足利義昭は最後どうなったの?9割が知らない室町幕府滅亡後の義昭

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戦国時代と戦国武将

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拓麻呂です。

 

15代将軍にして、室町幕府最後の将軍『足利義昭』

13代将軍の足利義輝が無念の最期を遂げたのち、明智光秀や織田信長の助力を得て15代将軍の座につき、後に信長と不和になり京都から追放、毛利の領地である鞆の浦(とものうら)で庇護されていたところまでは、広く知られています。

 

ですが、そこから先の義昭については、意外と知られていません。

あまり語られることのない、足利義昭の晩年とその最期をお伝えします。

 

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足利義昭の晩年

京都追放~本能寺の変までの足利義昭

織田信長の助力により将軍となったにも関わらず、後に不仲となり、京都から追放されてしまった足利義昭。

義昭の追放によって室町幕府は滅び、日本の歴史は安土桃山時代へと突入していきます。

そして義昭は中国地方に下り、毛利輝元の領地であった備後(びんご、現在の広島県東部)の鞆の浦で毛利に庇護されながら生活することになります。

落ちぶれた義昭を揶揄して『貧乏公方』などという、不名誉なあだ名が付けられていました。※公方(くぼう)とは将軍の意味。

 

ですが、追放されたばかりの頃は、幕府再興を諦めておらず、上杉謙信らの協力を得ますが結局失敗に終わりました。

幕府再興の夢が絶たれた後も引き続き鞆の浦で暮らしていましたが、そうこうしている内に京都で本能寺の変が発生。

自らを京から追い出した憎き信長が倒れたことで、義昭の運命は大きく変わっていきます。

(本能寺の変の黒幕は義昭という説もある)

 

追放されてもまだまだ将軍!そして京都に復帰

ここからが、ほとんど語られることのない義昭の姿です。

 

本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、天下人へと上り詰めていきます。

そして、秀吉が島津義久を攻めた九州征伐の際、義昭は島津氏に和睦の使者を送っています。

これは停戦を命じる将軍の仕事のひとつであり、義昭はこの段階においても将軍として動いているのです。

京都を追放された段階で将軍ではなくなっているように感じますが、それは大きな誤解で、義昭が正式に将軍を辞めるのは天正16年(1588年)、つまり京都を追放されてから15年後のことなのです。

 

そして、島津が秀吉の軍門に降った後、将軍を辞した義昭は秀吉から京都の槇島というところに1万石の領地を与えられ、再び京都の土を踏むことになったのです。

将軍としての地位は失ったものの、宿敵の信長がいなくなり、しかも京都への帰還を果たした義昭は、相当嬉しかったのではないでしょうか。

 

いざ朝鮮半島へ?文禄・慶長の役!

天下統一を成し遂げた秀吉が、明(みん)に侵攻した文禄・慶長の役(いわゆる朝鮮出兵)。

実は秀吉に乞われて、義昭は軍勢を率いて参陣しているのです。

 

義昭はこの参陣にノリノリだったらしく、甲冑を身に着け上機嫌になっていたと伝わっています。

結果的に海を渡ることはありませんでしたが、肥前(現在の佐賀県)に築城した前線基地 名護屋城まで出陣しています。

また、秀吉は自ら渡海する予定で、日本を留守にしている間の自分の代わりを『前(さき)の将軍』ということで義昭に託そうと考えていたそうです。

 

最晩年は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう、高貴な人物の雑談相手)になり、よき話し相手として静かに余生を過ごしました。

信長政権下ではさんざんな扱いを受けた義昭でしたが、秀吉政権下では将軍職こそ失ったものの、不憫な扱いを受けることもなく幸せに暮らすことができました。

 

そして、慶長2年(1597年)61歳でこの世を去りました。

 

足利義昭の人物像

足利義昭というと、権力の衰えた幕府権威にしがみ付く情けない将軍とか、信長に追放された時世の読めない無能な将軍のように語られがちです。

 

ですが、秀吉政権下においては一定の敬意を持って扱われていたことが分かります。

 

現在の目で見ると、戦後時代とは古い権威の室町幕府が衰退した時代だと映ってしまいがちです。

確かにそういった一面をありますが、それが全てでもありません。

全国各地の大名たちがその権威を頼り、幕府の権威を借りることで合戦の大義名分にしていました。

そういった観点から義昭を見てみると、戦国時代という乱れた世を正そうと、将軍としての責務を懸命に果たそうとしていただけのように思えてきます。

 

義昭って信長の歴史に必ず登場する人物なので、どうしても信長の立場から見てしまいがちです。

 

信長の立場から見れば、義昭は敗者になるので愚かな面が目立ってしまいます。

ですが、信長目線を離れてみることで、初めて気づく義昭像もあります。

これは、信長に敗れた今川義元や朝倉義景にも言えることです。

 

多方面から見ることで、歴史上の人物は魅力的にも凡庸にもなり得ます。

一般的なイメージとは違った人物像を見つけるのも、歴史の楽しみの一つなのなかと僕は思っています。

 

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まとめ

以上、足利義昭の晩年と最期についてでした。

 

秀吉政権下では、一定の敬意を持って扱われ、最晩年は秀吉の話し相手として静かに暮らした足利義昭。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。