初心者向け!絶対に覚えておきたい戦国武将100人列伝+α

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

日本の歴史の中でも特に人気の高い戦国時代。

およそ100年間続いた戦国時代には、多くの魅力的な武将が活躍しました。

その中でも、とくに活躍した人物や、個性的な人物、抑えておいた方がよい人物などを、独断と偏見で100人選出してみました。

できるだけ、特定の地方に偏らず、全国各地の武将をピックアップしてみました。

今回あげた100人を知って入れば、一般的には結構な戦国時代通と呼べると思います。

また、候補に挙がったけど、惜しくも漏れてしまった武将たち110人も記事下に列挙しています。

戦国時代をより楽しむための戦国武将100人です。

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目次

戦国武将100人

1.明智光秀(あけち みつひで)

享禄元年(1528年)?~天正10年(1582年)

織田信長の家臣で、本能寺の変を起こしたことで有名な武将。

本能寺の変を起こした張本人。

有名な割には、前半生が謎に包まれた人物でもある。

信長と足利義昭を仲介したことがキッカケとなり、織田家に仕えることになる。

その後は、主に丹波攻略で活躍。

比叡山の焼き討ちにも参加。

秀吉同様、織田家の古参ではないにも関わらず、異例の出世を遂げ信長の覇道に大きく貢献した。

1582年6月2日、突如として信長に反旗を翻し、本能寺を襲撃。

『敵は本能寺にあり!』

この歴史をひっくり返す大事件により、信長の野望は潰えた。

しかし、その後の対応が後手後手に回り、中国地方から戻ってきた(中国大返し)羽柴秀吉との戦い(山崎の戦い)で敗れ、敗走中に落ち武者狩りに襲われ亡くなったと伝わる。

世紀の謀反人でありながら、必ずしも悪人とはされず、奥さんとも仲睦まじかったと言われている。

また、光秀が本能寺の変を起こした動機は、現在でも定説が無く、様々な憶測が飛び交っている。

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2.浅井長政(あざい ながまさ)

天文14年(1545年)~天正元年(1573年)

織田信長の妹で、戦国No.1美女と言われる『お市の方』を妻に迎えた北近江の戦国大名。

長政とお市の娘『茶々』『お初』『お江』の三姉妹はとても有名。

始めは、近江に勢力を誇っていた六角氏に臣従していたが、長政が浅井家当主となった途端、六角氏と対立。

その後、六角氏を破り戦国大名として独立を果たす。

やがて、お市との婚姻政策によって織田信長と同盟を結び、浅井家はますます発展した。

しかし、朝倉家と織田家が対立したため、朝倉家とは以前から親密な関係だった浅井家は、織田家と敵対することになる。

そして信長と不仲になっていた将軍『足利義昭』に呼応し、『武田信玄』、『本願寺顕如』、『松永久秀』ら大物とともに信長包囲網を結成するも、武田信玄の急逝によって、包囲網は瓦解。

信長の勢いに押されていった浅井家は、居城の小谷城(おだにじょう)を包囲された。

覚悟を決めた長政は、最愛の妻 お市と、娘の三姉妹を城から脱出させた後に自刃した。

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3.朝倉孝景(あさくら たかかげ)

明応2年(1493年)~天文17年(1548年)

越前(えちぜん、現在の福井県)朝倉氏10代当主。

朝倉家の名参謀『朝倉宗滴』とともに、以前から敵対していた一向一揆と戦い、和睦に持ち込む。

京都との繋がりも重視し、幕府や朝廷とのパイプを強化。

居城の一乗谷城は、雅な京風文化が栄えた。

戦国期における朝倉家の存在感を大き躍進させた名将である。

4.朝倉義景(あさくら よしかげ)

天文2年(1533年) ~天正元年(1573年)

越前(えちぜん、現在の福井県)朝倉氏11代当主。

『朝倉孝景』の子。

父の後を継ぎ、京風文化が浸透した領国の統治を安定させた。

後に15代将軍となる『足利義昭』を庇護、あるいは浪人だった明智光秀も朝倉家に身を寄せている。

しかし、京都への復帰を望む足利義昭を奉じ上洛する好機を逃したり、信長包囲網に参加するも政務に無関心だったりと、時世の読めない愚将とされることが多い。

最期は信長と敵対し、居城の一乗谷城を包囲され自害した。

生まれた時代が戦乱の世でなかったら、もっと活躍できた人物だったのかもしれない。

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5.足利義昭(あしかが よしあき)

天文6年(1537年)~慶長2年(1597年)

室町幕府15代将軍。

出家の身だったが、兄の義輝が暗殺され彼も軟禁状態となるが、幕臣であった『細川藤孝(幽斎)』らに救出された。

その後、織田信長の尽力もあり15代将軍に就任した。

しかし、織田家の勢力拡大とともに不和となり、『武田信玄』『浅井長政』『朝倉義景』『本願寺顕如』らとともに信長包囲網を形成するも、信玄が急逝したり、義景の腰が重かったりで失敗に終わる。

その後も、抵抗を続けたがことごとく失敗し、京都から追放された。

義昭の追放により、室町幕府は滅亡。

室町時代が終わり、安土桃山時代へと突入していく。

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6.足利義輝(あしかが よしてる)

天文5年(1536年)~永禄8年(1565年)

室町幕府13代将軍。

刀の扱いに長け『剣豪将軍』の異名を持つ。

11歳で将軍になるも、幕臣ながら幕府を牛耳っていた『細川晴元』、そして細川氏の後に実権を握った『三好長慶』らと対立し、たびたび京都から追い出されている。

後に長慶と和睦し京都に復帰し、諸大名の争いを調停しようと将軍らしい働きをする。

しかし、長慶亡きあと三好家を牛耳っていた『松永久秀』『三好三人衆』と不和になり、松永らが放った刺客に襲撃される。

義輝は自ら刀を振るい大奮戦するが、最後は襖で押しつぶされ、その上から刀で串刺しにされて亡くなった。

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7.蘆名盛氏(あしな もりうじ)

大永元年(1521年)~天正8年(1580年)

陸奥の一部(現在の福島県西部)を領有した戦国大名。

妻が伊達家の娘であった関係で、伊達家のお家騒動(天文の大乱)に出兵し活躍した。

そのままの勢いで領土を拡大していった盛氏は、関東の北条氏と同盟を結び、近隣の伊達家や佐竹家と凌ぎを削った。

伊達や佐竹と言った強豪と争うも、盛氏の存命中はその領土を守り抜くことに成功し、さらに上杉謙信亡き後の家督争い(御館の乱)にも介入するなど、戦国大名らしく最後まで戦い続けた武将だった。

8.尼子経久(あまご つねひさ)

長禄2年(1458年)~天文10年(1541年)

出雲(いずも、現在の島根県東部)の戦国大名。

若かりし頃に家督を相続するも、寺社領を横領したりしたため、出雲守護の京極氏と不和になり、本拠の月山富田城から追放されている。

しかし、その2年後に奇策を持って城を奪還し、逆に京極氏を追放、西国における下剋上の先駆けとなる。

その後は出雲を拠点に勢力を拡大、11カ国を領有する大大名となり、大内氏と中国地方を二分する巨大勢力となる。

経久亡き後、徐々に尼子の衰退がはじまることを考えると、まさに一代の英雄であった。

しかし、戦国時代初期を代表する名将であることは間違いない。

9.尼子晴久(あまご はるひさ)

永正11年(1514年)~永禄3年(1561年)

父が若くして亡くなっていた為、祖父である経久の後に家督を継承。

大内氏と凌ぎを削りながらも、徐々に台頭しつつあった『毛利元就』とも争い、3万ともいわれる大群で毛利の居城 吉田郡山城を包囲したが失敗に終わる(吉田郡山城の戦い)。

その翌年に『大内義隆』の軍勢に月山富田城を包囲されるが見事に撃退した。

横暴な態度が目立っていた、尼子家の最大戦力である『新宮党』を粛清したため、尼子家の斜陽を招いたとされる。

この粛清事件は、尼子家の戦力を低下させようとした毛利元就の謀略であったという説もある。

10.甘利虎泰(あまり とらやす)

明応7年(1498年)?~天文17年(1548年)

武田信虎、信玄の二代に仕えた猛将。

武田の軍師とされる『山本勘助』からも、その軍略を絶賛されている。

『板垣信方』とともに、武田家の内政の最高位である『職(しき)』を務めた。

武田の重臣たちが共謀し、独裁者のようになっていた信虎を追放、武田家当主として信玄擁立を実現した時の中心人物の一人でもある。

信玄を支え、幾多の戦場で活躍を見せたが、『村上義清』と激突した上田原の戦いで、板垣信方とともに壮絶な最期と遂げた。

11.安東愛季(あんどう ちかすえ)

天文8年(1539年)~天正15年(1587年)

出羽(でわ、現在の秋田県北部)に一大勢力を築いた戦国大名。

日本海沿岸(能代湊)を交易港として発展させ、上杉謙信や朝倉義景など、北陸日本海側の大名との交易で富を獲得し、版図を広げる。

その広大な領土は出羽国内で最大となり『斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり』と評された。

分家であった湊安東家を吸収するなどし、分裂していた安藤両家の統合を実現した東北地方屈指の名将と言える。

12.井伊直政(いい なおまさ)

永禄4年(1561年3月4日)~慶長7年(1602年)

『徳川家康』の家臣で徳川四天王の一人。

甲冑を真紅で統一した『赤備え』の部隊を率い活躍した猛将。

真紅に染め抜いた甲冑を身に着けた直政は『井伊の赤鬼』の異名で恐れられた。

関ヶ原の戦いでは、一番槍の功を挙げ、さらに薩摩の猛将『島津義弘』の部隊と激突。

いわゆる『島津の退き口』で、敵中突破を図る島津軍を追撃している最中、直政に銃弾が直撃。

その傷が原因で、関ヶ原の戦いから約2年後に亡なった。

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13.石田三成(いしだ みつなり)

永禄3年(1560年)~慶長5年(1600年)

秀吉の家臣で豊臣五奉行の一人。

秀吉に忠誠を誓っていましたが、非情な政策や堅物な性格が災いし、『加藤清正』『福島正則』と言った武闘派と対立。

その対立が秀吉没後に表面化され、歴史は関ヶ原の戦いへと突入した。

結果的には、関ヶ原で敗れ斬首。

処刑される直前まで、打倒家康の志を忘れなったという逸話も残いる。

現代の印象が良くない人物だが、部下への褒美をケチることがなく、一方で質素倹約に務めた人物としても知られている。

歴史は勝者によって作られると言う事例の、典型的な犠牲者ではないかとも感じる。

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14.板垣信方(いたがき のぶかた)

延徳元年(1489年)?~天文17年(1548年)

武田信虎、信玄の二代に仕えた猛将。

武田の軍師『山本勘助』の才を見出し、信玄に仕えるキッカケを作ったとされる。

『甘利虎泰』とともに、武田家の内政の最高位である『職(しき)』を務めた。

武田の重臣たちが共謀し、独裁者のようになっていた信虎を追放、武田家当主として信玄擁立を実現した時の中心人物の一人でもある。

信玄を支え、幾多の戦場で活躍を見せたが、『村上義清』と激突した上田原の戦いで、甘利虎泰とともに壮絶な最期と遂げた。

15.一条兼定(いちじょう かねさだ)

天文12年(1543年)~天正13年(1585年)

兼定の一条氏は応仁の乱から逃れるために、京都から土佐(とさ、現在の高知県)へ亡命してきた公家で『土佐一条氏』と呼ばれる。

京都の一条家は公家でも特に格式の高い家柄『五摂家』のひとつで、土佐一条氏はその分家。

同じく土佐の戦国大名『長宗我部元親』の台頭により徐々に不利になっていく中、政務を顧みなくなり遊興に耽るようになる。

しかも、行動を諫めた重臣を処刑するなどの暴挙に及び、家臣の反発を招き土佐から追放される。

後に『大友宗麟』の助力を得て、土佐への復帰を目指すが長宗我部元親と戦うがあえなく敗北した(四万十川の戦い)。

数多いる戦国武将の中でも、とくに愚将の烙印を押されがちな人物である。

16.今川氏親(いまがわ うじちか)

