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拓麻呂です。
身長が約2メートルあったと伝わる巨漢の戦国武将『斎藤義龍』。
美濃のマムシ『斎藤道三』の息子とされている義龍ですが、その親子関係は疑問視されています。
はたして、斎藤義龍と斎藤道三の親子関係は本物なのでしょうか
斎藤義龍と斎藤道三
義龍と道三の関係
斎藤義龍は大永7年(1527年)の生まれとされています。
道三が33歳の頃に生まれたことになりますので、年齢的には道三の子供であっても不思議はありません。
一応、道三の後を継ぎ斎藤家の当主となっていますが、お互いが了承したうえでの家督相続ではなく、道三の政治が不味かったから、家督を譲らざるを得なかたとも言われています。
また、道三は亡くなるまで隠居していなかったとも言われており、義龍への家督継承に関しては様々な疑問が残っています。
義龍は道三の長男ではありましたが、他にも『孫四郎』と『喜平次』という2人の男児がいました。
道三は義龍を疎み、孫四郎や喜平次を溺愛でしていたと言われています。
義龍は自身の立場に危機感を覚え、道三を恨むようになっていきました。
義龍の不安は的中し、道三は次男の孫四郎に家督を継がせようとしたため、義龍は仮病を使い、見舞いに来た孫四郎と喜平次を殺害。
こうして義龍と道三の関係は、完全に破綻しました。
二人の争いは『長良川の戦い』という合戦に発展し、道三は討死。
名実ともに、斎藤家の当主は義龍となったのです。
義龍は側室から生まれた
ここで疑問に感じるのが、なぜ道三は義龍を疎ましく思っていたのかということです。
道三が溺愛していた『孫四郎』と『喜平次』。
彼らは『小見の方(おみのかた)』という道三の正室が生んだ子です。
なお小見の方は、織田信長に嫁いだ濃姫の母親でもあり、明智光秀の叔母でもある女性です。
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一方の義龍はというと、母親は『深芳野(みよしの)』という道三の側室です(喜平次も深芳野の子という説がある)。
道三が義龍を疎ましく思っていた理由の一つが、正室の子か、側室の子か、ということなのです。
ただし、これだけでは終わりません。
義龍が疎まれた理由には、もうひとつの決定的な理由があるのです。
義龍は道三の息子だったのか?
道三が義龍を嫌った最大の理由。
それは、義龍の本当の父親が道三ではなかったからです。
義龍の母『深芳野(みよしの)』。
彼女は、道三の側室になる前は『土岐頼芸(とき よりなり)』という人物の側室でした。
深芳野が道三の側室となった際、すでに土岐頼芸の子供をお腹に宿しており、その子が斎藤義龍だと言われています。
つまり、義龍の父親は道三ではなく、土岐頼芸なのです。
義龍が側室の子であったからという以前に、自分の子ではなかったというのが、義龍を敬遠した最大の理由なのです。
なお土岐頼芸は、もともと道三の主君でしたが、後に道三によって追放されます。
錯綜する道三と義龍の親子関係
このように、義龍は道三と血のつながりが無かったとされる一方で、普通に道三と深芳野の子であったたとも言われており、情報が錯綜しているのが現状です。
ただ、僕としては、やはり道三と義龍には血の繋がりは無かったのかなと考えています。
血の繋がらない息子を愛せず、疎ましく思うというのは、現代でも普通にあることですし、それが凄惨な事件に発展することもあります。
今も昔も男性としては、子連れの女性とは結婚しづらいっていう感情があるんじゃないでしょうか。
義龍の場合はお腹の中にいたわけなので、それを知らずに結婚したのであれば、なおさら複雑な心境だったと思われます。
まとめ
以上、斎藤義龍と斎藤道三の親子関係についてでした。
真相は闇の中ですが、僕としてはやっぱり、血の繋がらない親子だったのかなと言う印象です。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。