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拓麻呂です。
『山崎吉家』という戦国武将をご存じでしょうか?
2020年(令和2年)NHK大河ドラマ『麒麟がくる』にて、榎木孝明さんが演じる人物。
しかしながら、かなりの戦国通でないと、名前すら聞いたことのないマニアックな武将なのではないでしょうか?
ところが、そのマニアックさとは裏腹に、主君『朝倉義景』の為に、壮絶な最期を遂げた武将でもあります。
そんな『山崎吉家』はどんな武将だったのか簡単な略歴と共に、その最期をお伝えしていこうと思います。
朝倉義景家臣『山崎吉家』
山崎吉家のプロフィール
ではまず、山崎吉家の簡単な人物紹介をしていきます。
【本名】山崎吉家(やまざき よしいえ)※一説には『三沢』という苗字だったとも言われている。
【通称】新左衛門尉(しんざえもんのじょう)
【主君】朝倉孝景(あさくら たかかげ)→朝倉義景(あさくら よしかげ)
【生年】不詳
【没年】天正元年(1573年)
【享年】生年が不明の為、享年も不詳
【出身地】越前(現在の福井県)
山崎吉家と朝倉宗滴
越前朝倉氏の名将と言えば『朝倉宗滴(あさくら そうてき)』の名を挙げないわけにはいかないでしょう。
宗滴は朝倉家の参謀とも言える存在で、朝倉家を戦国の雄に押し上げた人物です。
その宗滴に従って活躍していたのが山崎新左衛門尉という武将、つまり『山崎吉家』です。
しかしながら、宗滴は朝倉義景などから見れば祖父世代の人物であった為、天文24年(1555年)に亡くなってしまいます。
天文24年というと、織田信長の桶狭間の戦いや、武田信玄と上杉謙信が激突した第四次川中島の戦いよりも前で、つまり朝倉宗滴は戦国初期~中期頃の人物です。
なので、朝倉家内で宗滴の職務を継承する人物が必要となり、その職務を引き継いだのが『山崎吉家』でした。
吉家は、上杉家や武田氏などの大大名との外交を担当。
このような重要な任務を担っていたことからも、朝倉家における吉家の重要度が分かるのではないでしょうか。
刀禰坂の戦い(刀根坂の戦い)と朝倉氏滅亡
吉家の主君である朝倉義景と織田信長が争う中、吉家は見事な働きぶりをしています。
朝倉家(&浅井家+比叡山延暦)が、織田信長と戦ったいわゆる『志賀の陣』の最中、吉家は織田家の武将である、『森可成(もり よしなり)』を始め、信長の弟『織田信治』らを討ち取るという大活躍を見せました。
しかし、朝倉家と織田家が雌雄を決した『刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)』(一乗谷城の戦いとも言う)にて、朝倉家は敗北。
大将の義景が敗走を始めたため、吉家は義景を逃がすため踏み留まり、織田軍を押し返すなど大奮戦しましたが、最後は討ち取られてしまいました。
なお、この時には吉家のみならず、朝倉家の武将が多数討死しており、この後の朝倉家の運命を決定づけた戦いとなりました。
それから程なくして、朝倉家の居城である一乗谷城は織田軍に攻められ炎上。
この時、義景はいとこの『朝倉景鏡(あさくら かげあきら)』の進言に従い、一乗谷城を脱出していました。
しかし、まさかの景鏡が織田家に内通するという事態が発生。
義景が隠れていた賢松寺という寺は、景鏡の軍勢に襲撃され自刃。
吉家が亡くなってなら程なくして、主君の義景も亡くなり、名門朝倉家は滅亡したのです。
山崎吉家の能力
このようにして、山崎吉家は朝倉家とともに戦場の露と消えました。
始めは朝倉宗滴に従い、その後任とされていたことからも、朝倉家において吉家が如何に重要な人物であったかは、すでに述べた通りです。
あまり記録が無いことから、憶測の域は出ないのですが、このような重要なポジションを担っていたことからも、吉家自身はかなり有能な武将だったのではないでしょうか?
上杉、武田という両雄との外交を担当し、対織田家との戦いでも活躍していることからもそう感じます。
吉家のような有能な武将を多く失ってしまい、しまいには家を滅亡させてしまった朝倉義景は、どうしても凡将と言わざるを得ないのかもしれません。
この辺は、何を基準に義景を見るかによっても、その評価は変わってくると思います。
そんな義景の評価を考察してみた記事はコチラです。
まとめ
以上、山崎吉家についてでした。
刀禰坂の戦いで討ち取られてしまった山崎吉家。
せめてもの救いは、朝倉家の滅亡を見ずに済んだことなのかもしれません。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。