川中島の戦いの名場面ベスト3!勝敗や真相をランキングで解説

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戦国時代と戦国武将

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拓麻呂です。

 

永禄4年(1561年)第四次川中島の戦い。

武田信玄と上杉謙信が激突した、数ある戦国合戦の中でも屈指の大激戦として知られています。また、この戦いでは後世に語り継がれる数々の名場面や伝説が存在しており、それもまた現代人を惹きつける大きな要因となっています。

 

今回は、そんな第四次川中島の戦いにスポットをあて、心を熱くさせる名場面をランキング形式(ベスト3)にして、その伝説の真相や内容をわかりやすく解説してきます。

 

※今回ご紹介するランキングは個人的な見解になります。また、武田信玄と上杉謙信はその生涯において名前が変わっていますが、煩雑さを避けるため、本記事では最も知られている「武田信玄」、「上杉謙信」の名で統一しています。ご了承ください。

 

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川中島の戦い名場面ベスト3

3位 啄木鳥戦法

3位は、武田信玄の家臣 山本勘助の発案と言われる『啄木鳥戦法』です。

啄木鳥戦法の発案者と言われる「山本勘助」

啄木鳥戦法とは、鳥のキツツキの習性を模した作戦で、簡単に言うと、後ろから敵に襲い掛かり、びっくりして飛び出してきた敵を正面で待ち構えていた軍勢が殲滅するという、一種の挟撃作戦です。

 

結果的には、上杉謙信に見破られて啄木鳥戦法は失敗に終わるのですが、この作戦失敗が引き金となり、上杉軍が武田軍に猛攻をかけることになります。その結果、両軍入り乱れての大激戦へとなった(なってしまった)わけなので、やはり第四次川中島の戦いを語る上では避けては通れない出来事なのではないかと感じます。

また、この激戦がキッカケとなり、武田信玄の弟 信繁の壮絶な討死や、信玄と謙信の一騎打ちなどのエピソードも生まれているため、第四次川中島の戦いにおける名場面の発火点とも言えるのではないでしょうか?

 

啄木鳥戦法の真実

では、啄木鳥戦法の信憑性はどうなのか?という部分についてお伝えしていきましょう。実は、啄木鳥戦法が本当に実施されたかどうかについては、懐疑的な見方も存在しています。

 

上杉謙信が布陣していた場所「妻女山(さいじょざん)」。この妻女山に陣取っていた上杉軍に啄木鳥戦法を仕掛けたのですが、妻女山の尾根は傾斜がきつく道幅も狭いため、1万を超える武田の軍勢が行軍するのは物理的に不可能なのでは?という疑問が提示されています。そもそも、上杉軍が妻女山に布陣していたかどうかについても諸説ありハッキリわかっていません。

 

さらには、啄木鳥戦法を提唱した山本勘助という人物自体にいろいろ怪しい面があって、かつては実在を疑われていました。しかし、近年複数の史料から「山本菅助」なる人物の存在が確認されているので、実在はしていたとされていますが、従来言われているような「武田の軍師」であったかどうかは疑問視されています。

 

2位 車懸りの陣

2位は上杉謙信が繰り出したとされる『車懸りの陣』です。

越後の龍「上杉謙信」

霧が立ち込める中の遭遇戦だったとも言われる第四次川中島の戦い。啄木鳥戦法を見破り、武田軍を強襲した上杉軍の陣形が「車懸りの陣」なる陣形であったと言われています。車懸りの陣で突っ込んでくる上杉軍を、武田軍が鶴翼の陣で迎え撃ったというのは、第四次川中島の戦いにおける重要なポイントになります。

 

この最中に、信玄の弟であり武田のNo.2であった武田信繁が、本陣を守るため大奮戦の末に討死しています。信玄の弟という副将クラスの武将が前線に立って戦わざるをえず、しかも討ち取られてしまったということは、この時いかに武田軍が窮地に陥っていたかを物語っていると言えるでしょう。

 

車懸りの陣の真実

実は、車懸りの陣がどういった陣形、もしくは戦術だったのかは様々な説が錯綜していて、今もはっきりした答えはわかっていません。よく言われる説としては、上杉謙信を中心にして、渦巻き状に回転しながら攻め立てる戦術だったのではないかと言われています。部隊全体がぐるぐる回りながら攻めてくるので、次から次へと新しい兵力を投入できるという強みを持っていたとされています。

