長野業正 ~信長の野望だと強武将!!群馬県民も知らない頑固爺さん伝説~

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拓麻呂でございます。

歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズ。戦国時代を舞台にした国盗り合戦ゲームで、今も続編が発売され続けています。

このゲームを通じて歴史、主に戦国時代に興味を持った方も多いのではないでしょうか?

そんな信長の野望には当然ながら、織田信長や武田信玄など、この時代を代表する人物たちが、非常に強い武将として登場します。

このような有名武将は、史実でも活躍しているので強いのは分かります。しかし、『信長の野望』にはマイナーな武将も相当数登場しており、そんな中にも異様な強さを誇る武将が参戦しているのです。

その代表格が『長野業正(ながのなりまさ)』

信長の野望ファンにとっては、お馴染みの名前ではないでしょうか?

今回は、そんな『長野業正』の頑固伝説から、その強さに迫ってみたいと思います。

歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』から一歩先の知識を得たい方!必見です。

※今回の記事は、名将言行録や信長の野望シリーズが元になっています。あくまで業正の伝説に重点を置いた内容である事をご了承ください。

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~上州の黄班『長野業政』伝説~

業正の能力値

まず、業正の伝説に迫る前に、信長の野望における彼の強さを確認しておきましょう。

参考にするのは、『信長の野望 創造』。このゲームでは各武将に統率、武勇、知略、政治と言った能力が割り振られています。当然ながら数値が高い方が、強力な武将となります。

では、この作中に登場する業正と有名武将たちの能力値を見てみましょう。

比較的有名な、織田信長、前田利家、本多忠勝あたりと比較してみます。

【長野業正】

統率・・・89

武勇・・・78

知略・・・86

政治・・・60

合計値 313

【織田信長】

統率・・・99

武勇・・・87

知略・・・94

政治・・・100

合計値 380

【前田利家】

統率・・・80

武勇・・・84

知略・・・71

政治・・・78

合計値 313

【本多忠勝】

統率・・・84

武勇・・・98

知略・・・73

政治・・・59

合計値 314

いかがでしょうか。

さすがに戦国時代の主役とも言える信長には見劣りしますが、前田利家や本多忠勝と比べても遜色ない事がわかります。

業正の武勇伝

このように業正は、戦国時代でも比較的有名であろう前田利家や本多忠勝と比べても見劣りしない能力を持っています。

知名度は低いながらも、これだけの評価がされている要因は何なのでしょうか?ひとつずつ見ていく事にしましょう。

理由1.生涯をかけて北条氏と戦い続けた

業正が強い理由のひとつめ、それは生涯をかけて関東の雄 北条氏と戦い続けことが要因でしょう。

北条氏とは相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)小田原城を本拠として、関八州(関東全域)の支配を目指し、南関東を中心に活躍した一族です。

ついでながら、鎌倉時代の執権政治で有名な北条氏の末裔ではありませんのでご注意を。

なお、この頃の北条氏当主は『北条氏康(ほうじょううじやす)』

業正の本拠地は上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)箕輪城なので、関八州に属している為、当然ながら北条氏の標的となります。

北条氏康は、上野国にも攻め込んできて業正の主君である『上杉憲政(うえすぎのりまさ)』を追い込んでいきました。

北条氏の勢いに耐えられなくなった上杉憲政は、逃亡し越後国(えちごのくに、現在の新潟県)の長尾景虎を頼ります。この長尾景虎が後の上杉謙信です。

では、主君である憲政が逃亡した後、業正はどうしたのでしょうか?一緒に越後へ付いて行ったのでしょうか?

違います。

上野国に残り、箕輪城を本拠地として、北条氏と徹底抗戦の構えを見せたのです。

業正は強い意志を持ち、不倶戴天の敵 北条氏と戦い続ける生涯を選びました。

このように、自身よりもはるかに大きな敵である北条氏に、生涯屈することなく戦い続けた頑固っぷりが評価されたひとつの要因だと考えられます。

理由2.武田信玄を6度に渡り退けた

業正が強い理由のふたつめ、それは武田信玄の侵攻を退け続けたことが要因でしょう。

武田信玄は甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)躑躅ヶ崎館を本拠地としています。さらにこの頃の信玄は長野県も侵略していますので、業正の群馬県とは領国が接しています。

当然、信玄は上野国にも攻め込んできました。

しかし、業正も黙ってやられる訳にはいきません。

業正の子供は娘が多く、その娘たちを近隣の国衆に嫁がせ姻戚関係を結んでいました。この姻戚関係で強固に結びついた国衆たちを『箕輪衆(みのわしゅう)』と呼びます。

業正はこの箕輪衆を率い、対信玄戦において恐るべき戦果を上げています。

武田信玄が上野国に攻め込むこと実に6回。しかし業正は、その全てを撃退したと言うのです。

おそらく、業正が高評価である最も大きな理由がここにあります。

6回も負けた武田信玄は、こんな言葉を残しています。

『業正がいる限り、上州には手が出せぬ・・・』

理由3.遺言が凄まじい

業正が強い理由の3つめ、それは彼が息子『長野業盛(ながのなりもり)』に宛てた遺言です。

これまで、武田や北条と言った強敵を相手に一歩も引かなかった業正ですが、寄る年波には勝てませんでした。

人生の終わりを悟った業正は息子に宛て、こんな遺言を残しています。

『わしの墓前に花を供えるくらいなら、敵を一人でも多く討ち取り、その首をわしの墓前に供えるのじゃ!それが最も供養になるわい!武運が尽きたその時は、城を枕にして討ち死にせよ!』

息子の業盛はこの遺言に従い、武田信玄に最後まで徹底抗戦し力尽きたと伝わっています。

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~地方の時代に生まれた頑固爺さん伝説~

以上に挙げた三つの伝説が、業正が高評価たる所以であると考えられます。

ただし冒頭でも触れた通り、この伝説が全て史実である根拠は残念ながらありません。業正に関する史料自体が少なく、彼の伝説は主に江戸時代に書かれた『名将言行録』、あるいは『関八州古戦録』と言った軍記物が根拠となっています。

しかも、業正はかなりマイナーな武将であり、領国もそれほど大きくありませんでした。また、戦国時代の中心人物である織田信長や豊臣秀吉との接点も全くない(と言うか世代が彼らより上)ので、歴史上重要な人物でもありません。

しかし戦国時代には、この業正と同じく、マイナーだけど武勇伝が残っている人物が意外と多いのです。

これは、戦国時代が地方の時代であったことが理由であると僕は考えています。

地方の時代であったからこそ、沢山の人物が各地域でスポットライトを浴び、歴史の表舞台に上がる事が出来たのではないでしょうか?

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戦国時代の背景には『地方の時代』があることを忘れないでください。

戦国時代とは、地方を見る事で、業正のような印象深い人物に出会うことができる面白い時代なのです。

ちなみに、長野業正は平安時代のイケメン歌人『在原業平(ありわらのなりひら)』の末裔という説もあります。

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なお、長野業正を知る貴重な一冊があります。

では、今回はこの辺で!ありがとうございました。


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