知将 小早川隆景!毛利元就の三男!三本の矢の一角が見せた仁愛の決断

ご来訪ありがとうございます。

『毛利家の大ファン』拓麻呂です!

さて、あなたは重要な局面を迎えた時・・・即断即決できますか?それともじっくり考えて答えを出しますか?

その後の人生を左右するような重大な決断。その秘訣が一人の戦国武将の生涯から見えてきます。

『小早川隆景』

父 毛利元就の有名な逸話『三矢の訓』の内の一人である知将の誉れ高き戦国武将です。

この隆景は『じっくり考え、思いやりを持って決断する』ことに重視した武将です。

彼の考えを少し意識するだけで、人として大切なことを思い出すことができるのです。

豊臣秀吉も恐れた小早川隆景の『決断』に迫ります。

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小早川隆景の決断

毛利元就三男 小早川隆景

隆景は毛利元就の三男坊として1533年に生まれます。織田信長や豊臣秀吉と同世代です。

幼少期に小早川家に養子に出されたため、苗字は毛利ではありません。兄は毛利隆元、そして吉川元春、こちらも吉川家へ養子に出されています。

この吉川、小早川の『川』の字を取って『毛利両川(もうりりょうせん)』と呼ばれます。

父元就が世を去った後、信長との戦いや秀吉政権下で幾多の困難にぶち当たり、毛利家を守る為に決断をくだしていきます。この決断によって、毛利家も隆景自身も秀吉の元で信用を得、五大老という重要な役職まで上り詰めます。

では隆景が、どのような視点で決断を下していったのか見ていくことにしましょう。

隆景の決断その① ~本能寺の変~

1582年、本能寺の変。明智光秀の裏切りによって織田信長が世を去った有名な事件ですね。

この時、織田軍の兵を率いて毛利家と激突していたのが羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)。

一方毛利軍の兵を率いて秀吉と対峙していたのが吉川元春、小早川隆景兄弟です。そんな中、本能寺の変が起こります。

織田信長はこの世を去ります。毛利vs織田の戦局を左右する重大な事件です。

紆余曲折あり、本能寺の変を先に知ることになるのは秀吉でした。毛軍利はまだ知りません。

秀吉は即座に毛利軍と停戦し撤退を開始しますが、時を置かずして毛利軍にも知らされます。撤退をする織田軍を追撃し、大打撃を与える絶好のチャンス到来です。当然、追撃すべしとの意見が多数を占めます。

しかしこの時・・・・隆景は英断をくだします。

追撃すべきではない・・・

何故、隆景は追撃を拒んだのか?

今、追撃したところで織田軍を殲滅できる訳ではない。秀吉は勢いのある人物、今ここで恩を売れば秀吉が成り上がった時、必ず毛利に感謝する。毛利家の存続、繁栄を考えるならば追撃はすべきでない。

『毛利家の為の傍観』

これが隆景の決断でした。

結果、毛利は追撃を実行せず、秀吉は明智光秀を討ち天下統一への道を歩み始めます。隆景の読み通り、秀吉政権下で毛利は重用されていくことになります。

毛利家にとっても秀吉にとっても意味のある決断でした。

隆景の決断その② ~朝鮮からの撤退~

日本を統一した秀吉の目は朝鮮に向けられます。1592年 文禄の役(ぶんろくのえき)

この戦いに隆景は6番隊の主将として参戦します。開戦当初は怒涛の快進撃を見せた日本軍でした。

しかし海を越えての出兵です。徐々に食料や物資は枯渇していきます。兵站は途切れ不利になる日本軍。しかし、この状況下において秀吉に命令に従順な石田三成が功を焦り侵略を推し進めようとします。

