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拓麻呂です。
今なお、多くの謎に包まれている本能寺の変。
日本史における最大のミステリーなんて言われることもあります。
そんな本能寺の変の原因として、今なお根強い怨恨説。
この記事では、織田信長に対する、明智光秀の個人的な恨みに繋がった有名な出来事を、5つに絞ってご紹介します。
本能寺の変 怨恨説の根拠となる出来事
その1 朝倉義景の頭蓋骨が・・・
天正元年(1573)
朝倉義景と浅井長政を倒した織田信長。
打首にした両名の頭蓋骨に金箔を施し、これを眺めながら勝利の美酒に酔っていたと言われています。(厳密には、朝倉義景、浅井長政、浅井久政の3名の頭蓋骨)
これは信長の残虐性を示す逸話として有名です。
明智光秀は朝倉家に仕えていた時期がありました。
ただでさえ、残虐極まりない異様な光景に加え、かつての主君の変わり果てた姿。
光秀の心境は推して知るべしと言ったところでしょうか。
その2 人質の母親が・・・
天正7年(1579)
明智光秀は、丹波攻略を任されていました。(丹波は現在の大阪府、京都府、兵庫県が交わるあたり)
敵対していたのは、丹波の戦国大名 波多野氏。
しかし、光秀は丹波攻略に苦戦。
波多野氏を懐柔するため、自身の母親を人質として送り込むことになりました。
その後、丹波攻略は成功し波多野氏は降伏。
光秀は波多野氏の助命を嘆願しますが信長は聞き入れず、降伏してきた波多野秀治とその弟を磔にして処刑。
波多野家に人質となっていた光秀の母親は、報復のため殺害されてしまいました。
その3 武田家を滅ぼした後に・・・
天正10年(1582)
宿敵 武田家を追い詰め、当主 武田勝頼は天目山で自害。
ここに名門 武田家は滅びました。
この勝利を祝う宴の最中、光秀が「こんなにめでたいことはございません。我々も骨を折ったかいがあったというものです!」と発言しました。
すると信長が「貴様がいつ骨を折ったのだっ!!」と激怒し、光秀に暴行を加えたました。
多くの家臣が参加する酒宴でのこの仕打ちは、相当な辱めであったと思われます。
その4 便所に向かったら・・・
天正10年(1582)
またもや酒席での出来事。
便所に行くため座を離れた光秀を、信長が槍を持って追いかけてきて「なぜ席をはなれるのだ?この槍で貴様の首を突いてやろうかっ」と、怒声を浴びせました。
光秀は下戸だったとも言われています。
信長は飲むことを強要したしていたとも言われており、光秀はかなりキツイ思いをしていたと思われます。
その5 徳川家康の接待で・・・
天正10年(1582)
信長の居城 安土城に徳川家康を招き、光秀が接待役を任されていました。
安土城は近江(現在の滋賀県)にあります。
光秀は近江の名物である鮒鮨を振る舞いました。
現在でも、鮒鮨は臭いのキツイ食べ物として有名です。
これを、腐っていると勘違いした信長は大激怒。
光秀はすぐさま接待役を解任され、その場で暴行を受けたと言われています。
これは、とても有名なエピソードで、光秀が本能寺の変を思い立った直接の要因とされることもあります。
本能寺の変の動機
ここまで、怨恨説の要因をお伝えしてきました。
本能寺の変には怨恨説の他にも、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、イエズス会黒幕説など、様々な説が唱えられています。
ただし、怨恨説、黒幕説ともに、決め手に欠けており、今なお本当のことは分かっていません。
まぁ、個人的には怨恨説を支持しています。
真偽はされおき、最近でてきた説として、光秀と長曾我部元親の関係が要因となる、四国攻め回避説っていうのが、おもしろいなと感じています。
また、従来は革新派の信長に対し、旧体制を重んじる光秀との間で齟齬が生じたとも言われています。
その代表的な出来事として、比叡山延暦寺の焼き打ちがあり、光秀はかなり心を痛めたと言われてきました。
しかしながら、実際はそうでもなかったとも言われていて、従来の光秀像が大きく変わりつつあります。
そして、本能寺の変の後、山崎の戦いで秀吉に敗れ、逃走中に落ち武者狩りに襲われ亡くなった光秀。
ところが、この時に光秀は亡くなっておらず、生き延びていたという説があります。
非業の最期を遂げた人物によくある生存説です。
この光秀生存説でよく言われるのが『明智光秀=天海』説です。
光秀が本当に天海だったのか?徹底考察してみました。
まとめ
以上、本能寺の変 怨恨説のもとになる出来事でした。
今回ご紹介した話は、ひとつの説であり、どこまでが事実かは不明ですが、このようなエピソードが残っているということは、信長と光秀の間に何かしらのズレが生じていたのかは間違いないのかなと思っています。
実際に、今回のようなイジメと言うか、嫌がらせを受けていたら恨みを持っても仕方ないのかなという気もしますね。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。