徳川家康のホトトギスが鳴くまで待った性格について簡単解説

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戦国時代と戦国武将

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

戦国時代を終焉に導き、260年続く天下泰平の世を築き上げた戦国武将。

 

徳川家康

 

『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』に代表される家康の性格。

それは忍耐強く、我慢が出来る性格。

そして、その裏に秘めた腹黒い性格。

 

これが、現在の徳川家康に抱く一般的なイメージなのかなと感じます。

 

織田信長や豊臣秀吉、そして徳川家康。

戦国時代の三英傑の中でも、一番地味で人気の無い徳川家康。

 

しかし、僕は家康にこそ、現代人が指針にすべき、成功へのヒントが隠されていると考えます。

 

今回は徳川家康の性格がもたらした、信長や秀吉には無い、徳川家康の魅力に迫って行きたいと思います。

 

※家康は『竹千代』や『松平元信』と名乗っていた時期がありますが、この記事では煩雑さを避けるため『徳川家康』の名で統一しています。

 

 

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神君!徳川家康

出典:Wikipediaより

我慢の連続

では、まず家康の性格を形作ったであろう出来事を見ていきましょう。

 

家康 6歳でいきなり人質に

家康はわずか6歳で、隣国の巨大勢力『今川家』へ人質に出されます。

桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた今川義元が当主を務める大名家です。

 

しかも、家康は人質となるために今川家へ向かう途中、織田家に誘拐されています。

 

ここで今川義元は信長の腹違いの兄『織田信広』が守る城を攻め落とし、信広をとっ捕まえます。

 

そして、信広を交換条件に家康を引き取りました。

こうして家康は何とか今川家の人質になりました。

 

※家康は人質という立場ですが、今川家からは丁重な扱いを受けていたと言われています。

 

家康 仕方なく妻と息子を討ち取る

桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後、家康は独立し、織田信長と同盟を結びます。

しかし、同盟とは名ばかりで、家康が信長に従属したような形でした。

 

この頃、織田家と武田家が敵対しており、家康の嫡男『信康』と妻『瀬名』が、武田への内通を疑われます。

 

信長は忠義の証として、信長と面会していた家康の重臣『酒井忠次』に信康、瀬名の打倒命じます。

 

苦渋の決断でしたが、信長に逆らってはお家もろとも滅ぼされると判断した家康は、瀬名を討ち取り、信康を幽閉、後に切腹に追い込みました。

 

家康 馬上で糞を漏らす

家康の領地は、戦国時代を代表する強大な大名と隣接していました。

 

『武田信玄』です。

 

そんな信玄が京に向かって進軍を開始。(諸説あり)

 

当然、家康の領地を通過していくことになります。

信玄を黙って通過させては武士の恥、しかも家康の領地の先に待ち構えるのは信長の領地。

 

何もしないで信玄を通過させたとあっては、後で信長に何をされるか分かったもんじゃない・・・

家康は武田軍と一戦交える為、軍を率いて城を出ます。

 

1573年 三方ヶ原の戦いです。

 

が・・・・

 

百戦錬磨の武田軍により、完膚なきまでに叩きのめされます。

武田の猛将『赤備え』で名を轟かせた『山県昌景』率いる真紅の部隊の猛攻にもあい、命からがら逃げだします。

山県昌景 ~赤備えの騎馬軍団!!武田信玄を支えた男心を刺激する真紅の部隊~
...

 

なんとか危機を脱した家康。

しかし、周囲には異臭が・・・。

 

凄まじい武田の猛攻に恐れを成した家康は、馬上で糞を漏らしてしまいました。

 

なお、後の戒めとする為、その時の姿を描かせた有名な肖像画がコレです。

出典:Wikipediaより

 

家康 本能寺の変で大ピンチ

1582年 本能寺の変。

明智光秀の謀反により、信長が倒れます。

明智光秀が本能寺の変を決断した理由と真実!織田信長の四国攻めに見る悲しき想い
...

