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拓麻呂です。
明智光秀のおじさんに当たる武将『明智光安(あけち みつやす)』。
知名度はほとんどありませんが、光秀のターニングポイントとなる『明智城の戦い』で、重要な役割を担った人物です。
明智光安と光秀の関係、明智城の戦いでの活躍などを見ていきたいと思います。
明智光安と明智城の戦い
明智光秀との関係
明智光安は、光秀の叔父にあたります。
上記の家系図の通り、明智光秀の父が明智光綱で、その弟が光安です。
つまり、光秀と光安は甥と叔父の関係になります。
ここで注目したいのが『小見の方』という女性。
光綱、光安の兄妹です。
小見の方は、斎藤道三に嫁いでおり、その娘が『濃姫』です。
濃姫と言えば、織田信長の正妻として有名です。
つまり、光秀と濃姫はいとこにあたります。
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また、一説によると、光秀の重臣『明智秀満』は、光安の子とも言われています。
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光秀の父 光綱は明智家の当主で明智城の城主でしたが、30代で亡くなりました。
そのまま行けば、長男の光秀が明智家の当主となるはずでしたが、光秀はまだまだ若輩者。
そこで、叔父の光安が後見役として、明智城主代理を務めることになります。
これが、明智城の戦いでの悲劇へと繋がるのです。
悲運!明智城の戦い
光秀と光安が仕えていたのは『斎藤道三』。
道三は、美濃一国を治めていた大名です。
そんな道三が、息子の『斎藤義龍』と不仲になり、長良川の戦いという合戦に発展しました。
なお、道三と義龍の不仲の理由は、コチラをご覧ください。
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結果は、道三が討ち取られ敗北。
道三に味方していた明智勢は、窮地に立たされます。
光安と光秀は、居城の明智城に籠りますが、義龍の軍勢に城を攻められました。
明智勢は奮戦しますが、抗しきれず敗北。
明智家の希望である光秀を城から逃がし、城主代理を務めていた光安は責任を取って自害して果てました。
身代わりとなった光安
明智城の戦いで自刃した光安。
彼は、光秀が幼いことを理由に、自らが明智家当主代理となり、明智城の城主も務めていました。
本来であれば、明智家の当主であり、明智城の城主は光秀が担うはずでした。
しかし、光秀が幼く、その勤めが果たせませんでした。
そう考えると、幼い光秀の身代わりとなり、散っていった武将。
それが明智光安という武将なのかもしれません。
明智家の行く末を光秀に託し、光安は散ったのでした。
まとめ
以上、明智光安についてでした。
ほとんど知られていない武将ですが、彼の死はその後の光秀の活躍に、多大な影響を与えていたのかもしれませんね。
そんな光安が散った『明智城の戦い』に関する記事はコチラです。
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他にも、明智光秀の性格や人物像、本能寺の変についてなどの記事を扱っています。
ここを見れば『明智光秀』と、その妻『妻木煕子』のすべてが分かる!
2020年大河ドラマ 麒麟がくる放送記念
【明智光秀&妻木煕子 大特集】
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。