文明5年(1473年)?~大永6年(1526年)

『今川義元』の父。

氏親の母『北川殿』は『北条早雲』の姉。つまり、氏親は早雲の甥っ子にあたる。

妻は今川家の代々当主を支えた女傑『寿桂尼(じゅけいに)』。

氏親が4歳の時に父 義忠が亡くなり家督を継ぐが、幼すぎることを理由に義忠の従弟であった『小鹿範満』が政務を取り仕切ることになった。

しかし、氏親が成人した後も範満が実権を手放さなかったため、北条早雲の助力を得て範満を倒す。

正式に当主になったあとは勢力を拡大。

今川家の領内を統治する分国法『今川仮名目録』を制定するなど、内政面でも手腕を発揮した。

17.今川義元(いまがわ よしもと)

永正16年(1519年)~永禄3年(1560年)

『海道一の弓取り』と呼ばれた駿河(するが、現在の静岡県)の大大名。

兄の『今川氏輝』が早世したため、異母弟である『玄広恵探(げんこうえたん)』との激しい家督争いを制し、今川家の当主になる。

領土が隣接していた『武田信玄』『北条氏康』といった強豪たちと互角に渡り合い、後に『甲相駿三国同盟』を結ぶ。

三国同盟により後顧の憂いを絶ったことで、本格的に西方への侵攻を開始。

一説には上洛を目指していたとも言われる。

その途上、桶狭間の戦いで織田信長にまさかの敗北を喫する。

この一例を持って、無防備なまま討たれた義元を愚将とする意見もあるが、それを言ったら本能寺の変で無防備なまま謀反を起こされ自害した信長も愚将となる。

義元は、現在の静岡県から愛知県に及ぶ広大な領土を治めた戦国時代を代表する名将である。

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18.上杉景勝(うえすぎ かげかつ)

弘治元年(1556年)~元和9年(1623年)

謙信の後を継ぎ、上杉家の家督を相続した武将。

北条家より謙信の養子に入っていた『上杉景虎』と家督争いを展開。

この騒乱を『御館の乱(おたてのらん)』と言い、景勝は見事勝利。

とても無口でほとんど笑顔を見せることが無かったと伝わっている。

秀吉政権下では『五大老』の一人に列せられ、政治の中枢を担う。

景勝の配下には、愛の兜で有名な『直江兼続』がいる。

19.上杉景虎(うえすぎ かげとら)

天文23年(1554年)~天正7年(1579年)

謙信の養子で、上杉景勝と家督争い(御館の乱)を戦った武将。

厳密には『北条氏康』の息子で、上杉と北条が手を結んだ『越相同盟』に際し、謙信の養子となる。

謙信にはとても可愛がられたらしく、それが景勝には疎ましく見えたようで、謙信死後に家督争いとなり敗れて自害した。

たいへんな美男子であったという。

20.上杉謙信(うえすぎ けんしん)

享禄3年(1530年)~天正6年(1578年)

『越後の龍』の異名で呼ばれる戦国大名。

自らを毘沙門天の化身と称し、領土拡張を狙う『武田信玄』『北条氏康』という両雄と壮絶な戦いを繰り広げた軍神。

謙信、信玄、氏康が繰り広げた戦いは『関東三国志』とも言われる。

上記3名に今川義元を加えた関東~甲信越~静岡県東部あたりは、戦国時代屈指の強豪が揃った激戦区と言っても過言ではない。

戦に臨む前は、毘沙門堂に籠ってひたすら戦略練り、いざ戦となればその戦略をいかに思惑通りに実行するかを楽しんでいるような、いわば戦争芸術家のような側面もある。

有名な第四次川中島の戦いでは、武田信玄のキツツキ戦法を見破り、武田軍を窮地に陥れる。

また、織田信長の北陸方面軍(柴田勝家軍)と戦った手取川の戦いでは、圧倒的に少ない兵力で織田軍を圧倒。

謙信を恐れた信長は『洛中洛外図屏風』という立派な屏風を、謙信にプレゼントしたりもしている。

まさに『毘沙門天の化身』という異名が似合う人物である。

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運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり 何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし。 死なんと戦えば生き、 ...

21.宇喜多直家(うきた なおいえ)

享禄2年(1529年)~天正10年(1582年)

とにかく陰謀のイメージの強い人物で『備前の梟雄』の異名をとる戦国大名。

元々は浦上家に仕えており、主君の浦上宗景に引き立てられ実力を蓄えていった。

直家の悪人イメージは以下のような出来事に由来している。

  • 祖父の『宇喜多能家(よしいえ)』の仇である『島村盛実』『中山信正』を謀殺。
  • 三村家親という武将が攻めてきた時は、狙撃して暗殺。
  • 毛利家に内通し、主君 浦上宗景に反旗を翻す。
  • 宗景を追い出し、浦上家の領土全域を奪取。
  • 毛利氏が織田信長と対立した際は、羽柴秀吉に寝返り。などなど

これだけ見ると、確かに悪人のように思えるが、自身の家臣には優しい側面もあった。

実際、家臣を謀殺したことはなく、弟の忠家や三老と呼ばれる重臣たちは、直家の覇業に大貢献し、最後まで宇喜多家を支え続けている。

確かに非情な側面も持ち合わせている武将だが、逆に見れば戦国時代を生き抜くための強い意志と決断力を持った武将であるようにも思える。

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22.宇喜多秀家(うきた ひでいえ)

元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年)

直家の嫡男。

直家没後に家督を継ぐ。

秀吉に寵愛され、若くして『五大老』に列せらたことでも有名。

関ヶ原の戦いでは西軍に組し福島正則隊と激突。

戦況は優勢でしたが、小早川秀秋の裏切りにより大谷吉継隊が壊滅。

一気に東軍有利となり、秀家も抗しきれなくなって敗走した。

戦後は、領地を没収され八丈島へ島流しにされ、生涯を八丈島で過ごした。

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23.大内義興(おおうち よしおき)

文明9年(1477年)~享禄元年(1529年)

現在の山口県と北九州の一部を領有した名門 大内家の第15代当主。

戦国初期を代表する名将の一人。

京都を追放された室町幕府10代将軍 足利義稙を擁し上洛を果たし、約10年に渡り幕政に大きな影響力を持ち続けた。

しかし、義興が京都にいたことで中国地方では『尼子経久』が台頭。

義興は領地に帰国し、尼子氏と一進一退の攻防を繰り広げることとなる。

また、内政面では明との貿易によって盤石な経済基盤を手に入れ、領国を繁栄させた。

その結果、大内氏の本拠である周防(すおう、現在の山口県)は『西の京』と呼ばれるほど雅な文化が花開いた。

24.大内義隆(おおうち よしたか)

永正4年(1507年)~天文20年(1551年)

現在の山口県と北九州の一部を領有した名門 大内家の第16代当主。

大内義興の嫡男。

20代の頃は精力的に近隣諸国へ出兵し、領土を拡大。

しかし、尼子氏の居城 月山富田城攻めに失敗して以降、政務を顧みなくなり覇気を失ったとされる。

やがて、芸術などの文化に傾倒し続ける当主に危機感を覚えた家臣の『陶晴賢』の謀反を招いた。

義隆は大寧寺という寺に逃亡するが、追い詰められて自刃。

これの謀反事件を『大寧寺の変』といい、これ以降、中国地方の勢力図が大きく変わっていくことになる。

25.太田道灌(おおた どうかん)

永享4年(1432年)~文明18年(1486年)

武蔵(むさし、現在の埼玉県と東京都)に勢力を誇った扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎ)の家臣。

和歌や連歌にも長けた文化人でもある。

関東は西国に先駆けて乱世に突入。

扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏ら、戦国初期の関東の強豪らが入り乱れて争う事態となる。

そんな中で道灌は主君の上杉定正を補佐し活躍。

『長尾景春』による反乱にも迅速に対処し、乱を鎮めている。

しかし、道灌があまりにも優秀な人物であったため、その実力を主君から危険視され、暗殺されてしまった。

この愚かな行為が、扇谷上杉氏の斜陽を招くことになる。

北条早雲、長尾景春と並び、関東戦国史の草創期を代表する武将である。

26.大谷吉継(おおたに よしつぐ)

永禄2年(1559年)?~慶長5年(1600年)

誠実な性格で知られる、戦国時代の中でも人気の武将。

石田三成の友人。

どちらかと言うと内政面で活躍した印象が強いが、賤ケ岳の戦いでも七本槍並みの活躍をみせるなど、武勇に優れる面も持っている。

三成との美談には事欠かず、関ヶ原の戦いの参戦理由も三成への義理立てだったという説もある。

吉継はハンセン病だったことでも知られており、関ヶ原の戦いでは自力で歩けないほどに弱っていたが、三成の要請に応じて参戦。

輿に乗って指揮を振るい、獅子奮迅の活躍をみせるが、小早川秀秋隊の裏切りによって窮地に陥る。

さらに秀秋の裏切りに呼応し、脇坂安治隊なども寝返り、吉継の部隊を強襲。

吉継隊は一気に崩れ、その影響は戦場全体に及び、一進一退の攻防を続けていた西軍は瓦解。

敗北を悟った吉継は自刃。

関ヶ原の戦いで、唯一自害して果てた武将である。

名将 大谷吉継!石田三成とのエピソードと関ヶ原での壮絶な最後
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 人気がある戦国武将はたくさんいますが、その中でも特に人気がある人物。 ...

27.大友宗麟(おおとも そうりん)

享禄3年(1530年)~天正15年(1587年)

豊後(ぶんご、現在の大分県)の戦国大名。

『島津義久』『龍造寺隆信』と一進一退の攻防を繰り広げた、九州における3強の一角。

また、北九州に進出してきた『毛利元就』を相手にしても一歩も引かなかった実力の持ち主。

ところが、龍造寺氏と争った今山の戦いで大敗、次いで島津氏にも耳川の戦いで惨敗。

窮地に立たされた宗麟は、豊臣秀吉の救援を依頼。

これが、秀吉の九州征伐へと繋がることになる。

また、キリスト教に傾倒しすぎ、キリスト教徒の理想郷を作り上げると言う夢を抱く。

これが家臣たちの反発を招き、重臣の『立花道雪』に諫められたりしている。

28.織田信雄(おだ のぶかつ)

永禄元年(1558年)~寛永7年(1630年)

織田信長の次男。

よく凡庸扱いされる不遇な人物。

無断で出兵(天正伊賀の乱)したりして、信長に『親子の縁を切る』と、大激怒されたりしている。

本能寺の変の際は伊勢の居城にいたが、後に、父 信長の象徴でもある安土城に移動。

しかし、不審火で安土城を燃やしてしまうという大失態を犯す。※諸説あり

本能寺の変後は、信長の後継者を自任していましたが、重臣たちの会議(清州会議)で信雄を推挙する者はいなかった・・・。

その後、秀吉に味方して弟の信孝を滅ぼしたり、家康と組んで小牧・長久手の戦いに参戦したりしながら、なんだかんだで生き残っている。

結局、江戸時代まで生き延び、73歳でこの世を去った。

29.織田信孝(おだ のぶたか)

永禄元年(1558年)~天正11年(1583年)

織田信長の三男。

神戸家(かんべけ)に養子入りしており、『神戸信孝』と呼ばれることもある。

本能寺の変後、重臣たちの会議(清須会議)で、柴田勝家が後継者に推挙。

信長の孫である三法師を推挙した秀吉と対立。

賤ケ岳の戦いで柴田勝家が敗北した後、秀吉に味方した兄 信雄に攻められ自害。

30.織田信長(おだ のぶなが)

