武田信玄のビジュアル家系図。名言・死因など1分で読める解説付き

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戦国時代と戦国武将

武田信玄

戦国最強とも言われる軍勢を率い、現在の甲信地方を中心に活躍した戦国時代を代表する人物です。そんな信玄の両親や妻、息子たちなどの家系図を作成しました。

 

また、全国各地の有力な戦国武将たちとの生没年比較、一族の生没年、死因、名言を残した武将はその名言など、わかりやすく簡単に解説していきます。

 

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武田信玄の家系図

まずは信玄の家系図から。

武田信玄の関連人物サクッと解説

上記の家系図に名前のある人物の列伝を、各1分で読める程度にサクッと解説していきます。
※本記事では一部の側室を除き、正室の系図をご紹介します。

武田信玄(たけだ しんげん)

武田信玄(出典:Wikipedia)

生没年:大永元年(1521年) ~元亀4年(1573年)
誕生日:11月3日(旧暦)
死因:病死(肺結核・胃ガン・肝臓病・寄生虫による感染症など諸説あり)
享年:53
同い年の人物:蘆名盛氏、陶晴賢、六角義賢など

【信玄の名言】

信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。

自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

意味:どれほど立派な城や石垣、堀を築こうともそこに『人』がいなければ機能しない。城を守るのは人であり、人こそが大切な財産である。人に情を持ち、憎む気持ちを捨てて接することが、何より重要である。

https://hiizurukuni.com/takedashingen/

 

【1分でわかる武田信玄列伝】

『甲斐と虎』と恐れられた戦国時代を代表する人物。横暴なやりかたで領地を治めていた父 信虎を追放し当主となり、最盛期には甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の全域をはじめ、上野(群馬県)、駿河(静岡県中部)、遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)・飛騨(岐阜県北部)・越中(富山県)の一部にまで版図を広げた大大名です。

 

上杉謙信のと全5回に渡る川中島の戦いは有名で、特に4回目の戦い(第四次川中島の戦い)は、戦国時代でも屈指の大激戦として知られています。

晩年には西上作戦を決行。三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を完膚なきまでに叩きのめしましたが、織田信長との決戦を目前にして急逝しました。

 

信玄の率いる武田軍は戦国最強との呼び声も高く、その人気は今も衰えていません。

 

武田信虎

武田信虎(出典:Wikipedia)

生没年:明応3年(1494年)~天正2年(1574年)
誕生日:1月6日(旧暦)
死因:病死
享年:81
同い年の人物:吉田孝頼など

【1分でわかる武田信虎列伝】

信玄の父親。14歳で家督を相続し、甲斐国内の有力国人衆を次々と屈服させ、39歳の時に甲斐一国を統一しました。その後は、駿河の今川義元や信濃の諏訪頼重など、甲斐周辺の有力者と同盟し、外交にも力を発揮しました。

ところが、その政治姿勢が独裁的であり、多くの家臣が不満を募らせていき、ついに爆発。武田家の重臣が嫡子の晴信(後の信玄)を担ぎ、クーデーターを起こしました。これにより、信虎は回から追放され、晴信(信玄)が当主となってのです。

 

追放後は駿河や京で生活しており、亡くなったのは天正2年(1574年)。実は信玄よりも長生きしており、81歳で大往生を遂げました。

 

大井夫人(おおいふじん)

大井夫人(出典:Wikipedia)

生没年:明応6年(1497年)~天文21年(1552年)
誕生日:11月17日(旧暦)
死因:病死
享年:56
同い年の人物:原虎胤、毛利元就など

【1分でわかる大井夫人列伝】

武田信虎の正室で信玄、信繁、信廉、定恵院らの生母(大井夫人の子には信玄の兄もいて、早世したという説もあり)。大井の方(おおいのかた)と呼ぶ場合もあります。甲斐の国人 大井信達(のぶさと)の娘で、永正14年(1517年)に武田家に嫁ぎました。信虎は追放された後も、夫には従わず甲斐に留まっています。

上田原の戦いで惨敗した信玄が意地をはって戦場に留まり続けていた際には、大井夫人の説得によって信玄は陣を解いたと言われています。

なお、大井夫人の肖像画は、息子の武田信廉によって描かれたものです。

 

定恵院(じょうけいいん)

生没年:永正16年(1519年)~天文19年(1550年)
誕生日:不明
死因:病死
享年:32
同い年の人物:今川義元、小山田信有、来島通康、伊達晴宗など

【1分でわかる定恵院列伝】

信虎と大井夫人の長女で、信玄の姉。天文6年(1537年)に駿河の今川義元に嫁いでいます。これにより武田家と今川家は同盟関係となり、嫡子の氏真(うじざね)を授かりました。

