佐久間信盛の追放は妥当?その理由は?織田信長の折檻状で真実を探る

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戦国時代と戦国武将

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拓麻呂です。

 

織田信長の家臣を表現したこんな歌があります。

『木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間』

 

木綿藤吉は『羽柴秀吉』(後の豊臣秀吉)

米五郎左は『丹羽長秀』

掛かれ柴田は『柴田勝家』

そして、退き佐久間と呼ばれた『佐久間信盛』

 

このように、織田家を代表する武将として名前の挙がっている信盛。

しかし、彼は怠慢を理由に織田家から追放されるという、不名誉な一面を持つ武将でもあります。

 

佐久間信盛と言えば、信長の父『信秀』の代からの重臣であり、信長が若年の頃から側近くに仕えていた近い間柄でもありました。

そんな信盛の追放は、信長が能力主義者であったことを示す一面であり、また信長の非情な性格を表す一面として語られることが多いです。

 

はたして、信盛の追放は妥当だったのか?

信長は本当に非情な宣告をしたのか?

 

信長が信盛に与えた19条から成る折檻状の中身と照らし合わせながら、信盛の追放劇を見ていきたいと思います。

 

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非情か?妥当か?佐久間信盛追放の真相

信盛への折檻状

ではまず、信盛追放時に信長が示した19条の折檻状の中身を確認してみましょう。

そのまま掲載すると凄まじい長さになるので、要点を掻い摘んで、さらに現代風にかなり噛み砕いてお伝えしていきます。

 

  1. 佐久間信盛と信栄(信盛の息子)は5年間なんの成果もあげていない。このことは世間も不審に感じている。

  2. 調略もせず城に籠っているだけで勝てると思っているのか?持久戦に固執し続けたことは何とも浅はかな考えである。

  3. 明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興は見事な働きをしている。これらの活躍を見て信盛も奮起すべきであろう!

  4. 明智、羽柴、池田の働きを受け、柴田勝家は奮起し手柄を立てているぞ!

  5. 戦で思い通りの結果が出ないのであれば、人の力を借りるなどすべきだし、また俺(信長)に報告し意見を求めるべきなのに、5年間なんの相談も報告もないのは言語道断である。

  6. 信盛配下の武将が出した書状に「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛父子も同意している。これは言い逃れするための言い訳ではないのか?

  7. 信盛は家中でも特別待遇を受けており、その配下を動員すれば戦で落ち度を取ることはなかったはずだ

  8. 新たな領地を与えたのだから配下が増えていたかと思えばそうではなく、逆に旧臣を追放している。しかも、追放した旧臣の領地を信盛自身の領地にし、私腹を肥やしているとは言語道断である。

  9. 他にも領地を与えたのに、俺(信長)が声をかけて集めた人員も追放してしまった。上記の件と合わせ言語道断である。

  10. 以前から家臣に褒美を与えたり、新たな家臣を雇ったりしていれば、これほどの落ち度を取ることはなかったのに、ケチケチしてため込むことしかしないから、このようなことになるのだ。信盛のケチ臭さはヨーロッパまで轟いている。

  11. 先年の戦いにおいても、信盛を叱った際、全く悪びれる様子もなく、それどころか自分の正当性を吹聴し座を蹴って退出してしまった。俺(信長)は面目を失った。

  12. 信栄(信盛の息子)の罪状も挙げだしたら切りがない。

  13. 欲深く、気難しく、優秀な人材を抱えようともしない。その上、仕事もいい加減に処理しているのだから、親子ともども武士の道を心得ていない。

  14. 人を使ってばかりで自分では何もしない。卑怯者である。

  15. 信盛の家臣は信栄(信盛の息子)に遠慮している。自分の思慮を自慢して穏やかなふりをしているくせに、家臣の扱いはひどいのだから怖がられているのだ。

  16. 俺(信長)の代になってから約30年間、『信盛の働きは素晴らしい』と言われるような仕事ぶりは一度も無い。

  17. かつて三方ヶ原の戦いで敗れたことがあるが、戦に負けること時代は致し方のないことである。しかし、信盛の周囲からは一人も犠牲者が出ていない。しかも援軍に来た味方を見殺しにして平然とした顔をしているのはどういうことか。