天文3年(1534年)~天正10年(1582年)

言わずと知れた、戦国時代を代表する超有名人。

若かりし頃は『うつけ』と呼ばれ軽んじられてたが、徐々に頭角を現し数々のライバルたちを撃破。

『天下布武』を掲げ、勢力を拡大しつつ、抵抗する宗教勢力とも激突。

特に、比叡山の焼き討ちは、あまりにも有名。

約10年に渡る石山本願寺との争いを制し、甲斐の武田家をも滅ぼし、まさに飛ぶ鳥落とす勢いの真っただ中で、まさかの本能寺の変で明智光秀に裏切られる。

そして、燃え盛る本能寺で『幸若舞』を舞った後に自刃。

『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり』

享年49

本能寺の変は、日本史をひっくり返した大事件であるとともに、明智光秀の動機など、今なお多くの謎に包まれている。

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31.片倉景綱(かたくら かげつな)

弘治3年(1557年)~元和元年(1615年)

通称『小十郎』。

片倉小十郎としても知られる、政宗の家臣を代表する武将。

伊達成実、鬼庭綱元と並ぶ『政宗三傑』の一人。

景綱の姉『喜多』は、政宗の乳母を務めた女性。

政宗が9歳の時に伊達家に仕える。

政宗は右目が見えなくなって目玉が飛び出しており、容貌を気にして卑屈になっていたため、目玉を強引に切り取り、以後、政宗は明るい子になったと言うエピソードがある。

政宗にとってターニングポイントとなる人取橋の戦い、摺上原の戦いなどにも参戦し、伊達家におけるNo.2のブレーンとして活躍。

大坂の陣には病で従軍しなかったが、代わりに息子の重長が参戦。

それから間もなくして息を引き取った。

32.加藤清正(かとう きよまさ)

永禄5年(1562年7月25日)~慶長16年(1611年)

福島正則らとともに、子供の頃から秀吉に仕えていた武将。

賤ケ岳七本槍の一人。

熊本城を築城した人としても有名。

石田三成の告げ口で秀吉から蟄居を命じられるも、地震が発生した時にいち早く駆けつけたことで許されたと言うエピソードがある。

このような逸話からも分かる通り、反三成派に属しており、関ヶ原の戦いでは家康側として九州で戦い戦功を挙げる。

しかし、豊臣家への忠義は生涯忘れることはなく、秀頼が家康と謁見する際も、秀頼に近侍した。

そして、家康との謁見が終わった帰途の船中で体調不良になり急逝。

あまりにも突然の死であったこと、また、タイミング的にも謁見直後の発病であることなどから、豊臣家に忠誠を誓い続ける清正を、家康が疎ましく思い、毒殺したのではないかという説が囁かれている。

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33.蒲生氏郷(がもう うじさと)

弘治2年(1556年)~文禄4年(1595年)

元々は六角義賢の家臣、六角氏が信長に滅ぼされた後は織田家に仕え、本能寺の変後に秀吉の家臣となる。

茶の湯の達人7名からなる『利休七哲』に一人に数えられ、また、キリシタン大名としても知られています。

秀吉の九州征伐や小田原征伐で活躍し、会津に領地を賜わる。

その後に加増され会津92万石という広大な領地を手に入れたが、畿内から遠ざけられたことで天下取りの野望が潰えたと涙を流すエピソードは有名。

なお、観光地として人気の『鶴ヶ城(会津若松城)』を築城したのはこの氏郷であり、幕末に活躍する会津藩の礎を築いた人物でもある。

病により若くして亡くなったことが惜しまれる武将の一人。

当時としては珍しく、側室を持たない武将でもだった。

34.吉川元春(きっかわ もとはる)

享禄3年(1530年)~天正14年(1586年)

元就の次男。

生涯負けなしの毛利家随一の猛将。

毛利両川(もうりりょうせん)の片翼。

秀吉嫌いでも有名。

幼いころに、山陰の国衆『吉川家』に養子に出され吉川を名乗る。

元春が養子入りに際しての、元就による吉川家のっとりの謀略は、元就の恐ろしさが分かる一幕である。

なお、吉川家は元就の正室『妙玖』の実家。

尼子氏の本拠地 月山富田城(がっさんとだじょう)包囲中に太平記を書写。

『吉川太平記』として、現在でも太平記研究の重要な史料となっている。

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35.九戸政実(くのへ まさざね)

天文5年(1536年)~天正19年(1591年)

九戸家は陸奥北部を支配していた南部家の一族。

政実は、出羽に広大な領土を有していた『安藤愛季』との争いなどで活躍した。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東の北条氏を倒し天下統一に王手をかけ、あとは東北を残すのみとなる。

南部家は秀吉に恭順の意を示したが、政実はこれに反発し挙兵。

しかし秀吉の軍勢によって、政実の軍は殲滅された。

よく北条家が滅亡したことで秀吉の天下統一が達成されたと言われるが、厳密には九戸政実の反乱を鎮圧したことで、秀吉への抵抗勢力が無くなり乱世は終結している。

そういった意味では、政実こそ最後の戦国武将と言えるのかもしれない。

36.黒田官兵衛(くろだ かんべえ)

天文15年(1546年)~慶長9年(1604年)

官兵衛は通称で、正しくは『黒田孝高(くろだ よしたか)』。

後年は出家して『如水(じょすい)』を号す。

竹中半兵衛と並び、秀吉の軍師として活躍した名将。

もともとは播磨(現在の兵庫県あたり)の赤松氏を母体とした小寺氏に仕えていたが、信長が播磨に攻めてきた際には、周辺の豪族をまとめ織田方に組する。

しかし、別所長治、荒木村重と言った武将が反旗を翻し、官兵衛は荒木村重の説得に赴くが捕縛されて牢獄にぶち込まれる。

秀吉の軍師として毛利攻めにも参加。

本能寺の変が起こった際に、悲しむ秀吉を見て『好機がやってきましたな・・』と囁いた逸話は、冷静沈着な官兵衛の恐ろしさを物語る。

後年は豊前(現在の福岡県と大分県あたり)に領地を持っており、関ヶ原の戦いに乗じて挙兵し九州を制圧しようとしたという説も。

しかし、関ヶ原がわずか1日で決着してしまったため、官兵衛の野望は果たせなかった。

37.高坂昌信(こうさか まさのぶ)

大永7年(1527年)~天正6年(1578年)

『逃げ弾正』の異名を持つ武将。

武田四天王(武田四名臣)の一角。

『高坂昌信』の名前で広く知られているが、正しくは『春日虎綱』と言う。

かなりの美男子だったらしく、信玄とのBLでも有名な人物。

他の四天王と異なり、上杉謙信の抑えとして信濃を守っていたため、長篠の戦いには参戦しておらず、戦後唯一生き残った四天王でもある。

長篠で敗れボロボロになって帰国した勝頼に、新しい衣服を与えるなどの気遣いも出来るイ男であった。

武田流軍学の書である『甲陽軍鑑』の原著者とも言われている。

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38.香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)

天文3年(1543年)~文禄2年(1593年)

長宗我部元親の弟。

次兄の親貞が土佐西部を任されたのに対し、親泰は土佐東部の戦線。

元親の戦いの中でも、最も激戦となった『中富川の戦い』でも活躍。

三好氏を蹴散らし、阿波(徳島県)の制覇に大きく貢献した。

また織田家との外交を担当しており、戦場だけでなく、政務でも活躍。

次男の親貞が、武勇と謀略に長けた武将、三男の親泰は武勇と政務に長けた武将であった。

親貞と親奏は、まさに元親の両腕と言える存在。

39.小早川隆景(こばやかわ たかかげ)

天文2年(1533年)~慶長2年(1597年)

毛利元就の三男。

兄に『吉川元春』とともに、毛利両川(もうりりょうせん)の片翼を担う。

毛利三兄弟の中で、元就の才能を最も受け継いだ人物と言われている。

なお、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀秋は、隆景の養子に当たる。

幼いころに、山陽の国衆『小早川家』の養子となり、水軍を擁する小早川家を乗っ取り、毛利家の水軍を束ねる存在となる。

厳島の戦いでは水軍を率い参戦し、敵将『陶晴賢』の退路を断つ活躍を見せた。

朝鮮出兵では、碧蹄館の戦いの総大将を務め、日本軍の退路を確保するなど、獅子奮迅の働きを見せる。

また秀吉の実力を早くから見抜いており、豊臣政権下では秀吉からの信頼を得て、大老に列せられた。

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40.小早川秀秋(こばやかわ ひであき)

天正10年(1582年)~慶長7年(1602年)

豊臣秀吉の正妻『ねね』の兄の息子で、子の無かった『小早川隆景』の養子となる。

これと言った活躍があるわけではないが、関ケ原の戦いで西軍を裏切り、勝敗を決定付けたある意味では重要な武将。

また、西軍に参加していた『大谷吉継』は、秀秋の裏切りで総崩れとなり自害している。

この活躍?で50万石以上を与えれ岡山城主となるが政道は乱れ、戦後わずか2年でこの世を去る。

大谷吉継の祟りではないかと噂される一方、アルコール依存症が原因ともされている。

どちらにしても、己の行いが身を滅ぼしたことに違いはない。

41.斎藤道三(さいとう どうさん)

明応3年(1494年)~弘治2年(1556年)

下剋上の代表格で『美濃のマムシ』と呼ばれた謀将。

『松永久秀』『宇喜多直家』と並び、戦国の三梟雄に名を連ねる。

一昔前までは、道三が一人で美濃一国を乗っ取ったとされていたが、最近では親子二代で成し遂げたものだと言われている。

美濃はもともと土岐氏の守護国で、土岐頼芸(とき よりなり)が治めており、道三は土岐氏に仕えてたが、謀略によって頼芸を追放、美濃一国を手に入れた。

後に、『うつけ』と呼ばれていた織田信長と同盟。

同盟に先立ち、信長と面会した時にその才能を見抜いたと言われている。

なお、この同盟で信長に嫁いだのが、道三の娘である『濃姫』。

最後は、嫡男の義龍を不破になり、長良川の戦いに発展。

信長が援軍に向かうが間に合わず、戦場に散った。

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42.斎藤利三(さいとう としみつ)

天文3年(1534年)~天正10年(1582年)

明智光秀の家臣で明智五宿老の一人。

本能寺の変を起こす光秀の意志を早くから知らされていた重臣。

徳川三代将軍 家光の乳母を務めた春日局は、利三の娘。

利三は四国の長宗我部元親と親戚関係にあり、織田と長宗我部間の外交を担当。

その結果、織田と長宗我部は良好な関係を築くが、勢力が大きくなってきた信長は、長宗我部を蔑ろにし始め、ついに挙兵。

利三自身も、利三の主である光秀も面目丸潰れとなり、この屈辱が本能寺の変の遠因をする説もある。

本能寺の変の後、光秀と豊臣秀吉が激突した『山崎の戦い』では、明智軍の先鋒として活躍するも敗北。

捕縛され処刑となった。

マイナーだけど明智光秀の盟友 斎藤利三!春日局や長宗我部との関係
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43.榊原康政(さかきばら やすまさ)

天文17年(1548年)~慶長11年(1606年)

徳川家康の家臣で、徳川四天王の一人。

数々の合戦で活躍した武勇に優れた武将。

三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦いなど、家康の主要な合戦にはほとんど参加している。

関ヶ原の戦いでは、『徳川秀忠』の隊に属していたものの、『真田昌幸』の上田城攻めに手こずり、本戦に参加出来なかった

家康が天下統一し、泰平の世が訪れた後、徳川家の武断派と内政派の間で対立が発生。

戦国時代は槍働きで活躍した康政は当然武断派だったが、泰平の世になり槍働きは必要ないことであるとして、この争いから身を引いたと伝わる。

44.佐久間信盛(さくま のぶもり)

享禄元年(152年?)~天正10年(1582年)