隆景はこの無謀な侵略戦の危うさを感じ、三成に進言します。

退路を確保すべし

このまま進軍を続ければ日本軍は悲惨な敗北を喫することになる。その時退路が確保されていなければ、日本軍は多くの犠牲者をだすことになる。

事実、食料は困窮し、不慣れな土地で病に倒れる者も多かったと言います。隆景は日本軍を救うための決断を下したのです。

さらに隆景は日本軍の退却を円滑に行うことに繋がる大戦に臨みます。碧蹄館(へきていかん)の戦いです。

隆景率いる日本軍20000

李如松(リジョショウ)率いる敵軍20000

激しい戦いでしたが、立花宗茂らの活躍もあり日本軍は勝利します。この勝利により敵軍の李如松は戦意喪失し和平交渉が始まりました。日本軍も撤退の準備を始めます。

隆景の決断が日本を救ったのです。

隆景の決断その③ ~小早川秀秋の養子入り~

毛利家当主 輝元には子がありませんでした。そんな輝元に対し秀吉から養子を迎えないかとの話が持ち上がります。

その養子とは後の小早川秀秋、関ケ原の合戦で徳川家康に寝返り西軍の敗北を決定づけた人物です。この秀秋養子入りは毛利家にとって非常に悩ましい問題でした。

毛利家当主 輝元の養子になるということは、輝元の跡継ぎは秀秋になります。

これが何を意味するのか?

毛利の血統が途絶える・・・豊臣家による毛利家の乗っ取りです。

隆景は考えます。何しろ隆景自身が小早川家の養子となった事実があり、小早川家は毛利に取り込まれています。

毛利家を存続させる為には秀秋の養子入りは何としても阻止せねばならない。なにより秀秋には器量が無い。しかし無下に断れば豊臣政権下での毛利の立場が危うくなる。

考えに考え抜いた隆景は決断します。

秀秋を小早川家の養子に迎える。自身の小早川家を犠牲にし、毛利家を守る。

これが隆景の下した決断でした。

この当時は今と違い『家』という概念が非常に重要視されていた時代です。しかも隆景には子が無かったのですが、この時すでに別の養子を迎えていたため、その養子を手放す形での秀秋受け入れでした。苦渋の決断だったはずです。

しかし隆景は秀秋を受け入れたことで、秀吉からより一層信頼され重用されていきます。毛利の為の決断が結果的に自身の信頼にも繋がったのです。

他者を思いやる隆景の決断

このような決断を下していった小早川隆景は、豊臣秀吉にも一目置かれる存在となり、その政権下で『五大老』という重要な役職に就くこととなります。

この『五大老』は隆景の甥に当たる毛利輝元も選出されています。

五大老は、その名が示す通り5人で組織されています。

その内2人が毛利家から選ばれているのです。

これだけでも、毛利家に対する秀吉の信頼が伝わってきますが、秀吉の思惑はもう一つありました。

毛利家の当主はあくまで輝元、しかし秀吉が本当に欲した人物は小早川隆景。

つまり、隆景だけを五大老に据えることは、実質的な当主である輝元の面目が丸つぶれ。

ゆえに、隆景と輝元の二人が五大老に列せられたとも言われています。

天下人 豊臣秀吉にもその実力を認めらた小早川隆景。

そんな彼の決断の根底にあったもの・・・。

それは他者の為の決断。

毛利の為の決断。

自身の利益ではなく、他者の事を考え思いやる決断。

状況を大局的に判断し、相手にも意味のある決断。

毛利元就が築き上げた広大な毛利領は、隆景の英断によって支えられていたのです。

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隆景が説く決断の秘訣

最後に『名将言行録』に記された隆景のエピソードをご紹介します。

隆景は秀吉の軍師 黒田官兵衛と親密だったと言われています。

ある日、官兵衛が隆景の元を訪ねてきました。

官兵衛は雑談の折、隆景に一つの質問を投げかけます。

『私は物事を決めた後に後悔することがあります。それに比べ、あなたの決断には間違いがない、私には何が足りないのでしょうか?』

この問いに対し、名将 小早川隆景は決断の秘訣をこう語っています。

『私は頭が良くない、ですからじっくり考えて決断をします』

さらに隆景は続けます。

『どれほど知恵を巡らせた決断であろうと、そこに思いやりが無ければ優れた判断とは言えません。決断に最も必要な事・・・それは仁愛であると私は考えています』

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では、今回はこの辺で!ありがとうございました。


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