 

この時、家康は信長の接待を受けるため、京都に来ていました。

しかし、本能寺の変が起こったことで、京都は明智軍に取り囲まれています。

家康は戦に来ていた訳ではないので、軍備もままなりません。

 

このままでは、家康も明智軍の餌食になるかもしれない・・。

家康は一時、切腹を覚悟しましたが、本多忠勝ら家臣に諫められ踏みとどまります。

 

家康は京都から脱出するため、落ち武者狩りに襲われながらも、険しい伊賀の山を越え領国へ逃げ延びました。

 

なお、これが有名な『伊賀越え』です。

 

家康 江戸へ飛ばされる

1590年。

豊臣秀吉は関東の北条氏を破り、さらに東北での反乱も鎮圧。

名実ともに天下人となります。

 

この時、家康は生まれ育った三河の地を離れることになります。

 

領地替え(転封)です。

 

家康の新たな赴任先は関東。

江戸です。

関東は、今でこそ日本の中心地ですが、当時は京都周辺が都であり、関東はド田舎の僻地です。

 

慣れ親しんだ三河を離れ、僻地の関東で一からやり直すことになった家康なのでした。

 

家康 真田幸村に討ち取られそうになる

関ヶ原の戦いに勝利し、実質的な天下人となった家康。

しかし、豊臣家は存続しており、まだまだ油断は出来ません。

 

1615年 大阪夏の陣。

 

大阪城の堀を埋めたりして、家康の勝利は間違いなしと思っていたら・・・

 

六文銭の旗印を翻し、家康の本陣に突っ込んできた部隊がありました。

 

『日本一の兵』真田幸村です。

真田幸村とは何をしたのか?現代に与える大坂の陣以上の活躍
...

 

真田隊の急襲で大混乱に陥る家康本陣。

 

家康自身が危うく討ち取られるところでしたが、数に物を言わせ、何とか危機を脱し、幸村を討ち取ります。

 

この戦いにより豊臣家は滅亡、完全なる徳川の世が成立しました。

 

しかしながら、最後の最後まで苦難続きな家康なのでした。

 

 

鳴くまで待とうホトトギス

『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』

家康の性格を表現した有名な一句です。

 

家康の人生はまさに苦難の連続。

 

信長の言いなりにならざるを得ず、秀吉にも屈服せざるを得なかった家康の人生。

 

しかし、我慢に我慢を重ねた家康こそが、戦国時代を終わらせ最後に笑うことが出来ました。

 

そんな戦国時代を表現する面白い句が残っています。

 

織田がつき 羽柴がこねし 天下餅

座りしままで 食うが徳川

 

応仁の乱に始まり、全国各地に群雄が割拠し、信長が登場し、一時は秀吉が天下を統一したものの、最後は座って我慢し続けた家康の勝利に終わりました。

 

大阪夏の陣から約1年後。

家康はこの世を去りました。

 

享年75

 

6歳で人質になり、大阪夏の陣でも危うく討ち取られそうになった家康の人生。

最初からずっと我慢し続け、最後の最後にやっと笑うことができた人生でした。

 

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家康から学ぶこと

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。

 

この三人で最も人気が無いのは、おそらく家康でしょう。

 

なんか腹黒いイメージがあるし、なにより派手さが無い・・。

ここまで見てきたように、ずっと我慢に我慢を重ねてきた人生です。

 

ですが、信長、秀吉、家康が残した結果を見てみてください。

 

信長が志半ばで倒れ、秀吉の天下はわずか10年ほど。

一方、家康の江戸幕府は260年続いています。

 

長期的な視点で見た場合、信長と秀吉は完全な一発屋です。

 

ところが家康は260年もの長きに渡る江戸時代を築き上げました。

 

人は、どうしても革新的であったり斬新なことをした人物に目が行きがちです。

 

もっと歴史を遡れば、平清盛や源頼朝、後醍醐天皇・・・

みんな、斬新なことをやった人物です。

ですが彼らの政権は30年と続いていません。

 

平氏は武士の世を切り開くも、あっという間に源氏に滅ぼされました。

源氏だって武家政権を成立させたけど、3代で終わってしまい、以降の鎌倉幕府は執権北条氏が支えていきました。

後醍醐天皇の建武の新政なんて3年で終わりを迎えています。

 

ですが、藤原道長、北条時政、足利尊氏、そして徳川家康。

彼らは平氏や源氏、信長や秀吉に比べ人気も無い人物です。

 

ですが、藤原氏は、朝廷内のNo2であり続け千年以上の活躍をしています。

執権北条氏は、朝廷から将軍を迎え鎌倉幕府を存続させています。

足利氏は、守護大名との合議制を敷き室町幕府を100年以上存続させています。

そして、徳川氏も家康も地味に耐え続けた結果、江戸幕府は260年続く泰平の世を築きました。

 

派手で革新的なことをやった人物は確かに魅力的です。

ですが、長期的に見た場合、人生の参考にすべきは家康のような地味な人物です。

 

一発屋で終わった革新的な人物ではなく、長く政権を保てた人物から学べることは何なのか?

 

僕は、そちらに目を向ける方が、よっぽど人生の糧になり、学ぶことが多いのではないかと考えています。

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。