、熱田神宮への対応を見る限り、神道には敬意をはらっていたようにすら感じます。

 

こうなってくると、信長は宗教勢力に否定的な人物であたというのが怪しくなってきます。

信長は神をも恐れぬ人物だったわけではなく、単に敵対してきたから比叡山を焼き払ったに過ぎないのかもしれません。

 

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比叡山焼き討ちの実態

以上のことを踏まえ、個人的な見解を述べてみたいと思います。

 

  • 信長が延暦寺の焼き討ちした理由は、あくまで敵対してきたから攻めたに過ぎず、従来言われているような、宗教勢力や古い権威を破壊しようとしたわけではない。神をも恐れぬ人物だったわけでもない。

 

  • 足利義教への憧れがあり、相も変わらず僧侶が横暴を極めていたので、義教の行いを模倣し鉄槌をくだした。焼き討ち自体は行われたが、言うほど凄惨ではなかった可能性がある。

 

  • 明智光秀の本心としては焼き討ちに迷いがあったものの、組織人の一人として大人の対応をした。現在の会社組織でもよくある光景。

 

という感じだったのかなと考えています。

 

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。