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拓麻呂です。
戦国武将 斎藤道三の側室に『深芳野(みよしの)』という女性がいます。
この深芳野なんですが、道三の息子 義龍との関係に、ちょっと不思議な説があります。
あまり有名な女性ではないので、深芳野という女性の簡単なプロフィールも併せて、彼女と斎藤義龍との不思議な関係を見ていきたいと思います。
斎藤道三の側室『深芳野』
深芳野を巡る謎
美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三の側室『深芳野』。
大永7年(1527年)、旧暦の6月10日、20歳の時に豊太丸という男児を生んでいます。
この豊太丸という男児が、後の斎藤義龍です。
深芳野は道三の側室ですから、普通に考えれば道三との間に授かった子供が義龍ということになります。
ただ、深芳野は道三の側室になる前は、『土岐頼芸(とき よりなり)』という人物の側室でした。
土岐頼芸とは、もともと美濃国(現在の岐阜県南部)を支配していた大名で、道三が仕えていた人物です。
実は、深芳野が道三の側室となった際、すでに土岐頼芸の子供をお腹に宿しており、その子が斎藤義龍だという説があるのです。
つまり、義龍の父親は道三ではなく、土岐頼芸なのです。
これが理由で、道三は義龍を敬遠し、正室『小見の方』が生んだ次男を溺愛。
二人の溝は決定的となり、長良川の戦いへと発展していくのです。
深芳野のプロフィール
深芳野の生没年はハッキリしていません。
しかしながら、1527年 20歳の時に義龍を生んだとするならば、1507年頃の生まれであると思われます。
深芳野は、斎藤道三の家臣で美濃三人衆の一人『稲葉一鉄(稲葉良通)』の姉とも言われています。
また、美濃で一番の美女であると同時に、身長が187センチもあったと伝わっています。
現在ですら女性で187センチはかなり珍しいと思います。
それなのに今より平均身長が低かった戦国時代において、女性で187センチは相当な大きさです。
ずば抜けた高身長のモデル体型だったのかもしれません。
なお、斎藤義龍も身長が2メートル近くあったと言われており、もしかしたら母親の深芳野からの遺伝だったのかもしれませんね。
斎藤義龍は誰の子供なのか?
このように、義龍は道三と血のつながりが無かったとされる一方で、普通に道三と深芳野の子であったたとも言われており、情報が錯綜しているのが現状です。
ただ、僕としては、やはり道三と義龍には血の繋がりは無かったのかなと考えています。
血の繋がらない息子を愛せず、疎ましく思うというのは、現代でも普通にあることですし、それが凄惨な事件に発展することもあります。
今も昔も男性としては、子連れの女性とは結婚しづらいっていう感情があるんじゃないでしょうか。
義龍の場合はお腹の中にいたわけなので、それを知らずに結婚したのであれば、なおさら複雑な心境だったと思われます。
まとめ
以上、深芳野と斎藤義龍を巡る謎でした。
義龍は斎藤道三の子だったのか?
それとも土岐頼芸の子だったのか?
親子関係が原因で、後に長良川の戦いに突き進んでいった事実を、深芳野はどんな想いで見ていたのか。
かなり複雑な心境だったのではないかなと想っています。
そんな親子関係を家系図付きで解説した記事はコチラです。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する深芳野以外の人物、もたくさん扱っています。
麒麟がくるをより楽しく観たい、あるいは麒麟がくるの予習復習にご利用ください。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。