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拓麻呂です。
オシドリ夫婦として知られる『明智光秀』と『妻木煕子』。
光秀は生涯側室を持たず、煕子に先立たれたあとも、後妻を娶らなかったと言われています。
なお、煕子は光秀が亡くなる約6年前に、病で世を去っています。
周知の通り、光秀は本能寺の変を起こし、日本の歴史を大きく変えたわけですが、もしこの時まで煕子が存命であったなら、彼女はどのような行動をとったでしょうか?
また本能寺の変は起こっていたでしょうか?
煕子と本能寺の変。
個人的な妄想も含め、歴史の『if』を考えてみたいと思います。
明智煕子が長生きしていたら
歴史は変わらなかった
いきなり結論からお伝えします。
煕子が天正2年(1582年)6月2日、つまり本能寺の変が決行された日まで存命だったとしても、本能寺の変は起こっていたと考えます。
ただ、起こっていなかった可能性に、個人的には賭けてみたい・・・。
そんな感じです。
光秀と煕子が、戦国きってのオシドリ夫婦であったからこそ、歴史は変わらなかった。
その辺の理由をお伝えしています。
光秀と煕子のエピソード
光秀と煕子の夫婦仲を物語るエピソードが、いくつか残されています。
まずは、それらのエピソードを見ていきたいと思います。
煕子は光秀に嫁ぐ直前に、疱瘡(天然痘)という病にかかってしまいました。
疱瘡は、皮膚に疾患を起こす命に係わる病気で、例え治癒したとしても、患部に痘痕(あばた)が残ってしまいます。
煕子の病は幸いにも完治しましたが、左の頬に大きな痘痕が残ってしまいました。
これから嫁入りするという時期にも関わらず、顔に大きな痘痕が出来てしまった煕子は、自らの姿を恥じ、輿入れに抵抗を感じていました。
しかし、光秀はそんなことは一切気にせず、煕子を妻に迎えたと伝わっています。
あるいは、こんなエピソードも残っています。
明智城の戦いで敗れ浪人となった光秀と煕子は、朝倉家に仕えることになります。
ですが、浪人の状況から、朝倉家に仕えたばかりの光秀は、まだまだ地位も低く苦しい生活を送っていました。
そんな中、朝倉家の重臣たちが宴を催すことになり、光秀が幹事に任命されました。
自分を売り込む大きなチャンスを手に入れた光秀でしたが、生活は苦しいまま、宴のお酒や肴を用意する費用がありません。
困り果てた光秀を、いつも側近くで見つめていた煕子は大きな決断をしました。
自らの、美しく長い黒髪をバッサリ切り落とし、その髪を売ることで宴の費用を捻出しました。
これらのエピソードが示す通り、二人はお互いを支えあう素敵な夫婦仲であったことが推測できます。
『もし』煕子が生きていたとしても・・・
光秀が本能寺の変で織田信長を討つと決意したとき、もし煕子が生きていたら・・・。
そもそも、その決意を煕子に伝えていただろうか?と考えてしまいます。
光秀が煕子の行く末を気遣うことは予想できるので、告げただろうなとは思います。
そうした時に、煕子は光秀の暴挙をどう受け止めただろうか?
おそらく、光秀の意志を尊重していただろうと想います。
煕子は、光秀と運命を共にする道を選んでいたような気がします。
固い絆で結ばれていたからこそ、最後まで光秀に添い遂げる覚悟で、夫を後押ししたのではないか?
光秀としては、煕子を道連れになんて思ってなかったと思いますが、煕子はそのつもりになっただろうと思います。
そう考えると、煕子を気遣うあまり本能寺の変を思いとどまった可能性も、少なからずあるのかなと考えています。
と言うか、思いとどまってほしかったという個人的な願望です。
まとめ
以上、煕子が生きていたら本能寺の変は起こっていたか?でした。
固い絆で結ばれた夫婦だったからこそ、煕子は光秀と運命を共にする道を選んだ。
つまり本能寺の変は起こっていた。
ただ、煕子を気遣うあまり、変を思いとどまってほしかった。
というのが個人的な結論になります。
その一方で、光秀&煕子の夫婦仲に一石を投じる説もあるのをご存じですか?
イメージを崩したくない人は閲覧注意です。
他にも、明智光秀の性格や人物像、本能寺の変についてなどの記事を扱っています。
ここを見れば『明智光秀』と、その妻『妻木煕子』のすべてが分かる!
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。