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『信長の野望を始めると辞め時を見失う』拓麻呂です。
人気の歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』
そんな信長の野望に登場する武将の中には、知名度は低いけど、妙にステータスの高い人物が存在します。
そんな武将たちの中から、今回は『上泉信綱』という人物を紹介致します。
上州が生んだ戦国最強の剣豪『上泉信綱(かみいずみ のぶつな )』!
宮本武蔵?柳生石舟斎?
歴史上有名な剣豪たちも、その剣の道の出発点は全て上泉信綱に行きつくのです!
剣聖!上泉信綱
信長の野望における上泉信綱
まずは、信長の野望における上泉信綱のポジションを見ていきましょう。
信長の野望に登場する武将たちの能力は、【統率】【武勇】【知略】【政治】という4つのステータスで構成されています。
その中で今回注目したいのは【武勇】
上泉信綱は【武勇】の数値だけが異様に高い。
逆に他の3つは、いたって平凡なステータスとなっています。
では、実際彼のステータスを見てみましょう。
ここでは『信長の野望 創造』のステータスを参照します。
【統率】→65
【武勇】→84
【知略】→47
【政治】→18
こんな感じで【武勇】に特化していることが分かります。
逆に【政治】は目を覆いたくなるような数値になっています。
上泉信綱は剣豪です。
剣の道に生きた男です。
剣の道に生きたからこそ高い武勇を誇っている。
そんな彼の武勇高き人生を見ていきましょう。
長野業正の家臣として
信綱は1508年ころの生まれと言われています。
最初は群馬県の上泉城を居城としていましたが、関東制覇を目論む北条氏によって上泉城は落城。
その後、同じく群馬県の箕輪城主『長野業正』を頼り、その家臣となります。
この時、信綱は長野家の実力者として『長野十六槍』の一人に名を連ねます。
なお、この頃から剣術を学び、自分の進むべき道を模索し始めていたようです。
ところが、信綱が身を寄せた長野家も、業正亡き後、武田信玄によって攻め滅ぼされてしまいます。
主家である長野家を失った信綱。
長野家を滅ぼした武田信玄は、信綱に武田に仕えるよう要求しました。
なお、この時に信玄から『信』の一字をもらい『信綱』を名乗ったとされています。(元の名前は秀綱)
しかし、信綱は要求を断り、浪人として本気で剣の道に進むことを決意したのです。
名だたる豪傑を打ち破る
剣の道を志した信綱は、京都を目指します。
その途上、柳生石舟斎、宝蔵院胤栄といった著名な武芸者との試合に臨んでいますが、信綱の剣術の前には全く歯が立たなかったと言われています。
石舟斎に至っては、信綱の弟子『疋田豊五郎(ひきた ぶんごろう)』にすら敗れ、信綱への弟子入りを志願しました。
この時、石舟斎を破った疋田豊五郎を始めとする弟子たちは、信綱の剣術を基盤にして独自の流派を興していくことになります。
信綱は竹刀の発明者
現在、剣道などでお馴染みの竹刀。
信綱は竹刀の原型を造りだした人物としても、その名を残しています。
当時、剣術の稽古に使われていたのは木刀です。
固い木刀を使った稽古では、当然ケガの危険が伴います。
せっかく剣の道を志し、稽古に励んでいてもケガばかりでは元も子もない。
そこで信綱が発明した道具が『袋竹刀』。
袋竹刀とは、割った竹に皮をかぶせた物で、打撃を受けてもダメージを軽減する画期的なものでした。
このように、剣の道を志す者に寄り添った発想で、竹刀の原型となる『袋竹刀』を考案したのです。
今なお受け継がれる剣の道
信綱が創始した流派を『新陰流(しんかげりゅう)』と言います。
この新陰流は現在まで生き残り、剣の道を志す者たちによって脈々と受け継がれています。
信綱の志した剣の道・・・
『剣』の『道』
剣道・・・
その剣道で使用されている道具こそ、信綱が原型を生み出した『竹刀』
信綱が生涯をかけて突き進んだ『剣の道』
戦国最強の剣豪 『剣聖 上泉信綱』
彼の剣術に対する熱き想いは、『竹刀』に魂を宿し、『剣道』へと形を変えて、現在でも生き続けているのです。
では、今回はこの辺で!ありがとうございました。