決戦!厳島の戦い!明治維新へと導く毛利元就の歴史的第一歩!

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戦国時代と戦国武将

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拓麻呂です。

 

1555年『厳島の戦い』

 

後に中国地方の覇者として君臨する毛利元就が、その覇道を歩み始めた重要な戦いです。

 

対するは『陶晴賢(すえはるかた)』

 

二万人にも及ぶ圧倒的な兵力を誇る晴賢に対し、元就の兵力はわずか四千。

 

この兵力差をひっくり返し、勝利を手にする為、元就は様々な謀略を張り巡らせました。

毛利元就の名言が示す恐ろしき謀略戦!厳島の戦いに見る事前準備の大切さ
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さらには、瀬戸内海に浮かぶ厳島、この地で勝利する為には水軍の力が必要不可欠。

 

元就は、瀬戸内海を牛耳る『村上水軍』を味方に付けることに成功し、いざ厳島の決戦にのぞみます。

厳島の戦いに参戦した村上水軍!毛利元就の決意に味方した海の男たち
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※厳島の合戦には様々な説があり、今回紹介する内容は軍記物を参考にしている部分もあり必ずしも史実としての共通見解ではないことをご了承ください。

 

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奇襲!!厳島!

暴風雨の出陣

吹き荒れる暴風雨。辺りは闇に閉ざされている。

 

村上水軍が来援し、出陣に臨む毛利元就、そして三人の息子 毛利隆元、吉川元春、小早川隆景。

 

毛利家の行く末を左右する運命の決戦に向け、元就は暴風雨の中、全軍に厳島への渡海を命じました。

 

総大将 元就率いる本隊に長男隆元、次男元春。そして別動隊を率いる三男隆景と村上水軍。

 

全軍を本隊と別動隊に分けた毛利軍は、大シケの瀬戸内海に漕ぎだします。

 

暴風で荒れ狂う海流に翻弄されながらも一路、厳島を目指す毛利軍。元就の顔に打ち付ける激しい雨。

 

しかし、この悪天候が毛利軍に味方しました。一寸先も見えぬほどの風雨が毛利軍の姿をくらまし、先に厳島で陣を敷く晴賢に気付かれることなく、厳島へ接近。先頭の船にわずかな篝火を灯し、それを目印に後続の船が続きます。

 

こうして深夜の渡海に成功した元就率いる本隊は包ヶ浦に上陸、隆景率いる別動隊は、視界が悪い事を利用し、陶軍に援軍であるように偽わって、厳島の象徴である大鳥居に堂々と船を乗り入れたのです。

 

決戦直前・・・

包ヶ浦に上陸した本隊は塔ノ岡裏山、博打尾に布陣。

 

元就は、自軍の目印として全員が白いタスキを肩から巻いています。

 

そして、毛利軍の合言葉は『勝つ』!

 

この戦いに勝利する為、元就は数々の謀略で晴賢を翻弄、厳島へ誘い出すことに成功し、瀬戸内海を牛耳る村上水軍をも味方に引き入れました。

 

勝利のために、やれることは全てやった。そんな元就の決意が込められた毛利軍の合言葉だったのかもしれません。

 

白み始めた空、いつしか激しい雨もあがっている・・・。

 

 

そして・・・元就は運命の采配を振りました。

 

戦国三大奇襲戦『厳島の戦い』の火ぶたが切って落とされたのです。

 

早朝の奇襲!

元就の合図で、一斉に山を駆け下りて行く毛利軍。目指すは陶晴賢の本陣。

 

まだ夜も明けきらない早朝、当然眠りこけている陶軍。ましてや前夜の暴風雨、まさか毛利軍が厳島に上陸しているとは思っていません。

 

しかし、毛利軍は大声を挙げながら、油断しきっていた陶軍に突撃していきます。

 

 

寝ていた陶軍は、突然の奇襲に狼狽し、味方同士で槍や甲冑を奪い合う始末。

 

そんな中、晴賢も飛び起き慌てて指揮を執りますが、時すでに遅し。

 

陶軍は完全に指揮系統が乱れ、大混乱に陥った兵たちは右往左往し味方同士で斬り合い、逃げ惑います。

 

しかも、戦場は海に浮かぶ厳島。閉ざされた『島』という土地で戦うことになった陶軍は、大軍の利点を生かせず、逆に身動きが取れなりました。

 

二万という兵力が仇となったのです。

 

毛利軍は、白いタスキを目印にして、陶軍の兵を次々と討ち取っていきます。隆元と元春も戦陣に加わり、槍を振るって懸命に戦いました。

 

『勝つ!!』『勝つ!!』

 

毛利軍は、勝利への想いを込めた合言葉を叫びながら、怒涛の勢いで混乱する陶軍を追い散らしていったのです。

 

逃げ惑う陶軍・・・しかし!

大混乱の陶軍。

 

パニック状態に陥った兵は逃げ惑い、海岸に停泊していた船に我先にと乗り込み始めました。

 

ところが、一気に兵が乗り過ぎて沈没する船多数。陶軍はさらに混乱していきます。

 

何とか出航できた船もあり、海へと漕ぎだしました。しかし・・・

 

 

海上に控えていた小早川隆景率いる別動隊と、村上水軍が陶軍に襲い掛かってきたのです。

 

次々と海の藻屑となっていく陶軍の兵と船。

 

厳島に閉じ込められ、完全に退路を断たれた陶軍に、逃げ道は残されていませんでした。

 

陶晴賢の最後

凄惨たる状況に勝利を諦めた陶晴賢は撤退を開始します。

 

しかし、なんとか海岸に辿りついた晴賢を待っていたのは、非情な現実でした。

 

混乱した自軍の兵が満ち溢れ沈没した船、あるいは隆景と村上水軍に強襲され沈没した船。

 

晴賢が厳島から脱出する為の船は、一艘も残っていませんでした。

 

戦に勝つことも出来ず、撤退する道も断たれた陶晴賢。

 

彼は、遂に覚悟を決め、腹を斬りました。

 

厳島の戦いは、圧倒的不利な兵力差をひっくり返し、元就の勝利に終わったのです。

 

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明治維新へと繋がる厳島合戦の歴史的意義

こうして、元就は戦国大名としての第一歩を踏み出しました。

 

元就この時58歳。

 

あまりにも遅すぎるデビューです。

 

しかし彼は、この後、晴賢の本拠地である周防長門も手中におさめ、やがては北の強敵 尼子家をも蹴散らし中国地方に覇を唱えます。

 

厳島の戦いとは、安芸の小さな国人だった毛利家を、戦国時代屈指の大名家へ押し上げた戦いです。

 

この勝利が無ければ、元就は、そして毛利家は歴史の表舞台に登場することは出来なかったでしょう。

 

そして、さらに想像をたくましくするならば、幕末維新の長州藩。

 

明治維新の起爆剤とも言える長州藩は、毛利家が殿様を務めています。要するに元就の子孫が代々治めてきた藩なのです。

 

つまり、戦国時代に毛利家の台頭が無ければ、江戸時代、さらには幕末に長州藩の活躍は無かったことでしょう。

 

明治維新へと繋がる毛利家の第一歩。

 

これこそが厳島の戦いの歴史的意義であり、また戦国武将 毛利元就の偉大なる第一歩でもあったのです。

 

なお、厳島の戦いに至る経緯はこちらをご覧ください。

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