明智光秀の真の人物像!通説とは違う本当の性格とは?

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戦国時代と戦国武将

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拓麻呂です。

 

本能寺の変で、主君 織田信長を自刃に追い込んだ『明智光秀』

 

光秀が本能寺の変を起こした理由は様々な説は提唱されていますが、おおむね信長と光秀の考え方の違いに端を発するものと言われています。

 

革新的な織田信長に対し、保守的な明智光秀

 

このような、一般的に定着している光秀イメージは、本当に正しいのでしょうか?

 

明智光秀は、戦国時代の常識人か?

それとも天下の梟雄か?

 

明智光秀の真実の人物像に迫ります。

 

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明智光秀の人物像

一般的な明智光秀のイメージ

 

【朝廷や室町幕府など、従来の権威を重んじる真面目で実直な男】

これが、一般的にイメージされる明智光秀の人物像なのかなと思います。

 

信長が行った残虐行為の代表格『比叡山焼き討ち』にも、光秀は否定的であったと言われることが多いです。

 

その他にも、信長は15代将軍 足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしたことになっていますし、古くからある仏教勢力を徹底的に破壊してきました。

朝廷権力も蔑ろにし、天皇を超越した存在になろうとしていた、なんてことを言う説もあります。

 

そんな信長のやり方に疑問を感じていたのが、旧勢力の権威を重んじる明智光秀。

 

というのが、一般的にイメージされる光秀の人物像であり、信長との関係性なのかなと思います。

 

 

明智光秀に関する証言

そんな光秀に関して、同時代に来日していた宣教師『ルイス・フロイス』という人物が、こんなことを言っています。

 

『光秀は残酷で独裁的、嘘偽りに抜け目が無く、戦においては謀略を好む策謀の達人でした』

 

ルイス・フロイスの証言は宣教師目線過ぎるので、そのまま鵜呑みにするのは微妙なのですが、これまでの光秀像を覆す、とても興味深い証言なのではないでしょうか。

 

この証言は、どちらかと言うと、これまでの信長像に近いというか、光秀とは真逆の人物像ではないかと思います。

 

 

丹波攻略戦で見せた光秀の非情さ

光秀が信長に仕えてからの主な活躍は丹波国(たんばのくに)の攻略戦です。

丹波国は、現在で言うところの京都と兵庫県の間のあたりです。

 

この丹波攻略にあたり、光秀は波多野氏と戦います。

 

光秀は、波多野氏の居城である八神城を包囲し、戦いは籠城戦へと突入していきます。

この時の状況を伝える手紙が残っていて、場内は餓死者が続出していたそうです。

 

城内への補給路を断った、光秀の徹底した包囲作戦が想像できます。

 

また、この時の光秀の言葉も残っています。

『五日から十日以内に必ず敵を撃ち滅ぼす。一人も逃がすことなく包囲を厳重にして落城を待っている』

 

これらの事実から、光秀の非情な一面が垣間見えるのではないでしょうか。

 

丹波攻略を確実に遂行していく実直な一面と捉えることも出来ますが、戦においては徹底的に相手を潰す一面と捉えることも出来ます。

 

信長と考え方が違ったどころか、積極的に信長の覇道に協力していると見た方が良いのかもしれません。

 

 

足利義昭への対応

室町幕府15代将軍である足利義昭。

 

彼は信長と助力によって京都に復帰したものの、後に信長と対立して京都から追放されます。

これももって、室町時代は終わり安土桃山時代へと移行します。

つまり、光秀が重視していた旧勢力の象徴『室町幕府』の滅亡です

 

こういった出来事も、光秀には受け入れられなかったように感じますが、実情はかなり違っていました。

 

まず、室町幕府の滅亡、つまり信長と義昭が対立したのは1573年(元亀4年)です。

これより前に、光秀は信長と義昭の間を取り持つ役どころにおり、京都で活躍しています。

言い換えると、京都の政務を任されていたことになります。

 

この時に、京都の寺社などとのトラブルに巻き込まれたりしており、光秀は『義昭の統治は先の見通しがない』という手紙を書いています。

この手紙を書いたのが1571年(元亀2年)です。

 

つまり、信長が義昭と対立する2年前に、すでに光秀は義昭に不満を抱いていたことになります。

 

室町幕府の権威を尊重するどころか、率先して見限っていた。

これが明智光秀の、室町幕府に対する見解だったのです。

 

 

明智光秀のイメージを作り上げた真相

ここまで見てくると、光秀は『旧勢力を重視した真面目な人物』というイメージが、かなり怪しくなってきます。

 

 

また信長は、敵対した仏教勢力にこそ徹底抗戦を挑みましたが、神道の関連する神社などは一切の破壊行為を行っていません。

結果的に義昭は信長と対立したことで室町幕府は滅びますが、信長は朝廷や幕府とも協調関係を築こうとしている節があります。

 

信長は旧勢力を否定しようとしていたのではなく、あくまで敵対していた勢力と戦っていたに過ぎないのかもしれません。

そう考えると、光秀も保守的だったと言うよりは、信長に賛同して積極的に敵対した旧勢力を破壊していたとも考えられます。

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では、なぜ光秀が保守的なイメージになってしまったのでしょうか?

それは、江戸時代に作られた多くの軍記物語によるイメージです。

 

つまり軍記物語で本能寺の変を劇的に描く為には、信長と光秀の対立構図をしっかり表現しなくてはいけません。

しかし、本能寺の変を起こした光秀の動機は現在でも通説がなく、様々な説が提唱されています。

 

これは江戸時代も同じなので、軍記物語を書く際、信長と光秀の対立構図を分かりやすくするために創作されたイメージ、という事なのではないでしょうか。

 

明智光秀の本当の人物像。

それは『信長と近い考えを持った任務に忠実な頼れる男』なのではないかと僕は考えています。

 

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まとめ

以上、明智光秀の本当の人物像でした。

 

現在に伝わる光秀像は、後世の軍記物語によって作られたイメージで、実際の光秀は信長と考えの近い、頼れる配下だったといえるのではないでしょうか。

 

 

他にも、明智光秀の性格や人物像、本能寺の変についてなどの記事を扱っています。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。