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拓麻呂です。
海道一の弓取りという異名を持つ戦国大名『今川義元』。
義元と言えば、桶狭間の戦いで、圧倒的に兵力を有していたにも関わらず、織田信長の奇襲により討ち取られてしまった負け犬というイメージが強いかと思います。
また、でっぷりとした体格で、公家のような出で立ち、馬に乗ることもままならなかったというエピソードもありますが、実際の今川義元像はどうだったのでしょうか?
海道一の弓取『今川義元』
壮絶な家督争いを制した今川義元
義元は『今川氏親』の三男とされており、本来は家督を継ぐ立場ではありませんでした。
なので、義元は出家しており『栴岳承芳(せんがくしょうほう)』(梅岳承芳とも)と名乗っていましたが、長兄の『氏輝』が若くして亡くなったため、義元にも家督継承の好機が巡ってきます。
この時に、弟の『玄広恵探(げんこうえたん)』との間で家督争いが発生します。
この争いを『花倉の乱』と言います。
この乱では、後に義元の右腕として活躍する『太原雪斎(たいげん せっさい)』も、義元陣営に味方し活躍しています。
雪斎は、義元が出家していた寺の住職でした。
また、相模の北条氏から援助を受けることにも成功し、義元は家督争いを制しました。
玄広恵探は自害し、ここに海道一の弓取り『今川義元』が誕生したのです。
今川家の領国
義元時代の今川家の最大版図は、駿河、遠江、三河の三国にまたがる広大なものでした。
現在の地名で言えば、伊豆半島を除く静岡県のほぼ全域と、愛知県の東半分くらいです。
石高換算すると、だいたい70万石くらい。
全盛期の武田信玄や上杉謙信と同等か、ちょい少ないくらいです。
また、今川領国では『今川仮名目録(いまがわかなもくろく)』という法律が存在し、領国の統治にも抜かりはありませんでした。
(戦国大名が自国の領地に制定した法律を『分国法』と言います。)
今川仮名目録は、父『氏親』が制定したものですが、義元は全部で33か条だった法律に21か条を追加し、領国経営をさらに強固なものとしました。
この今川仮名目録は、戦国時代でもわりと早めに制定された分国法とされ、後の武田信玄の分国法『甲州法度次第』にも、多大な影響を与えたと言われています。
甲相駿三国同盟
義元は隣国の強豪たちとも同盟を結ぶなどしており、外交にも抜かりはありませんでした。
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、そして駿河の今川義元。
この三者で結んだ同盟を『甲相駿三国同盟(こうそうすん さんごくどうめい)』と言います。
この同盟が成立したことで後方の脅威がなくなり、武田信玄は北へ勢力を伸ばし、北条氏康は関東に領地を広げ、今川義元は西への進出を狙うことが出来ました。
(信玄と氏康にしてみれば、上杉謙信の脅威に対抗する意味合いも大きかった)
なお、この同盟の際に、北条家から義元の嫡男『氏真』に嫁いできた女性が、有名な『早川殿』です。
武田信玄と北条氏康と言えば、戦国時代を代表する大名です。
そんな彼らと同じ立場で軍事同盟を結んでいることが、今川家の強大さを表すものだと思います。
不運の桶狭間
このように、軍事、政治、外交、全てで結果を残してきた義元ですが、最後の最後で不運に見舞われました。
織田信長と激突した桶狭間の戦いです。
諸説ありますが、義元はこの時、上洛しようとしていたとも言われています。
結果はご存知の通りです。
義元はまさかの敗北を喫し、討ち取られてしまいまいた。
戦国時代の合戦多しと言えども、総大将の大名が野戦で討ち取られたケースは、この義元と、九州の龍造寺隆信くらいではないでしょうか。
このたった1度のミスが、今川家の衰退を招いたた為、義元は後世にまで妙なイメージが定着してしまいました・・。
義元は暗愚だったのか?
現在では悪いイメージが定着している今川義元。
ですが、義元は壮絶な家督争い(花倉の乱)を制し、今川家の当主となり、駿河、遠江、三河の三国を支配した大大名です。
太原雪斎(たいげん せっさい)という有能な右腕をも従わせ、武田信玄や北条氏康とも互角に渡り合った名将です。
桶狭間の敗戦と言うのは、いわば交通事故のようなものであり、義元が無能だったから討ち取られた訳ではないと思っています。
義元が無能だったから討ち取られたのであれば、本能寺において無防備な状態で明智光秀に討たれた織田信長の方が、はるかに無能です。
また、義元は公家風の衣装を身にまとい、でっぷりと太った容姿で描かれることも多いですが、あれも後世の人々が勝手に悪いイメージを持っているにすぎません。
今川家は足利将軍家に近い家柄であったため、公家風な容姿をしていたのは事実と思われますが、当時の公家文化とは権威を示すものであり、今川家の象徴でもありました。
戦国時代は、朝廷権威が失墜していたかのようなイメージですが、義元あたりの時期は、まだまだ朝廷権威は健在で、戦国武将たちの正当性を示す、あるいは権威を象徴するものとして存在しています。
桶狭間での敗戦という、たった1度のミスにより、後世にまでダメ武将のイメージを持たれてしまった戦国一の不運な武将。
それが『今川義元』と言えるのではないでしょうか?
まとめ
以上、今川義元は有能か無能か?でした。
歴史は勝者が作るものと言われています。
今川義元は敗者であって、歴史を作ることが出来ませんでした。
織田信長の草創期のやられ役になってしまった義元ですが、もし桶狭間での失態がなかったら、戦国時代の勢力図はまた変わったものになっていたはずです。
義元の治世下までの今川家には、それくらいの影響力がありました。
海道一の弓取り『今川義元』。
個人的には、変な印象を払拭したい一番の戦国大名かもしれません。
義元の息子『今川氏真』の記事はコチラです。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。