信長家臣団の中でも重要な人物を表現した和歌。

『木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間』の中に登場する『退き佐久間(のきさくま)』の人。

『退き佐久間』とは、退却戦(しんがり)が得意な人という意味。

(すぐに逃げる卑怯者という意味ではありません)

信長の人生において最大の宿敵である、対本願寺の総大将だったのが信盛。

しかし、なかなか攻略できず、信長に怠慢を指摘されてしまう。

本願寺攻めが進まなかったことも含め、全部で19個の難癖を付けられ、高野山に追放された。

45.佐竹義重(さたけ よししげ)

天文16年(1547年)~慶長17年(1612年)

常陸(ひたち、現在の茨城県)の戦国大名。

20代の時点で、那須家や小田家などの周辺勢力を倒し、常陸の大部分を勢力下に治め『鬼義重』と恐れられた。

現在の茨城県のほぼ全域を支配していたため、領地の隣接する関東の大勢力 北条氏や、現在の福島県会津付近を領有していた蘆名氏とも争うことになる。

蘆名家には後に次男の義広を送り込み、家督を相続させ実質的に乗っ取ることに成功。

勢力を広げ南下してきていた『伊達政宗』とも激突することになる。

知名度こそ低いが、北条、伊達、蘆名といった強豪相手に互角に渡り合った名将である。

豊臣秀吉の小田原征伐では、いち早く秀吉に臣従し立場を明確にした。

関ヶ原の戦いでは、嫡男の義宜は西軍へ、義重は東軍へ味方するべきと意見が割れてしまい、戦後に減俸され現在の秋田県に領地替えとなった。

46.里見義堯(さとみ よしたか)

永正4年(1507年)?~天正2年(1574年)

安房(あわ、現在の千葉県南部)の戦国大名。

家督相続後に関東に勢力を広げつつあった『北条氏綱』と敵対。

同じく北条氏と敵対していた『足利義明』に味方し、第1次国府台の戦いで北条氏綱と激突。

この戦で義明が討死し敗北するも、北条氏が『武田信玄』『今川義元』と揉めている間隙をついて房総半島に勢力を拡大した。

氏綱の後を継いだ『北条氏康』が武田と今川と同盟(甲相駿三国同盟)を結ぶと、里見vs北条が本格化。

義堯は『上杉謙信』と結びこれに対抗した。

北条氏との戦いに生涯をかけた武将であった。

47.真田信之(さなだ のぶゆき)

永禄9年(1566年)~万治元年(1658年)

真田昌幸の嫡男で、幸村(信繁)の兄にあたる人物。

妻は本多忠勝の娘『小松姫』。

豊臣秀吉の小田原攻めで活躍し、上野(こうずけ、現在の群馬県)の一部を賜り沼田城主となる。

関ヶ原の戦いでは、父 昌幸と弟 幸村(信繁)が、石田三成の西軍に与したのに対し、信之は徳川家康の東軍に味方した。

これは真田家を滅ぼさないための策であったとされ、『犬伏の別れ』というエピソードでも知られています。

大阪の陣でも、弟の幸村は豊臣方に味方したが、信之は家康に与し自身の代わりに息子たちが出陣している。

大阪の陣後は、信濃(しなの、現在の長野県)に本拠を移し、松代藩の藩主となった。

戦国の世にあって93歳という長寿を全うした。

48.真田昌幸(さなだ まさゆき)

天文16年(1547年)~慶長16年(1611年)

真田幸隆の三男。

真田幸村の父親。

長篠の戦いで、長男『信綱』、次男『昌輝』が討死したため、真田家の当主となる。

武田家滅亡後は、真田家の生き残りのため、徳川、北条、上杉、織田、豊臣など、状況に合わせて多くの大名に仕え、豊臣秀吉をして『表裏比興の者』と言わしめた。(表裏比興とは老獪で抜け目ないというような意味)

関ヶ原の戦いにおいて、真田家を存続させるため、自身と次男の幸村は西軍に、長男の信之は東軍に味方するという作戦を慣行。

この時の父子の別れが『犬伏の別れ』と言われる有名なエピソードである。

居城の上田城では、徳川の大軍を2度に渡り撃破。

とくに二度目の上田城攻めを受けた時は、少数の兵で徳川秀忠軍を翻弄。

その巧みな戦術にハマった秀忠は、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態を犯したと言われている。

武田、上杉、北条、徳川といった巨大勢力の狭間で、小さな真田家を生き残らせたその実力。

まさしく戦国時代きっての名将と言える人物である。

49.真田幸村(さなだ ゆきむら)

永禄10年(1567年)~慶長20年(1615年)

真田昌幸の次男。

本名は『信繁』。

若かりし頃は、上杉や豊臣の人質として過ごしている。

また、父の昌幸とともに、徳川家康の2度に渡る上田城攻めを退けている。

そして、真田幸村と言えば、大阪の陣での凄まじい活躍に尽きる。

大阪冬の陣では、真田丸を築き徳川軍をさんざんに苦しめ、夏の陣では家康の本陣に突撃し大混乱に陥れた。

幸村隊の突撃により、家康は自害を覚悟するところまで追い込まれている。

家康をここまで追い詰めたのは、三方ヶ原の戦いでの武田信玄と、大阪夏の陣での幸村の2人だけである。

最期は神社の境内で休息しているところを討ち取られたと伝わっている。

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50.柴田勝家(しばた かついえ)

大永2年(1522年)?~天正11年(1583年)

信長の家臣を代表する武将。

丹羽長秀と双璧を成す。

信長が『うつけ』と呼ばれていた頃は、信長に反抗的で信行側についていましたが敗北。

その後、再び信行が反旗を翻そうとしていることを信長に告げ、謀反を未然に食い止めることに成功。

この功績により、信長に重用されることになる。

本能寺の変の際は、北陸方面軍として上杉氏と対峙しており、信長の敵討ちが出来なかった。

そして、信長の弔い合戦で明智光秀を倒した羽柴秀吉と険悪になり、賤ケ岳の戦いで激突し敗北。

最後は、居城 北庄城で妻の『お市』(信長の妹)とともに自害した。

51.島左近(しま さこん)

天文9年(1540年)~慶長5年(1600年)

もとは筒井順慶の家臣であったと伝わるが、どちらかというと『石田三成』の家臣として有名な武将。

かなり有能な人物であったらしく、三成の収入の半分近くを与えるというVIP待遇で仕官している。

関ヶ原の戦いでも三成の西軍に属して参戦。

『鬼左近』とあだ名される程の活躍を見せるも、最期は討ち取られてしまった。

『三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近に佐和山の城』とうたわれる程の名将であった。

52.島津家久(しまづ いえひさ)

天文16年(1547年)~天正15年(1587年)

島津四兄弟の四男。

次兄の義弘にも引けを取らない猛将。

大友宗麟と激突した耳川の戦い、龍造寺隆信と激突した沖田畷の戦いにも参戦。

この2つの合戦は、宿敵大友とや龍造寺と雌雄を決する大戦だったが、家久の大活躍でともに勝利を収めている。

とくに沖田畷の戦いでは、圧倒的な兵力差をひっくり返して勝利している。

秀吉の九州征伐では、歳久同様に最後まで徹底抗戦を主張。

九州征伐軍の先鋒として侵攻してきた長宗我部元親と息子『長宗我部信親』を討ち取る活躍を見せる。(戸次川の戦い)

その後、島津は降伏しましたが、その直後に41歳で急逝。

あまりに突然の訃報だったこと、歳久同様、徹底抗戦を主張していたことこと、降伏直後であったことなどから、秀吉に疎まれていて毒殺されたのではないかとも言われている。

53.島津日新斎(しまづ じっしんさい)

明応元年(1492年)~永禄11年(1568年)

島津四兄弟の祖父にあたる人物。

『日新斎』は法名で、実名は『忠良(ただよし)』。

もとは島津の分家『伊作島津家』の生まれであったが、母が同じく分家の『相州島津家』に嫁いだ(再婚)ことで伊作、相州の両家の家督をともに継承。

また、もうひとつの分家『薩島津家』が『島津本家』と揉めており、本家からの要請で島津本家当主『島津勝久』の後継者に自身の嫡子『貴久』を送り込み、本家をも継承した。

また、薩摩武士の教育方針である『島津忠良いろは歌』の創設者でもあり、家臣の育成にも力を注いだ。

敵味方問わず、戦で亡くなった者たちへの供養も怠らなかった人格者としても知られる。

後に戦国九州を席巻する島津家の礎を築いた『島津家中興の祖』である。

54.島津義久(しまづ よしひさ)

天文2年(1533年)~慶長16年(1611年)

島津四兄弟の長兄で、島津家16代当主。

義弘、歳久、家久の個性溢れる弟たちを束ね、九州のほぼ全域を支配した名将。

大友宗麟、龍造寺隆信という強敵を撃破し、九州制覇目前に迫るが、豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ降伏、秀吉の軍門に下った。

関ヶ原の戦いでは、弟の義弘と意見が対立。

結果的に義弘は西軍に組し敗北。

その後の戦後処理で、巧みな立ち回りを見せ、領地を一切削られることはなかった。

弟たちの個性が強く、印象が薄くなりがちだが、大将としての義久の存在なくして弟たちの活躍はなかったと言える。

戦国時代の九州を代表する名将でした。

意外と知らない!島津義久は関ヶ原で何してた?義弘の兄が守った薩摩
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 現在の鹿児島県に、戦国時代を代表する猛将がいました。 島津義弘です。 ...

55.島津義弘(しまづ よしひろ)

天文4年(1535年)~元和5年(1619年)

義久の弟。島津四兄弟の次男。

兄の義久を助け、島津の勢力拡大に大きく貢献。

戦国時代を代表する猛将であり、戦闘指揮能力という意味では、戦国最強クラスの武将である。

朝鮮出兵では、7千の兵で20万の敵兵を粉砕。

一説には3万8千近くの兵を討ち取ったとも言われ、その戦果を徳川家康が大絶賛している。

(数が多きすぎるので誇張はあると思われるが、家康も絶賛していることから、かなりの戦果を上げたことは確か)

また、露梁海戦と呼ばれる戦いでは、敵将 李舜臣を討ち取るなどの凄まじい活躍を見せる。

関ヶ原の戦いでは西軍に組し敗北しますが、1500の兵で徳川軍3万の軍勢に突撃を慣行。

この敵中突破は、史上類の無い前進退却で『島津の退き口』と呼ばれ、今なおその凄まじさが語り継がれている。

島津義弘が見せた壮絶なる前進退却!!関ヶ原の敵中突破!島津の退き口!
1600年関ケ原の合戦。この戦いで見せた島津義弘の退却戦は『島津の退き口』と言われ後世まで語り継がれています。この撤退戦から感じること、それは『男の覚悟』ではないでしょうか。

戦国時代真っただ中を生きた武将でありながら、85歳という長命を保ち天寿を全うした数少ない人物。

56.陶晴賢(すえ はるかた)

大永元年(1521年)~天文24年(1555年)

大内義隆の家臣として、宿敵である尼子家と、中国地方を二分し一進一退の攻防を繰り広げた猛将。

その勇猛ぶりは『西国無双の侍大将』と称えられる。

主君の義隆が尼子の本拠 月山富田城攻めに失敗したことを契機に覇気を無くし、文化や芸術に傾倒し政務を怠りがちになったことで、大内家の行く末を案じるようになる。

やがて、その不安が武力行使という形となり、義隆を排除するに至る。

晴賢は謀反を起こし、追い詰められた義隆は大寧寺で自刃(大寧寺の変)。

大内家の実権を握った晴賢は、台頭しつつあった『毛利元就』との戦いへと突入していく。

毛利との決戦となった厳島の戦いでは、元就が張り巡らした数々の謀略に乗ってしまい、厳島におびき出され、圧倒的な兵力を持ちつつも奇襲をくらい敗れたと伝わる。

毛利の攻撃により敗走する船も全て失い、厳島に閉じ込められた晴賢は完全に逃げ道を失い自刃して果てた。

57.鈴木重秀(すずき しげひで)

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紀伊(きい、現在の和歌山県)の傭兵集団『雑賀衆』の頭領。

『雑賀孫一(孫市)』の名でも知られる。

雑賀衆は鉄砲の扱いに長けた武将集団。

織田信長と本願寺の戦いでは、本願寺側に味方して戦ったことでも有名(石山合戦)。

天王寺砦の戦いでは、織田の家臣『塙直政(ばん なおまさ)』を討ち取る活躍を見せ、本願寺の『下間頼廉(しもづま らいれん)』とともに『大阪之左右之大将』と称えられる。

本願寺が信長に屈したあとは降伏し織田に臣従。

本能寺の変後は、豊臣秀吉に仕えた。

雑賀孫一(雑賀孫市)の名前の読み方は?本名は?人物像は?
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 戦国時代に『雑賀孫一』という人物がいます。 しかしながら、雑賀...