信玄と重臣による信虎追放クーデーターの時、信虎は定恵院と義元夫妻に会うため駿河へ向かったのですが、その際に甲斐から締め出され戻れなくなり、結果追放されてしまいました。

 

なお、定恵院と義元の長女(嶺松院)が、後に信玄の嫡男 義信に嫁いでおり、これが武田、北条、今川の同盟、いわゆる『甲相駿三国同盟』締結時の、婚姻政策の一助となっています。

 

武田信繁(たけだのぶしげ)

武田信繁(出典:Wikipedia)

生没年:大永5年(1525年)~永禄4年(1561年)
誕生日:不明
死因:討死(第四次川中島の戦いにて)
享年:37
同い年の人物:扇谷上杉朝定、滝川一益など

【信繁の名言】

家中の郎従に対して、慈悲の心が肝要である。家来の者が病気で苦しんでいる時は、たとえ手間がかかっても、心をこめて指図を加えてやりなさい。臣下の身を、自分がノドの渇きのように思うことだ。

※信繁家訓九十九ヶ条より

 

【1分でわかる武田信繁列伝】

信虎と大井夫人の次男で、信玄の4歳年下の弟。実質的に武田の副将であり、信玄を支えた名将です。信虎は信玄よりも信繁を溺愛しており、次の武田家当主を信繁にと目論んでいましたが、暴君ぶりが過ぎたために甲斐から追放され、信玄が擁立されました。

 

信玄や家臣から厚い信頼を得ていた名将としての誉れが高く、その一方で兵法や作法に関する教訓を自身の息子のために残しており、これが後に武田家家法の原型となっています。

しかし、第四次川中島の戦いで、窮地に陥った信玄本陣を守る為に大奮戦した末に討ち取られてしまいました。

 

武田信廉(たけだのぶかど)

武田信廉(出典:Wikipedia)

生没年:天文元年(1532年)?~天正10年(1582年)
誕生日:不明
死因:処刑(武田滅亡後、織田家に捕縛され処断)
享年:51?
同い年の人物:大久保忠世、一河一存、和田惟政など(1532年生まれの場合)

【1分でわかる武田信廉列伝】

信虎と大井夫人の次男で、信玄の4歳年下の弟。出家した後の法名『逍遙軒(しょうようけん)』の名でも知られています。また、信玄に顔がよく似ていたらしく、第四次川中島の戦いなどで、信玄の影武者を務めていたとも言われています。

さらには画家としても有名で、母 大井夫人 の肖像など、多くの作品を残しています。

信玄の跡を継いだ勝頼が自害し甲斐武田家が滅亡した後、捕縛され処刑されました。

 

三条夫人(さんじょうふじん)

生没年:大永元年(1521年)?~元亀元年(1570年)
誕生日:不明
死因:病死(労咳)
享年:50?
同い年の人物:蘆名盛氏、陶晴賢、六角義賢など(1521年生まれの場合)

【1分でわかる三条夫人列伝】

信玄の正室。三条の方と呼ばれる場合もあります。信玄には子を授かる前に早世した正妻がいたため、継室として信玄に嫁ぎ、3男2女を授かりました。

その名が示す通り、三条家の出身。三条家は公家の中でも位の高い清華家(せいがけ)のひとつで、いわゆる摂関家(五摂家)に次ぐ地位を誇っていました。

 

温和な性格で、容姿も大変美しく、信玄との夫婦仲も良好だったと伝わっています。

 

諏訪御料人(すわごりょうにん)

生没年:享禄2年(1530年)? ~弘治元年(1555年)
誕生日:不明
死因:病死
享年:20代半ば?
同い年の人物:上杉謙信、大友宗麟、吉川元春、里見義弘など(1530年生まれの場合)

【1分でわかる諏訪御料人列伝】

信玄の側室。信濃の豪族 諏訪頼重の娘。信玄の後を継ぐ勝頼の生母です。生年がハッキリしていないのですが、天文11年(1542年)に信玄に嫁いだと言われ、諏訪御料人13歳頃とされています。

 

武田義信(たけだよしのぶ)

生没年:天文7年(1538年)~永禄10年(1567年)
誕生日:不明
死因:切腹(謀反を疑われたため)
享年:30
同い年の人物:今川氏真、鍋島直茂、北条氏政、本多正信、前田利家など