一方、武田信玄が採用した陣形が鶴翼の陣でした。鶴翼の陣とは、鶴が翼を広げた形に似ていることから「鶴翼」と呼ばれます。V字型に隊列を組み、ひとまとまりになって突っ込んでくる敵軍を両翼から包み込み、包囲殲滅するのに有効な陣形です。

 

このように、信玄が鶴翼の陣で迎え撃っていること、あるいは後述するように信玄の本陣が脅かされていることからも、車懸りの陣とは円陣なって突撃してくるような、突破力に優れた陣形だったのではないかと推測できます。

 

1位 武田信玄と上杉謙信の一騎打ち

1位は、川中島の戦いを代表するこのエピソード『信玄と謙信の一騎打ち』です。

甲斐の虎「武田信玄」

上杉謙信が単騎で武田本陣へ斬りこみ、信玄に3太刀浴びるも、信玄は手にした軍配で謙信の太刀を全て受け止めた、という有名なエピソードです。戦国時代を代表する名将二人が一騎打ちをしたという逸話は、やはり胸が熱くなりますね。ドラマや小説など、川中島の戦いを題材とする創作物ではこれほど盛り上がる場面は他にありませんし、実際に一騎打ちが描かれることも多いです。

 

川中島の古戦場にも一騎打ちの銅像があり、まさにこの戦いを象徴する名場面と言えるのではないでしょうか。

 

一騎打ちの真相

この逸話の関しても真偽は定かではないのですが、おおむね「フィクションの可能性が高い」と言われています。

 

武田側の史料「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」によると、「萌黄の胴肩衣を着て、頭を白布で包んだ馬上の武者に信玄が斬りつけられた」とのあるのですが、その武者が後に謙信だと判明した、といういかにも後付けっぽい理由が付されています。

一方、上杉側の史料である「上杉年譜」にでは、信玄を斬りつけたのは「荒川伊豆守」なる人物だったとしています。

 

謙信は一般的に僧兵のような格好で戦っている姿で描かれるので、そう考えると、甲陽軍鑑にある「萌黄の胴肩衣を着て、頭を白布で包んだ馬上の武者」というのは確かに謙信だったのかもしれないと考えられます。しかしながら、謙信が出家したのは第四次川中島の戦いから9年後の元亀元年(1570年)です。よってこの段階で僧兵の格好をしていたとするのは不自然です。

 

しかしながら、武田軍の損害の大きさから察するに、信玄の本陣が脅かされるほどの危機的状況であったことは疑いようがなく、信玄が負傷する事態だったことは事実を思われます。その際、信玄が普通の武将に斬りつけられたというのは不名誉なことですから、謙信に斬りつけられたことにして、少しでも名誉挽回を図ろうとした、などといったように、事実に尾ひれが付いて、話が盛られたというのが実情ではないかと考えています。

 

勝敗がハッキリしない川中島の戦い

以上、第四次川中島の戦いの名場面ベスト3でした。

1位 武田信玄と上杉謙信の一騎打ち

2位 上杉謙信が繰り出した車懸りの陣

3位 山本勘助が発案した啄木鳥戦法

でした。

 

最期にこの戦いについての勝敗について触れてみたいと思います。あの豊臣秀吉も「前半戦は上杉軍の勝ち、後半戦は武田軍の勝ち」という判定をくだしており、現在でも一般的には引き分けとされています。

 

解釈の仕方は色々あるのですが、戦いの目的が「川中島の地を手に入れること」とすれば、武田信玄が川中島を支配下に置いたこと、そして上杉謙信が先に戦場から撤退していることなどから、武田信玄の勝ちといえるでしょう。

とは言え、武田軍は信玄の弟である信繁を始めとして重臣を多く失っているのに比べ、上杉軍では主要な武将が戦死していません。また、全体的な損害も武田軍の方が大きくなっています。この頃はまだ兵農未分離のため、犠牲者の数は国力の低下に直結します。ゆえに犠牲の数をいかに少なく勝利するかが重要視されていました。このような観点で見れば、上杉謙信の勝ちと見ることができます。

 

つまり、勝者はどちらだったのか?というのは、この戦いを見る角度によって変わって変わってきます。そう考えると、やっぱり「引き分け」とするの妥当なのかなと言う気もしますね。

 

ということで、川中島の戦いの名場面ベスト3でした。

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。

 

【主な参考資料】