58.宗義智(そう よしとし)

永禄11年(1568年)~慶長20年(1615年)

対馬の戦国武将。

宗氏は代々対馬を領土とし、半島との交易で富を得てきた。

ところが、豊臣秀吉が明に侵攻したいわゆる朝鮮出兵(文禄の役)で、その立場が危うくなる。

義智は秀吉の命に従い半島との外交交渉を担うが、これまで通り交易を行いたかったため義父の『小西行長』とともに、和睦の道を模索することになる。

しかし、義智と行長は戦を回避しようと手をつくしたものの失敗。

逆に秀吉を怒らせてしまい、2度目の出兵(慶長の役)を招いてしまった。

関ヶ原の戦いでは行長とともに西軍に属すが敗北。

行長は斬首となったが、半島との国交回復を考えていた家康によって許され、引き続き対馬を治め、初代対馬藩主となった。

59.太原雪斎(たいげん せっさい)

明応5年(1496年)~弘治元年(1555年)

今川義元の懐刀にして、戦国時代屈指の名参謀。

義元の教育係として辣腕を振るい、今川家の家督争い(花倉の乱)でも、義元派として当主擁立に尽力。

今川家の外交や軍事など、広範囲にわたり大きな影響力を及ぼした。

今川義元、武田信玄、北条氏康ら、強大な大名3家による『甲相駿三国同盟』の締結でも活躍。

この同盟の発案者は雪斎であるとも言われている。

義元の活躍の裏には必ず雪斎あり、と言っても過言ではない。

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60.高橋紹運(たかはし じょううん)

天文17年(1548年)~天正14年(1586年)

大友宗麟の家臣で、『立花道雪』と双璧を成す猛将。

立花宗茂の実父でもある。

大友家は耳川の戦いで島津義久に惨敗し、多くの家臣を失い、秋月氏など離反する武将もいた。

明らかに衰退し始めた大友家であったが、紹運は忠節を尽くし続ける。

そして、九州制覇を成し遂げるため、大友家の息の根を止めんと侵攻してきた島津家を居城 岩屋城で迎え撃つ。

岩屋城に籠った紹運の兵は約700人、島津軍約4万の包囲された。

紹運はわずか700の兵で島津軍4万に突撃を敢行。

700人が全滅したものの、島津軍に甚大な被害を与えたと言われている。

自刃した紹運は、掻っ捌いた腹から自身の内臓を取り出して、敵に投げつけて亡くなったとも伝わっている。

最期まで大友家に尽くし、壮絶に散った武将だった。

61.武田勝頼(たけだ かつより)

天文15年(1546年)~天正10年(1582年)

武田信玄の四男で、名門武田家最後の当主。

信玄亡き後、長篠の戦いでの惨敗、その後武田家を滅亡させてしまった、ある意味有名な人物。

四男なうえ、母は信玄の側室(諏訪御料人)であったため、本来は武田家を継ぐ立場ではなかったが、嫡男 義信の自害、次男は盲目、三男は早世ということで、勝頼が信玄の後を継ぐことになった。

長篠の戦いでは織田・徳川連合軍に惨敗。

その後、徐々に劣勢となり、次々と家臣に見放され、もはやこれまでと天目山で自害。

この自害をもって、戦国最強とも言われた武田軍は滅亡した。

武田家を滅ぼしてしまった愚将とされることも多いが、それは一面的な見方に過ぎない。

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62.武田信玄(たけだ しんげん)

大永元年(1521年)~元亀4年(1573年)

『甲斐の虎』と呼ばれた戦国大名。

本拠地は山梨県で、長野県、静岡県の一部、群馬県の一部にまで領土を広げた戦国時代を代表する人物。

孫子の兵法を熟知した信玄が組織した武田軍は、戦国最強軍団との呼び声も高い。

『風林火山』の旗印を使用したことでも有名。

家臣らと共謀し、独裁的になっていた父を追放し家督を相続。

1度は上田原の戦いで敗れるも、その後は版図を拡大し、越後の上杉謙信と対峙することになる。

両雄が激突した第四次川中島の戦いは、戦国時代屈指の大激戦として知られている。

晩年に西上作戦(上洛しようとしていたという説もある)を実施し、三方ヶ原の戦いで若き日の徳川家康を完膚なきまでに粉砕。

そのまま進軍し、信長をも蹴散らすかと思われたが急逝してしまった。

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63.竹中半兵衛(たけなか はんべえ)

天文13年(1544年)~天正7年(1579年)

半兵衛は通称で、実名は『竹中重治』。

黒田官兵衛と並び、秀吉の軍師として活躍した名将。

元々は美濃の斎藤龍興の家臣でだったが、龍興がしょうもない人物だったため、龍興を諫めるため、半兵衛がわずかな手勢で城を乗っ取り、龍興を逃亡させた。

その後、斎藤家は信長によって滅ぼされ、半兵衛も隠退したが、秀吉に三顧の礼を持って迎えられ、軍師としての活躍が始まる。

荒木村重が信長に謀反を起こした時に、黒田官兵衛が説得に赴きますが捕縛されて帰ってこなかったので、信長が裏切ったと勘違いし官兵衛の息子(後の黒田長政)を処刑しようとが、この時、官兵衛の息子を匿い守ったのが竹中半兵衛だった。

もともと病弱だったと言われ36歳の若さで亡くなり、秀吉はその死をたいへん悲しんだと言われている。

64.立花道雪(たちばな どうせつ)

永正10年(1513年)~天正13年(1585年)

大友宗麟の家臣で、『高橋紹運』と双璧を成す猛将。

女武将として知られる『立花誾千代(ぎんちよ)』の実父であり、誾千代の夫『立花宗茂』の義父にあたる。

若かりしときに落雷で歩行不能になるも、輿に乗り戦場で指揮を振るう姿は『鬼道雪』と恐れられた。

落雷にあった際、雷神を切り伏せ一命をとりとめたという伝説も残っており、この時に使用した刀が『雷切』である。

耳川の戦いで大友家が敗北し衰退していく中でも、主君の宗麟の忠節を尽くし続け、陣中でその生涯を終えた。

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65.立花宗茂(たちばな むねしげ)

永禄10年(1567年)~寛永19年(1643年)

『高橋紹運』の実子だが、『立花道雪』の娘『誾千代(ぎんちよ)』と結婚し義理の息子となる。

つまり、大友家を代表する猛将2人を父に持つ人物。

主家の大友家が豊臣秀吉の軍門に降ると、九州征伐軍の先鋒として島津家と戦った。

朝鮮出兵においても、『小早川隆景』の麾下に属し碧蹄館(へきていかん)の戦いで大活躍し、日本軍の退路を確保した。

関ヶ原の戦いでは西軍に属し大津城攻略で活躍

しかし、関ケ原の本戦で西軍が敗北したため領地を没収され浪人となった。

その後、徳川家康によって取り立てられ、さらに大阪夏の陣後に旧領である柳川に復帰。

関ヶ原の敗将の中で旧領に復帰できたのは宗茂だけである。

66.伊達成実(だて しげざね)

永禄11年(1568年)~正保3年(1646年)

政宗の父『輝宗』のいとこだが、年齢は政宗と同世代。

一方で、母方から見ると政宗のいとこ。

片倉景綱、鬼庭綱元と並ぶ『政宗三傑』の一人。

伊達家随一の猛将としても知られている。

ムカデ(毛虫とも)を模した前立ての兜を着用していたことでも有名。

人取橋の戦い、摺上原の戦いなど、伊達政宗を代表する合戦にも従軍し活躍した。

政宗の忠臣という印象が強いが、意外にも出奔経験があり、高野山に引きこもっていたことがある。

褒賞に不満があったとか、徳川家康に寝返ろうとしたとか様々な説があり、残念ながら詳細は不明。

片倉景綱らの説得で、再び政宗に仕えることとなり、大坂夏の陣などにも参戦。

江戸幕府3代将軍 家光の時代まで生き、晩年は家光に戦国期の思い出話を語り聞かせていた伝わる。

67.伊達政宗(だて まさむね)

永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)

『独眼竜』の異名で知られる有名な人物。

子供の頃に、右目が見えなくなり、眼帯を付けている姿は、多くの人がイメージする伊達政宗像である。

しかしながら、本人は右目が潰れていることにコンプレックスを持っていたようで、政宗の遺言により、後世に描かれた政宗の肖像画は、ほとんど両目が描かれている。

母親は、最上義光(もがみ よしあき)の妹『義姫(よしひめ)』。

政宗は母の義姫に疎まれていたらしく、食事に毒を盛られ危うく命を落としそうになったというエピソードも残っている。

政宗の父『輝宗』が、二本松義継に拉致されるという事件が起こった際には、人質にされている父親もろとも敵に鉄砲をぶっ放しており、父親殺しの悪名もついてしまった。

しかしながら、この父親に発砲した事件は、様々な見解が錯綜しており、本当のことは分かっていない。

秀吉の小田原征伐時のエピソードは有名で、秀吉からの参陣要求を渋り続け、いよいよ立場が危なくなってから、白装束に十字架を背負って秀吉に謁見。

この奇抜な演出に、秀吉は感嘆、政宗は処罰を逃れたと言われている。

徳川の世になってからは『遣欧使節団』を派遣したことでも有名。

晩年は仙台で静かに暮らした。

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68.長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)

天文8年(1539年)~慶長4年(1599年)

四国制覇を成し遂げた雄。

幼い頃は、女の子のような容貌をしていたので『姫若子(ひめわこ)』と呼ばれていたが、初陣で獅子奮迅の働きを見せ、それ以降も四国を蹂躙。

『土佐の出来人』の異名で恐れられる。

なお、元親の初陣は22歳で、当時としてはとても遅い初陣であった。

一方で、織田信長からは『鳥無き島の蝙蝠』と揶揄されたと言う。

(『井の中の蛙』と同じような意味)

一条兼定を『四万十川の戦い』で撃破し、土佐(高知県)を制覇。

続いて阿波(徳島県)の三好氏、伊予(愛媛県)の西園寺氏、讃岐(香川県)の香川氏などを次々と降し、四国全土に覇を唱えた。

長宗我部軍には『一領具足』という半農の兵士たちがおり、四国制覇に大きく貢献した。

織田信長とは同盟関係にあったが、長宗我部家の存在が邪魔になった信長によって同盟破棄され、一触即発の状態になったところで本能寺の変が発生し、織田家の四国攻めはうやむやになった。

本能寺の変には元親が関与していると言う説もある。

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69.長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)

天正3年(1575年)~慶長20年(1615年)

