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拓麻呂です。
前半生が謎に包まれている『明智光秀』。
光秀は美濃の出身で、もともとは斎藤道三に仕えていたとされています。
しかし、道三と息子の義龍が争った『長良川の戦い』で、光秀が道三側に味方し敗北。
居城の明智城を追われ、浪人となってしまいます。
それから程なくして、光秀は朝倉義景と出会います。
そして、この出会いが光秀の運命を大きく変えていくことになります。
明智光秀と朝倉義景、そして織田信長。
この3人の関係を、相関図を交えながら解説していきます。
明智光秀と朝倉義景、そして織田信長
光秀、義景、信長の関係
まずは、こちらの相関図をご覧ください。
前述の通り、明智光秀は斎藤家の内紛の後、浪人となりました。
なお、この時の光秀はすでに妻帯しており、妻の『煕子(ひろこ)』も流浪を余儀なくされます。
そして、光秀は越前(現在の福井県)の大名 朝倉義景の元に身を寄せ、朝倉家に仕えたのです。
つまり、朝倉家に拾われたことで、光秀夫妻は食い扶持を手に入れることが出来たのです。
なお、この時に煕子が自分の髪を売って家計を支えたと言いう美談が生まれました。

足利義昭と織田信長を仲介
同時期に、京を追われた足利義昭も朝倉家に庇護されていました。
義昭は京都への復帰を目指しており、朝倉義景が自らを奉じて上洛してくれるのもの期待していたようです。
しかし、義景にはその気迫がなかったため、勢力を伸ばし始めていた織田家に白羽の矢が立つのです。
朝倉家に仕官していたことで、足利義昭との繋がりができた光秀。
そして、光秀のいとことされている『濃姫(帰蝶)』は、織田信長の正妻でした。
足利と織田にパイプのあった光秀は、足利義昭と織田信長を仲介。
信長と光秀の尽力で、義昭は15代将軍として京都に復帰することができたのです。
こうして光秀は朝倉家を離れ、織田家と足利家に仕える身となりました。
織田信長vs朝倉義景
こうして信長に仕えた光秀。
しかし、後の信長と義昭が不和となり、光秀は完全に織田家の家臣となっていきます。
従来、光秀は義昭(幕府権力)に好意的であったとされていましたが、昨今では光秀が真っ先に義昭を見限っていたという説も提唱され始めています。
↓詳しくはコチラ↓

ともかくも、対立することになった信長と義昭。
義昭は各地の諸大名に檄を飛ばし、信長包囲網を形成します。
この時、朝倉義景も包囲網に参加しました。
これで、織田家と朝倉家も敵対関係となり、信長の朝倉攻めが始まります。
信長の妹『お市』の嫁ぎ先である浅井家の当主『浅井長政』と親密な関係にあった朝倉家は、浅井家とともに信長に抵抗。
一時は善戦するものの、徐々に追い詰められ、居城の一乗谷城を包囲されてしまいました。
義景は城を抜け出したものの、家臣の裏切りに合い自刃して果てました。
光秀は朝倉攻めをどう思っていたのか?
結果的に、信長によって滅ぼされてしまった朝倉家。
かつて流浪の身であった自分を庇護してくれた朝倉家の末路を、光秀はどのような想いで見つめていたのでしょうか。
光秀は『狡猾で残忍な性格だった』という証言も残っているため、躊躇うことなく非情に徹することが出来たのかもしれません。
また、光秀は真面目な性格だったとも言われており、それならば仕事として割り切っていた可能性も考えられます。
しかし、かつての恩がある人物が滅亡していくというのは、なかなか複雑な状況であることに間違いはなく、普通に考えればかなり悲劇的です。
多少なりとも躊躇があったのではないかと思われます。
今となっては光秀の心の内を知る由もありませんが、本能寺の変を起こすような人物ですから、常人では考えられないほどの肝っ玉の据わった人物だったのかもしれませんね。
まとめ
以上、明智光秀と朝倉義景、織田信長との関係でした。
もともとは朝倉家に恩義のあった光秀。
しかし、現実は非情なもので、織田家に仕えたことで後に朝倉義景と敵対することになり、最終的には朝倉家は滅亡。
かなり悲劇的な状況になってしまったのでした。
↓朝倉義景は本当に愚将だったのかを検証した記事はコチラ↓

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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。