【1分でわかる武田義信列伝】

信玄と三条夫人の嫡男。戦場でも勇猛なうえ、内政にも器量を発揮し将来を期待されていましたが、信玄が今川家を攻めようとしたた際に対立。これは、義信の正室が今川義元の娘だったためです。

これが原因となり、義信の守役だった重臣の飯富虎昌(おぶとらまさ)とともに、信玄への謀反を企てた疑いをかけられ幽閉。虎昌は処刑され、義信も自害しました。

 

武田竜芳(たけだりゅうほう)

生没年:天文10年(1541年)~天正10年(1582年)
誕生日:不明
死因:自害、もしくは織田信忠によって処刑
享年:42
同い年の人物:穴山信君、吉良親貞、北条氏邦など

【1分でわかる武田竜芳列伝】

信玄と三条夫人の次男。生まれながらの盲目だったと伝わります(幼少期に失明したとも)。「竜芳」は出家した際の法名。信濃の国衆 海野氏の娘を娶り、海野家を継承したため「海野信親」の名でも呼ばれています。

武田勝頼が自害し、甲斐武田家が滅亡した際に竜芳も自害、もしくは織田信忠(織田信長の嫡男)に殺害されたとも言われています。

 

武田信之(たけだのぶゆき)

生没年:天文12年(1543年)~天文22年(1553年)?
誕生日:不明
死因:不明
享年:11歳前後
同い年の人物:一条兼定、織田信包、香宗我部親泰、本願寺顕如など

【1分でわかる武田信之列伝】

信玄と三条夫人の三男。11歳で早世しました。

 

黄梅院(おうばいいん)

生没年:天文12年(1543年)~永禄12年(1569年)
誕生日:不明
死因:病死
享年:27
同い年の人物:一条兼定、織田信包、香宗我部親泰、本願寺顕如など

【1分でわかる黄梅院列伝】

信玄と三条夫人の長女。武田、北条、今川の同盟、いわゆる『甲相駿三国同盟』締結時の、婚姻政策のために相模の北条氏政に嫁ぎ、北条5代最後の当主 氏直を授かっています。

桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後、信玄が今川家を攻めようとしたため三国同盟は破棄され、黄梅院は離縁され甲斐に強制送還されました。この時の心労と病が重なり、間もなく亡くなりました。

 

見性院(けんしょういん)

生没年:? ~1622年(元和8年)
誕生日:不明
死因:病死
享年:?(70代~80歳くらいと思われる)
同い年の人物:生年未詳のため不明

【1分1分でわかる見性院列伝】

信玄の次女で、生母は三条夫人。武田の家臣 穴山信君に嫁ぎました。生年は不明ですが、姉や夫の生年から察するに、おそらく1540年代半ば~1550年代あたりの生まれと思われ、当時としてはかなりの長命だったようです。晩年は徳川家康・秀忠父子の保護下で、秀忠の息子(後の保科正之)の養育に尽力しました。

 

武田勝頼(たけだかつより)

武田勝頼(出典:Wikipedia)

生没年:天文15年(1546年)~天正10年(1582年)
誕生日:不明
死因:自害
享年:37
同い年の人物:黒田官兵衛、長野業盛、南部信直、最上義光など

【1分1分でわかる武田勝頼列伝】

武田信玄と諏訪御料人の子。17歳で母の実家 諏訪家を継ぎ諏訪勝頼となりますが、異母兄の義信が父 信玄と不和になり自害させられ、次兄の竜芳は盲目、三番目の兄 信之は早世していたため、勝頼が武田家の家督を継承しました。

天正3年(1575年)織田信長・徳川家康連合軍と激突した長篠の戦いで惨敗、重臣の多くを失いました。その後もなんとか武田家を存続させましたが、天正10年(1582年)、多くの家臣に見放されるなか織田信長軍に追い詰められ天目山で自害。これにより。甲斐武田家は滅亡しました。

 

武田信玄と関連人物の生没年一覧

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武田信玄の家系図まとめ

戦国最強に推す人も多い武田軍。その最強軍を率いた武田信玄を中心に、主要人物を取り上げてご紹介しました。

今回は武田一門がメインとなりましたが、信玄の家臣にも魅力的な人物がたくさんいます。最強軍団を構成していた信玄の家臣たちは↓コチラ↓の記事で解説しています。

【甲斐の虎】武田信玄 主要家臣団一覧!武田は二十四将だけじゃない
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最後までお読みいただきありがとうございました。

 

【参考にした主な書籍】

 

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