長宗我部元親の四男。

長兄の信親が討死したことで、元親の後継者になる。

元親は次男の親和、三男の親忠を排除し、独断で四男 盛親を後継者に指名。

しかし、この元親の独断には反対するものも多く、お家騒動が発生。

元親は次男の親和、三男の親忠を排除、さらに反対派を粛清し、強引に盛親を後継者にした。

こうした経緯で長宗我部家の当主になった盛親は、関ヶ原の戦いで西軍に与し参戦するも敗北。

長宗我部家は所領を没収され滅亡。

その後、浪人生活を送りますが大坂夏の陣で豊臣方に味方し参戦。

しかし、豊臣家は敗北し滅亡。

盛親は逃亡しましたが、捕らえられ処刑された。

70.津軽為信(つがる ためのぶ)

天文19年(1550年)~慶長12年(1608年)

現在の青森県の津軽地方に勢力を誇った武将。

18歳の時に南部家の家臣である大浦為則の養子となり、為則が亡くなった後に当主となる。

その後、主家である南部家の後継者争いに乗じて頭角を現し、南部家から独立。

津軽地方全域を支配する大名となる。

豊臣秀吉にもいち早く臣従し所領を安堵されている。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川の世になってからも津軽の地を支配し続け、弘前(ひろさき)の初代藩主となった。

現在、青森県の桜の名所として知られる弘前城は、津軽氏の居城であり、為信が築城したものである。

71.藤堂高虎(とうどう たかとら)

弘治2年(1556年)~寛永7年(1630年)

身長が190センチ近い大男。

時世に合わせて主君を変えたことで知られる世渡り上手。

①浅井長政→②阿閉貞征→③磯野員昌→④織田信澄→⑤羽柴秀長→⑥豊臣秀保→⑦徳川家康と、主君を7度変えている。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し活躍、戦後に伊予(いよ、現在の愛媛県)20万石を賜る。

その後、さらに加増され津藩32万石を領し、津藩の初代藩主となった。

築城の名手としても知られている。

72.徳川家康(とくがわ いえやす)

天文11年(1543年)~元和2年(1616年)

戦国時代の最終勝利者。

織田信長、豊臣秀吉と並ぶ戦国三英傑のひとり。

約260年続く泰平の世は、この家康から始まる。

『竹千代』と呼ばれた幼少期は今川義元の人質となっていたが、桶狭間の戦いで義元が討たれたことで独立を果たす。

若かりし頃は、織田家と同盟(と言うか従属)し、信長の覇業に貢献もしている。

武田信玄と激突した『三方ヶ原の戦い』では、老獪な信玄の策に引っ掛かり大敗北。

敗走途中で恐怖のあまり糞をもらしたのは有名な話。

正室の『瀬名』(築山殿)との間に嫡男『信康』を授かるが、武田家への内通の疑い有りとして、信長に処刑を命じられ実行。

この事件には謎が多く、その原因には様々な説が唱えられている。

本能寺の変が起きた際は京都にいて、家康自身も危なかったが、伊賀ルートを辿り領国に逃げ帰りました。

これを『神君 伊賀越え』と言う。

豊臣政権下では、秀吉の妹『旭』を娶り、政権の中枢を担う五大老に列せられた。

秀吉没後は、関ヶ原の戦いで石田三成を撃破。

これにより、家康の権威はゆるぎないものとなり江戸幕府を開く。

その後、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の世は揺るぎないものとなった。

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73.豊臣秀次(とよとみ の ひでつぐ)

永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)

秀吉のお姉さんの子で、秀吉の甥っ子。

秀吉の実子『鶴松』が早世したため、秀吉の養子になり、豊臣家の跡取りとなる。

秀吉から関白の地位も譲られ、名実ともに秀吉の跡取りとなるが、そのままスムーズには行かなかった。

秀吉と淀の間に秀頼が生まれたため、秀吉としては、実子の秀頼に後を継がせたいと考えでおり、秀次の存在が邪魔になる。

秀吉は、秀次の行動に問題ありと難癖をつけ、高野山に追放。

地位も名誉もはく奪されたあげく、切腹を命じられ自害。

しかも、秀次の一族も全て処刑されるという凄惨なものだった。

74.豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし)

天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)

天下統一を成し遂げ、戦国時代を終わらせた有名な人物。

貧しい身分から出発し、天下人まで上り詰めた戦国時代一の出世頭としても知られている。

本能寺の変で織田信長が討た際にも、弔い合戦(山崎の戦い)で明智光秀を撃破。

続いて、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を撃破。

小牧・長久手の戦いでは徳川家康に苦戦するも、最終的な政治工作で勝利。

四国の長宗我部元親を蹴散らした後、自身が定めた法令『惣無事令』(大名間の私戦停止令)に違反したとして、九州の島津義久を撃破。

そして、同じく惣無事令違反の罪で、関東の北条を撃破。

この後、東北地方を九戸政実らのイザコザを解決し、戦国の世は終焉した。

晩年は、嫡子の秀頼や側室の淀を愛しすぎ、ちょっとおかしくなって、千利休を切腹させたり、甥の秀次一家を滅ぼしたりしている。

そして、明(みん、現在の中国)を目指して兵を進め、明の征服を目論みますが、その最中に世を去った。

辞世の句は『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢』

まさに、日本史上で最も出世した人物らしい、最後の言葉だった。

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75.豊臣秀頼(とよとみ の ひでより)

文禄2年(1593年)~慶長20年(1615年)

秀吉と淀の愛息子で、豊臣家の跡取り。

一説には秀吉の実子ではないとも言われている。

秀吉の寵愛を一身に受けて育つ。

しかしながら、いかんせん秀吉が高齢になってからの子供なので、秀吉は秀頼の行く末を案じながら亡くなった。

秀吉の不安は的中し、関ヶ原の戦いを経て、天下は徳川家康のものとなり、豊臣家は領地を削られ一大名家と同程度の石高となってしまった。

しかし、加藤清正をはじめ、秀吉に恩義のある武将たちは秀頼に忠誠を誓っており、秀頼が生きている以上、完全な徳川の世にはならないと判断した家康は、難癖をつけ(方広寺鐘銘事件)秀頼を攻める大義名分を無理やり獲得。

大阪冬の陣は、真田幸村らの活躍で何とか切り抜けるも、夏の陣で大坂城は炎上。

燃え盛る炎の中で、母親である淀殿とともに自害した。

76.内藤昌秀(ないとう まさひで)

大永2年(1522年)~天正3年(1575年)

信玄の弟『信繁』が川中島に散った後、実質武的に武田の副将格だった名将。

武田四天王(武田四名臣)の一角。

『内藤昌豊』という名が有名ですが、正しくは『昌秀』であるとされている。

その器量を信玄は『昌秀ほどの人物であれば、この程度の活躍は当たり前!』と評しており、戦での活躍を評する『感状』を、昌豊には一通も贈らなかった。

昌秀自身も、感状などには拘っておらず、全く気にしていなかった様子。

ある意味、信玄との絆の固さがうかがえるエピソードである。

信玄亡き後の長篠の戦いにおいて、勝頼を逃がすため戦場に踏みとどまり奮戦するも、討死しした。

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77.直江兼続(なおえ かねつぐ)

永禄3年(1560年)~元和5年(1620年)

『愛』の兜で有名な人。

上杉景勝の右腕となり大活躍した人物で、徳川家康にイチャモンを付けられた際の返答『直江状』はあまりにも有名。

秀吉からも、その実力を認められ、引き抜かれそうになるが、景勝への忠義を忘れず、上杉家臣であることを守り続けた。

上杉家が、米沢30万石に減封された際、そのうち6万石を与えれられた事実からも、兼続が如何に評価されていたかが分かる。

ちなみに、兼続は義を重んじるために『愛』の兜をかぶっていたわけではない。

大河ドラマ『天地人』の兼続は、完全にフィクション。

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78.長尾景春(ながお かげはる)

嘉吉3年(1443年)~永正11年(1514年)

戦国時代の初期の人物。

『太田道灌』のライバルとして、生涯に渡り不屈の闘志を燃やし続けた武将であり、『北条早雲』と並び下剋上の先駆者と言われた武将でもある。

関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉家の家宰(かさい)であった景春は『五十子(いらこ)の戦い』で、主君である山内上杉家を蹴散らし、下克上の先駆者として、名を馳せる。

その他にも『長尾景春の乱』『長享の乱』と言った戦国初期の関東の争乱には、ほとんど関わっている。

何度負けても蘇る不屈の闘志で反乱を続けた人生だった。

隠れた名将 長尾景春!太田道灌のライバルで北条早雲と並ぶ下剋上の雄
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79.鍋島直茂(なべしま なおしげ)

天文7年(1538年)~元和4年(1618年)

龍造寺隆信の家臣を代表する人物。

幕末に活躍する佐賀藩の祖。

龍造寺氏が戦国大名化する契機となった『今山の戦い』では、夜襲を提案し500の兵で3000を破ると言う大金星を挙げる。

沖田畷の戦いで主君の龍造寺隆信が討死したあとは、隆信の嫡子『政家』を補佐し、龍造寺家存続に尽力。

ところが政家が病気で、まともに政務が行えなかった為、徐々に直茂に権力が集中するようになっていった。

その結果、主従関係が逆転してしまい、龍造寺氏の実権を直茂が引き継ぐような形になった。

このような事実がある為、直茂は龍造寺健の権力を簒奪した人物と見なされることもある。

しかしながら、直茂自身は龍造寺旧臣への配慮を優先し、佐賀藩の初代藩主を辞退。

息子の勝茂が初代藩主になっていることなどからも、直茂の実権掌握は、あくまで歴史の流れの中でそうなってしまった感が強い。

ともかくも、この直茂に始まる鍋島家の流れが、幕末に登場する佐賀藩の雄『鍋島閑叟(なべしま かんそう)』へと繋がっていくことになる。

信長の野望にも登場する鍋島直茂が説く長所と短所の活かし方
ご来訪ありがとうございます! 拓麻呂です。 鍋島直茂(なべしま なおしげ)という戦国武将をご存知でしょうか? ...

80.南部信直(なんぶ のぶなお)

天文15年(1546年)~慶長4年(1599年)

陸奥北部(現在の青森県あたり)を支配した南部家の当主。

もとは分家の生まれであったが、20歳の時に本家の『南部晴政』の養子となる。

しかし、南部家のお家騒動で家が二分され、その間隙を突いた『津軽為信』『九戸政実』らの台頭を許してしまっが、豊臣秀吉に早くから臣従していたため、津軽地方を除く陸奥北部の領有を許された。

晩年には盛岡城を築き、後の盛岡藩の基礎を築く。

南部家の中興の祖と言える人物である。

81.丹羽長秀(にわ ながひで)

天文4年(1535年)~天正13年(1585年)

信長の家臣を代表する武将で、柴田勝家と双璧を成す。

信長家臣団の中でも特に重要な人物を表現した和歌。

『木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間』の中に登場する『米五郎左』の人。

『米五郎左(こめごろうざ)』とは、米のように大事な存在で、汎用性がありどんな場面でも活躍できるというような意味。

(五郎左は、五郎左衛門尉のことで、長秀の通称)

桶狭間の戦い、六角氏攻略、姉川の戦い、足利義昭との対立時など、信長の主要な合戦でも、指揮官として活躍。

安土城の築城を仕切っていたのも長秀。

本能寺の変発生時は、四国攻めの準備をしており、その後、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉に味方して、明智光秀を破る。

最期は、寄生虫に蝕まれて亡くなりました。

82.馬場信春(ばば のぶはる)

永正12年(1515年)~天正3年(1575年)

『不死身の鬼美濃』の異名を持つ重臣。

武田四天王(武田四名臣)の一角。

生涯70回の戦場に臨むも、かすり傷ひとつ負わなかったという伝説を持つ。

名前は『信房』とする場合もある。

もとは教来石家(きょうらいし)の出身であったが、主君 武田信玄の命により名門 馬場家を相続する。

信玄亡き後の長篠の戦いにおいて、敗走する勝頼を守り抜く為、しんがりを務めるも、大奮戦の末に討死した。

83.福島正則(ふくしま まさのり)