  18. こうなっては、これまでの恥を帳消しにするような功を立てるか、どこかで討死でもするしか救いようがない。

  19. 親子ともども頭を丸め高野山へ隠棲し、許しを乞うのが当然である。

 

以上が、信長が佐久間信盛に宛てた折檻状のおおまかな内容になります。

 

なお、この折檻状ですが、信長が自ら書いたと伝わっています。

当時、大名には『右筆(ゆうひつ)』と呼ばれる文書を代筆する人物が存在していました。

なので、信長のような大大名が、自ら筆をとって書状をしたためるのは異例中の異例です。

よほど我慢ならなかったのでしょうか・・・。

このような事実から、いかに信長の怒りが大きなものであったかが推測できますね。

 

信長の怒りのほどが知れる内容

この折檻状、どうでしょうか?

 

確かにひどいことを言っている箇所が散見されますね。

とくに4番目と5番目にある、明智光秀や柴田勝家(つまり同僚と)と比べて卑下している辺りは、現代の職場で部下を教育する時なんかでも絶対にやっていはいけない伝え方です。

 

また10番目にある『信盛の悪評はヨーロッパまで鳴り響いている』と言うのは、おそらく話を盛っているのではないでしょうか。

実際は、布教に来ていた西洋人の間で多少噂されていたとか、そんな感じではないかと思います。

 

ともかくも、信長の中に溜まっていた不満が一気に爆発したというか、かなりの怒りに震えていたことは伝わってきますね。

信長の一方的な言い分だけを取り上げているわけではありますが、この内容が全て真実だと仮定すれば、信盛にも非があることは間違いなさそうです。

 

信長は真っ当なことを言っている

このように、信長の辛辣な発言ばかりに注目してしまいがちな折檻状の内容。

信長の言い分をまとめると、以下の3点に集約されるのではないでしょうか?

  • 上司のいうことを聞かない、部下の面倒も見ない
  • 部下へ与えるはずの給料を懐に入れ、私腹を肥やしている
  • 自分の非を認めず、言い訳ばかりする
  • 働かないで怠けている

 

これらの言い分を見てみると、信長が言っていることは、代の会社組織でも通用するような、極めて真っ当な意見であることに気付きます。

つまり佐久間信盛の働き方は、今の会社組織にも存在する『ダメな中間管理職』と同様なのです。

 

また17番目の罪状では、『負けたこと自体は仕方がない』と言っています。

つまり、『失敗することは悪い事ではないが、仕事への取り組み方に問題がある』ということを言っています。

これも至極真っ当なことで、頑張ったけれども結果的に起きてしまった失敗は責めない、というのは上司のあるべき姿です。

しかし、信盛は一生懸命やっていない上で失敗し、おまけに悪びれる様子も無かったから、厳しく糾弾されてしまったということです。

 

もちろん、信長の言い方が悪い部分もありますが、総じて見てみると、信長が非情だったというよりは、信盛の働き方に問題があったということにあるのではないでしょうか?

 

織田家中を現代の会社組織として捉えるならば、信長の言い分は社長として当然のことであり、使えない中間管理職に引導を渡したに過ぎなかったのです。

 

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まとめ

以上、佐久間信盛の追放は打倒だったのか?でした。

 

折檻状の内容からすれば、信長が非情だったわけではなく、信盛自身に大きな問題があった』と言わざるを得ないかなと言う感じです。

 

織田信長と言えば、残虐で先見性のある革命児のように言われ続けてきました。

信盛の追放劇も、そのようなイメージの中で生成されたものだったのかもしれません。

 

近年、信長像は大きく変わりつつあります。

 

天才的な手腕で有能な人材を獲得し戦国時代をリードした英雄と言うよりは、部下との人間関係に悩まされながら泥臭く進んでいったのが織田信長の真実の姿なのかもしれませんね。

 

そんな織田信長の家臣団一覧はコチラをご覧ください。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。