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拓麻呂です。
明智光秀や柴田勝家、羽柴秀吉など、織田信長には有名な家臣がたくさんいます。
その家臣の中でも、若かりし頃の信長を語る上で欠かせない武将が『平手政秀』です。
信長を想い、最期は壮絶に散った平手政秀という人物の真実をお伝えします。
戦国武将『平手政秀』
平手政秀の略歴
政秀は織田信定の家臣『平手経秀(ひらて つねひで)』の息子です。
つまり、親の代から織田家に仕える家柄でした。
なお、『織田信定』は、信長の祖父に当たる人物です。
政秀は信長の父『織田信秀』の重臣なので、信秀と信長の親子二代に仕えた武将ということになります。
信秀の重臣であった政秀は、51歳の時に織田信長の傅役(もりやく、教育係のこと)を任されます。
織田家の次期当主である信長の傅役という大任を担うだけあって、織田家中での政秀の存在感は増していきます。
政秀は織田家の家老『林秀貞』に次ぐ立場となり、信長の教育に邁進。
信長の元服や初陣の際にも、側近くで見守っていたと言われています。
濃姫との結婚を実現させる
織田信長の正妻と言えば『濃姫(帰蝶)』です。
濃姫は、美濃(岐阜県南部)を支配していた斎藤道三の娘です。
実は、信長と濃姫の結婚を実現させたのが政秀です。
政秀は他家との和睦交渉などの外交でも活躍した実績があり、その才を活かし信長と濃姫の婚儀を実現させたのです。
うつけの信長と覚悟の自刃
若かりし頃の信長は『うつけ』と呼ばれていたことで有名です。
『うつけ』とは、現代で言うところのヤンキーみたいなものです。
信長のうつけっぷりを示すエピソードとして、父 信秀の葬儀の時の逸話が広く知られています。
若い頃にグレるっていうのは、現代でもよくあることですが、信長の場合は武家の嫡男であり、織田家の正当な後継者です。
不良になっている場合ではないのです。
信秀亡き後、織田家の当主になってからも信長のうつけは改まりませんでした。
政秀は信長の行いを何度も諫めたと言われています。
しかし、信長はうつけのまま。
傅役としての責務を果たせなかったと感じた政秀は自刃。
享年62。
この自刃には、自らの命を賭してでも信長の素行を改めようという、強烈なメッセージを込めた壮絶な最期でした。
政秀と信長の本当の関係
以上のように、政秀の最期は美談として語り継がれています。
しかし、これには異説もあり、決して美談だけでは済まされない事情が絡んでいた可能性があるのです。
最後に、その辺りの異説をご紹介します。
政秀の息子に『五郎右衛門』という人物がいます。
五郎右衛門はだいへんな名馬を所持しており、信長はその馬を譲ってほしいと拒絶しました。
これが原因となり、信長は五郎右衛門を恨みました。
政秀からしてみれば、主君と息子の間に挟まれた状態ですから、どちらに味方するにも相当な苦悩があったと思われます。
このエピソードを信じるならば、いくら主君とはいえ、五郎右衛門の馬を無条件に所望した信長に否があるように感じますが・・・。
ともかくも、このような状況から自害してしまったという説もあるのです。
また、若かりし頃の信長は、弟 信行に謀反を起こされたことでも知られています。
この謀反には、織田家の家督継承が絡んでおり、柴田勝家や林秀貞といった重臣クラスが信行を支持していまいた。
一方、政秀は信長を支持しています。
信長の傅役ですから当然です。
この辺の、織田家内の内部事情が、政秀の自刃に関係しているとの説もあります。
このように、単なる美談だけではない可能性もあるのです。
しかし、政秀亡き後、信長は政秀寺と寺を建立し、政秀の菩提を弔っています。
政秀が自刃しても信長のうつけは変わらなかったとも言われていますが、菩提を弔っているという事実から察するに、それなりの反省があったのか、あるいはひどくその死を悲しんだのか、ともかくも信長の心を動かしたことは間違いないでしょう。
信長としては、若気の至りと言うか、政秀を舐めていた部分はあるのかもしれません。
政秀を失って、初めてその存在の大きさに気付いた、という感じなのかなと個人的には思っています。
まとめ
以上、平手政秀と織田信長についてでした。
若かりし頃の信長を支えた平手政秀。
もしかしたら、信長の人格形成に大きく影響を与えていたのかもしれませんね。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。