永禄4年(1561年)~寛永元年(1624年)

加藤清正らとともに、子供の頃から秀吉に仕えていた武将。

賤ケ岳七本槍の一人で、七人の中でも一番戦功があったと言われている。

個人的には、七本槍の中でも、特に武勇に優れた猛将のイメージが強い人。

そんな感じの武闘派なので石田三成とも不仲になり、関ケ原の戦いでは東軍に属する。

と言うか、一番に家康へ味方することを誓っており(小山評定)、最も三成憎しと思っていた印象がある。

戦場では宇喜多秀家軍と激突し、苦戦しましたがなんとか持ちこたえました。

戦後は安芸(あき、現在の広島県)に領地を得ますが、勝手に城を修復したとして改易されてしまった。

関ヶ原では家康に味方したものの、豊臣家に対する忠義は失っていなかったため、秀吉の息がかかった武将を失脚させるための、徳川方の陰謀とも言われている。

84.北条氏政(ほうじょう うじまさ)

天文7年(1538年)~天正18年(1590年)

北条氏康の嫡男。

氏康の後を継ぎ、北条氏の4代目当主となった人物。

氏政というと、どうしても避けては通れないのが、秀吉の小田原攻めでの対応。

小田原攻めの際は、名目上は5代目の氏直が当主でしたが、氏政が実権を持っていた。

ですが、秀吉に従うか否かで家中をまとめられず、結果的に秀吉に攻められ北条氏は滅亡した。

この時の北条氏の会議を『小田原評定(おだわらひょうじょう)』と言い、現代でも、結論が出なくて時間を無駄にした会議を『小田原評定』と揶揄する場合もある。

とても不名誉な印象ばかりが残るかわいそうな人。

85.北条氏康(ほうじょう うじやす)

永正12年(1515年)~元亀2年(1571年)

北条早雲、北条氏綱に続く、後北条氏の三代目。

武田信玄、上杉謙信、今川義元ら強豪と凌ぎを削った名君で通称『相模の獅子』

当時に関東の権力者たち、足利公方家、山内上杉家、扇谷上杉家を川越夜戦では、圧倒的不利な状況でありながら、敵の油断を誘い大勝利したと言われいる(川越野戦)。

『川越夜戦』と呼ばれるこの戦いは、戦国三大奇襲戦のひとつに数えられている。

また、上杉謙信や武田信玄に、居城である小田原城を包囲されるも、籠城で乗り切ったことでも有名。

後に、城下町を丸まる堀や塀で囲んだ『総構え(そうがまえ)』と呼ばれる堅固な城に改修された小田原城。

小田原城は、戦国時代でも有数の堅固な城であった。

氏康自身が内政や防衛戦で活躍したこと、また上杉謙信、武田信玄のネームバリューがありすぎることで、ちょっと地味で知名度が劣るが、強敵たちと凌ぎを削り、一歩も引けを取らなかった氏康は、間違いなく戦国時代を代表する名将であったと言える。

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86.北条早雲(ほうじょう そううん)

康正2年(1456年)~永正16年(1519年)

戦国時代の扉をこじ開けた人物で、関東に一大勢力を築いた北条氏5代の祖。

『北条早雲』という名前は後世に付けられたもので、実名は『伊勢盛時』とされている。

もともとは室町幕府に仕える幕臣であったが、今川家に嫁いでいた姉(妹とも)の縁を頼りに駿河(するが、現在の静岡県東部)へと移住する。

その後、『今川氏親』の擁立に尽力し、興国寺城主に任命された。

以降も今川家に属し、伊豆地方に攻め入り足利茶々丸を討伐、伊豆を平定した。

この伊豆乱入事件は、中央で起こった『明応の政変』と連動したものだと言われている。

さらに早雲の勢いは止まらず、箱根の峠を越え、相模(さがみ、現在の神奈川県)の小田原城を奪取。

ここに戦国北条氏が誕生することになった。

民政家としても著名で、早雲の政治方針は後の北条家当主たちにも受け継がれていくことになる。

87.細川政元(ほそかわ まさもと)

文正元年(1466年)~永正4年(1507年)

室町幕府将軍を補佐する『管領(かんれい)』を務めた細川家の当主。

室町幕府10代将軍 足利義稙を廃し、将軍を義澄にすげ変えた擁廃立事件、いわゆる『明応の政変』の首謀者。

この政変により、政元は幕府の実権を握り『半将軍』のあだ名された。

また近年は、明応の政変が戦国時代の始まりとする説が有力。

空を飛ぼうとしたり、天狗の術を会得しようとした奇人としても知られている。

生涯妻帯せず子が無かったため、養子たち『澄元』『澄之』の間で後継者争いが勃発。

政元が澄元を支持したため、澄之派の家臣たちに暗殺された。

88.細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)

天文3年(1534年)~慶長15年(1610年)

第13代将軍『足利義輝』に仕えていた幕臣。

義輝が『松永久秀』らによる凶刃に倒れた後は、『足利義昭』の将軍擁立に尽力し協力者を求めて諸国を流浪。

その最中で『明智光秀』と出会い盟友となる。

しかし、本能寺の変後は時世を読み、光秀に味方することはなかった。

和歌の秘伝を極めた人物としても知られており、多くの文化・教養・グルメに精通した戦国随一のインテリ武将としても有名。

関ヶ原の戦いで居城が包囲され絶体絶命の危機に瀕した際、幽斎を失うことで文化継承が断絶することを惜しんだ朝廷によって停戦命令が発布されたほどの文化人だった。

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89.本多忠勝(ほんだ ただかつ)

天文17年(1548年)~慶長15年(1610年)

徳川家康の家臣で、徳川四天王の一人。

家康にはもったいないほどの名将だったという意味を込めて、『家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭に 本多平八』と謳われたほどの人物。

忠勝が愛用した槍は有名で、刃先にとまったトンボが真っ二つになってしまったことから『蜻蛉切(とんぼぎり)』と呼ばれていまする。

名槍 蜻蛉切を振り回し、多くの合戦を戦い家康を助けた。

特に、家康の伊賀越えの際の活躍は有名。

忠勝の娘『小松姫』は、真田幸村の兄『信之』の正室として有名。

父 忠勝と同様に、小松姫もたいへん勇敢な女性だったと伝わっている。

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90.本多正信(ほんだ まさのぶ)

天文7年(1538年)~元和2年(1616年)

内政面で徳川家を支えた家康の側近。

秀吉政権で例えるなら、石田三成のようなポジションの人。

『本多』という名字ですが、四天王の本多忠勝との血縁はない。

三河で一揆が発生した時は一揆勢に味方していましたが、後に許されて復帰している。

家康が天下統一した後に、武断派と内政派で対立が起こり、本多忠勝や榊原康政らと険悪になるも、家康からの信頼は厚く、むしろ武断派が遠ざけられていった。

これは、泰平の世では、武勇は必要なくなったからと言われている。

家康の知恵袋的な存在でありつつも、なんとなく悪知恵の働く曲者のイメージの武将である。

91.前田利家(まえだ としいえ)

天文6年(1537年)~慶長4年(1599年)

奥さんの『まつ』とともに、大河ドラマの主人公にもなった有名な人物。

血気盛んな若かりし頃、同朋を殺めて2年間の謹慎を食らっている猛者。

槍の扱いにも優れ『槍の又左(やりのまたざ)』の異名でも知られている。

信長存命中は、主に柴田勝家に従い、北陸方面の攻略で活躍。

佐々成政、不破光治とともに、柴田勝家の元で活躍した府中三人衆の一人。

この関係も有り、本能寺の変後も勝家に味方していましたが、わりと早くに降伏し、以後は秀吉に重用された。

秀吉政権下では『五大老』に列せられ、徳川家康に唯一対抗できる人物と目されていたが、関ヶ原の戦いの前年に死去。

利家が生きていれば、関ヶ原の戦いは別の結果になっていたかもしれないと言う人もいる。

加賀百万石の礎を築いた、ある意味、戦国時代を代表する人物。

92.松永久秀(まつなが ひさひで)

永正5年(1508年)~天正5年(1577年)

三好長慶(みよし ながよし)の家臣で、織田信長は『常人では絶対に出来ない悪事を3つも実行した人物』と言わしめた人物。

3つの悪事とは、三好家の乗っ取り、将軍暗殺、東大寺大仏殿の焼き討ち。

また、斎藤道三、宇喜多直家と並び『戦国三大梟雄』の一人にも数えられている。

織田信長の台頭後は、織田家に臣従したり裏切ったりを繰り返していたが、それでも生き残っているので、信長から非常に気に入られていたのではないかとも言われている。

しかし、再度信長に背いた為、久秀の居城『信貴山城』を包囲。

信貴山城に立てこもっていた久秀の傍らには、『平蜘蛛(ひらぐも)』と呼ばれた茶釜があった。

平蜘蛛は、当代きっての名器とされ、茶器愛好家でもあった信長は、平蜘蛛を城外へ出し、自信の手渡すよう命じるも、久秀は応じなかった。

そして自身の頭にお灸をすえ、平蜘蛛に大量の火薬を詰めこんだ久秀は天守に火を放ちます。

もはや爆薬と化した平蜘蛛は大爆発し、久秀は名器 平蜘蛛とともに、信貴山城の天守閣もろとも吹っ飛ぶという壮絶な最期だった。

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93.三好長慶(みよし ながよし)

大永2年(1522年)~永禄7年(1564年)

三好氏はもともと、管領を務めていた細川家の家臣。

その三好氏を、畿内制覇を成し遂げるほどの戦国大名に押し上げたのが三好長慶。

また、当時の『天下』とは、京都周辺(畿内)を意味する言葉。

そういった意味で言えば、将軍を京都から追放し、当時の畿内を制圧、さたに幕府を前提としない政治を行った三好長慶は、戦国時代で初めて天下統一をした人物と言える。

織田信長が足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させたとされる10年以上前の出来事である。

しかし、長慶晩年の三好家は、弟たちや嫡男を失うなど多くの不幸に見舞われた。

一説には『松永久秀』の陰謀なのではないかと言われている。

麒麟がくるに『三好長慶』登場!天下を取った隠れた名将
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 2019年の年末も差し迫ったこのタイミングで、熱い情報が飛び込んできました。...

94.村上武吉(むらかみ たけよし)

天文2年(1533年)?~慶長9年(1604年)

瀬戸内海の能島(のしま)を拠点としたことから『能島武吉』とも呼ばれている。

一般的に戦国期の村上水軍の頭領と言えば、この人の印象が強い。

宣教師ルイス・フロイスは武吉を『日本最大の海賊』と評している。

厳島の戦いでは元就陣営として参戦し大活躍。

一時は毛利氏から離反し争うも、後に帰参。

織田信長の水軍と激突した『第一次木津川口の海戦』では、織田水軍を木っ端みじんに粉砕。(武吉の参戦を裏付ける史料はありませんが、立場的に参戦していた可能性は大きい)

瀬戸内海の激しい潮流で鍛え上げられた村上水軍の操船技術の前に、織田水軍は手も足も出なかったと言われている。

厳島の戦いに参戦した村上水軍!毛利元就の決意に味方した海の男たち
毛利元就が歴史の表舞台へ躍り出るキッカケとなった重要な合戦『厳島の戦い』。この戦いに元就が勝利した要因のひとつに『水軍』の存在があります。その水軍とは瀬戸内海を牛耳る『村上水軍』。村上水軍は圧倒的不利な毛利軍に何故、味方したのか?軍記物に記された村上水軍の動向に迫ってみましょう。

95.毛利輝元(もうり てるもと)

天文22年(1553年)~寛永2年(1625年)

毛利元就の孫。

父の隆元が急逝したため、11歳で家督を相続。

後見として祖父の元就、さらには叔父にあたる『吉川元春』『小早川隆景』両名の補佐を受けつつ成長していく。

関ヶ原の戦いでは、石田三成の要請に従い西軍の総大将に祀り上げられた

この判断は「天下の争いごとに首を突っ込むな!」という元就の遺言に背くものであった。

しかし、関ヶ原での毛利軍は意思疎通ができておらず、主力軍が家康と内通。

吉川広家は戦場に赴くも全く戦わず、小早川秀秋は家康に寝返り西軍敗北の原因となっている。

輝元本人も大坂城に留まり、戦場に現れることはなかった。

結果、毛利は戦後に大幅減俸をくらってしまった。

96.毛利元就(もうり もとなり)

明応6年(1497年)~元亀2年(1571年)

戦国時代屈指の謀将で、中国地方の覇者。

安芸(あき、現在の広島県)の一部を領有する豪族だった毛利家を、中国地方全域と四国・北九州の一部を支配する大大名に押し上げた。

次男の元春を吉川家に、三男の隆景を小早川家の養子とし、それぞれの家督を相続させ両家を乗っ取り勢力を拡大。

さらに『尼子晴久』の大群に居城 吉田郡山を包囲された際には、これを撃退した(吉田郡山城の戦い)。

55歳と時には厳島の戦いで『陶晴賢』と激突。

兵数的には圧倒的に不利であったが、数々の謀略で晴賢を翻弄、奇襲をかけ3~4倍の敵を蹴散らし勝利した。

この厳島の戦いは、戦国三大奇襲戦に数えられている。

厳島合戦の勝利で全国区となった元就は、山陰の尼子をも倒し中国地方全域を制する巨大勢力となった。

戦国時代に一代で広げた版図の大きさでは、元就がNo.1である。

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97.最上義光(もがみ よしあき)

天文15年(1546年)~慶長19年(1614年)

最上家11代当主。

『出羽の狐』と呼ばれる策略家である一方、高身長でガタイの良い豪傑。

名前の『義光』は『よしみつ』ではなく『よしあき』と読みますむ。

妹の『義姫(よしひめ)』は、伊達政宗の生母として有名。

出羽国(でわのくに、現在の山形県と秋田県南部)の派遣を巡って、大宝寺義氏、小野寺義道らと争い優勢となるが、豊臣秀吉の勢いが関東から東北まで迫ってきたため、秀吉の小田原征攻めに参陣し恭順を示した。

秀吉政権下では、娘の『駒姫』を豊臣秀次の側室に送りましたが、秀次に謀反の疑いがかけられ一族が粛清されている。

この際に、駒姫も処刑されるという悲劇に見舞われた。

関ヶ原の戦いが起こった際には、上杉景勝や直江景勝を相手に奮戦。

長谷堂城を守り抜き、見事勝利した(長谷堂城の戦い)。

鮭が大好物だったと言われ『鮭様』と呼ばれていたらしい。

出羽の狐 最上義光の主要家臣団一覧!鮭様と呼ばれた山形の英雄
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 出羽の狐と呼ばれた戦国大名『最上義光』。 東北地方と言えば、伊達政宗が...

98.山県昌景(やまがた まさかげ)

享禄2年(1529年)~天正3年(1575年)

飯富虎昌の弟。

武田四天王(武田四名臣)の一角にして、武田軍を代表する猛将。

身長は低かったらしい。

山県隊は甲冑を真紅に染めぬいており、その姿は『赤備え』と言われ、近隣諸国にもその強さを恐れられた。

三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を完膚なきまでに叩きのめし、恐怖した家康は糞を漏らしてしまったほどである。

信玄亡き後の長篠の戦いで、赤備えを率いて突撃するも全身に銃弾を浴びて討死。

一説には、両手を撃ち抜かれ手が使えなくなった昌景は、口に采配を加え指揮を執るという壮絶なものだったと言われている。

山県昌景 ~赤備えの騎馬軍団!!武田信玄を支えた男心を刺激する真紅の部隊~
戦場を駆け抜ける真紅の騎馬軍団!もうそれだけでカッコいい!!そんなカッコいい部隊を率いた男『山県昌景』。武田信玄が誇るその屈強な部隊は、真紅の甲冑を身に着け戦国時代を駆け抜けました。男子ならば、このカッコよさが分かるはず!今回は、赤備え 山県昌景のカッコいい武勇伝を見ていくことにしましょう。

99.山中鹿介(やまなか しかのすけ)

天文14年(1545年)?~天正6年(1578年)

山陰の雄 尼子氏の忠臣。

毛利元就に滅ぼされた尼子家の再興に生涯をかけた人物。

鹿介は通称で、実名は『幸盛』。

尼子家の旧臣に呼びかけ尼子家再興をかけ戦うも敗れ、囚われの身となるが脱走。

織田信長に救援を乞い、織田軍の先鋒として毛利と戦う。

鹿介は上月城(こうづきじょう)を守備していたが、毛利の大群に包囲される。

しかし、信長に上月城は見捨てられ落城。

鹿介は捕らえられ、護送中に処刑された。

100.龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)

享禄2年(1529年)~天正12年(1584年)

肥前(ひぜん、現在の長崎県と佐賀県の一部)を中心に、最盛期には筑前国、筑後国、肥後国、豊前国あたりまで勢力を広げた九州を代表する戦国大名の一人。

たいへんな巨漢であったらしく『肥前の熊』という異名で呼ばれている。

大友宗麟が攻めてきた時には、鍋島直茂の進言を受け入れ、500人足らずの奇襲隊を結成し、3000人の大友軍に夜襲を仕掛け大勝利。

討ち取った敵兵の数は2000人にも及んだと言われている。

この戦いは『今山の戦い』と言い、龍造寺隆信躍進のキッカケになった重要な合戦として位置づけられている。

しかし、島津と激突した『沖田畷の戦い』で、隆信は島津軍の作戦に引っ掛かり、大軍が身動きの取れない狭い道に誘導され、強襲を受ける。

大混乱に陥った龍造寺軍は崩壊し、ついに隆信は討ち取られた。

総大将の大名が討ち取られるというケースは、とても珍しいことです。

桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元と並ぶ、不運な戦いでした。

龍造寺隆信の主要家臣団一覧!沖田畷の戦いに散った武将たち
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 島津、大友と並び、九州三国志の一角を演じた龍造寺。 その龍造寺を戦国大...

+α候補にあがった武将たち

以下、候補に挙がったけど、惜しくも漏れてしまった武将たちを列挙しておきます。

  1. 赤井直正(あかい なおまさ)
  2. 明石全登(あかし たけのり)
  3. 明智秀満(あけち ひでみつ)
  4. 浅井亮政(あざい すけまさ)
  5. 朝倉宗滴(あさくら そうてき)
  6. 浅野長政(あさの ながまさ)
  7. 足利義明(あしかが よしあき)
  8. 足利政氏(あしかが まさうじ)
  9. 安宅冬康(あたぎ ふゆやす)
  10. 穴山梅雪(あなやま ばいせつ)
  11. 甘粕景持(あまかす かげもち)
  12. 尼子国久(あまご くにひさ)
  13. 荒木村重(あらき むらしげ)
  14. 安藤守就(あんどう もりなり)
  15. 池田恒興(いけだ つねおき)
  16. 池田輝政(いけだ てるまさ)
  17. 生駒親正(いこま ちかまさ)
  18. 石川数正(いしかわ かずまさ)
  19. 石川高信(いしかわ たかのぶ)
  20. 稲葉一鉄(いなば いってつ)
  21. 今川氏真(いまがわ うじざね)
  22. 岩成友通(いわなり ともみち)
  23. 上杉憲政(うえすぎ のりまさ)
  24. 宇佐美定満(うさみ さだみつ)
  25. 氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)
  26. 大久保忠世(おおくぼ ただよ)
  27. 太田資正(おおた すけまさ)
  28. 大野治長(おおの はるなが)
  29. 織田信忠(おだ のぶただ)
  30. 飯富虎昌(おぶ とらまさ)
  31. 柿崎景家(かきざき かげいえ)
  32. 片桐且元(かたぎり かつもと)
  33. 加藤嘉明(かとう よしあきら)
  34. 可児才蔵(かに さいぞう)
  35. 上泉信綱(かみいずみ のぶつな)
  36. 木沢長政(きざわ ながまさ)
  37. 北畠具教(きたばたけ とものり)
  38. 吉川広家(きっかわ ひろいえ)
  39. 京極高次(きょうごく たかつぐ)
  40. 木村重成(きむら しげなり)
  41. 吉良親貞(きら ちかさだ)
  42. 九鬼嘉隆(くき よしたか)
  43. 黒田長政(くろだ ながまさ)
  44. 後藤又兵衛(ごとう またべえ)
  45. 小西行長(こにし ゆきなが)
  46. 斎藤龍興(さいとうたつおき)
  47. 斎藤朝信(さいとう とものぶ)
  48. 斎藤義龍(さいとう よしたつ)
  49. 酒井忠次(さかい ただつぐ)
  50. 佐久間盛政(さくま もりまさ)
  51. 佐竹義昭(さたけ よしあき)
  52. 佐竹義宣(さたけ よしのぶ)
  53. 佐々成政(さっさ なりまさ)
  54. 真田幸隆(さなだ ゆきたか)
  55. 島津歳久(しまづ としひさ)
  56. 島津豊久(しまづ とよひさ)
  57. 陶興房(すえ おきふさ)
  58. 諏訪頼重(すわ よりしげ)
  59. 仙石秀久(せんごく ひでひさ)
  60. 相馬盛胤(そうま もりたね)
  61. 十河一存(そごう かずまさ)
  62. 高山右近(たかやま うこん)
  63. 滝川一益(たきがわ かずます)
  64. 武田信繁(たけだ のぶしげ)
  65. 武田信虎(たけだ のぶとら)
  66. 武田義信(たけだ よしのぶ)
  67. 伊達稙宗(だて たねむね)
  68. 伊達輝宗(だて てるむね)
  69. 種子島時堯(たねがしま ときたか)
  70. 長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)
  71. 長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)
  72. 筒井順慶(つつい じゅんけい)
  73. 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)
  74. 戸沢盛安(とざわ もりやす)
  75. 豊臣秀長(とよとみ の ひでなが)
  76. 長尾為景(ながお ためかげ)
  77. 長野業正(ながの なりまさ)
  78. 中村一氏(なかむら かずうじ)
  79. 長束正家(なつか まさいえ)
  80. 新納忠元(にいろ ただもと)
  81. 二本松義継(にほんまつ よしつぐ)
  82. 乃美宗勝(のみ むねかつ)
  83. 支倉常長(はせくら つねなが)
  84. 畠山義総(はたけやま よしふさ)
  85. 服部半蔵(はっとり はんぞう)
  86. 蜂須賀小六(はちすか ころく)
  87. 林秀貞(はやし ひでさだ)
  88. 北条氏綱(ほうじょう うじつな)
  89. 北条氏照(ほうじょう うじてる)
  90. 北条綱成(ほうじょう つなしげ)
  91. 細川高国(ほそかわ たかくに)
  92. 細川忠興(ほそかわ ただおき)
  93. 堀尾吉晴(ほりお よしはる)
  94. 本庄繁長(ほんじょう しげなが)
  95. 本多重次(ほんだ しげつぐ)
  96. 前田慶次(まえだ けいじ)
  97. 前田玄以(まえだ げんい)
  98. 正木時茂(まさき ときしげ)
  99. 増田長盛(ました ながもり)
  100. 松平信康(まつだいら のぶやす)
  101. 三好実休(みよし じっきゅう)
  102. 三好長逸(みよし ながやす)
  103. 三好政康(みよし まさやす)
  104. 村上義清(むらかみ よしきよ)
  105. 毛利隆元(もうり たかもと)
  106. 森長可(もり ながよし)
  107. 山内一豊(やまうち かずとよ)
  108. 山本勘助(やまもと かんすけ)
  109. 結城秀康(ゆうき ひでやす)
  110. 六角承禎(ろっかく じょうてい)


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