荒木村重が謀反を起こした衝撃の理由とは?最期はどうなった?

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戦国時代と戦国武将

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

戦国時代に織田信長を裏切った武将として、真っ先に名前は挙がる人物と言えば、やはり明智光秀でしょう。

しかし、信長に謀反を起こしたのは、必ずしも光秀の専売特許ではありません。

 

信長を裏切った人物として名高い、もう一人の人物『荒木村重』

 

光秀に先立つこと約4年前に謀反を起こした村重。

その動機とは、いったい何だったのでしょうか?

また、謀反の後の村重は、どのような人生を送り、最期はどうなったのでしょうか?

 

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有岡城主『荒木村重』

謀反の原因

村重の謀反の理由は、諸説あります。

 

天正6年(1578年)荒木村重は、織田信長を裏切りました。

村重44歳の時です。

 

ただ、村重の謀反は事前に察知されていた節があります。

『村重に謀反の疑いあり』という情報を掴んだ信長は、村重の居城 有岡城に使者を派遣し、真意を問いただています。

 

この時の村重は、事実無根を主張しました。

そして、弁明のために信長の居城 安土城へ赴こうとしていました。

 

しかし、配下の武将から「信長に一度疑われたら絶対に許されない、行くべきではない!」といった反対があり、信長を裏切る決意をしたとも言われています。

また、村重と親戚関係となっていた明智光秀(村重の息子『村安』と、光秀の娘が夫婦)からも牽制され、弁明を諦めたと言う説もあります。

 

これらの説の裏側には・・・

  • 村重の家臣が信長の戦に駆り出されるのを嫌がって、反逆するよう仕向けた
  • 村重を失脚させるために、明智光秀に謀られた

という理由があったとされています。

 

これらの説を採用するならば、村重自身に謀反の意図があったというよりは、周囲にハメられた、といった側面が強くなります。

 

一方で、独裁的な信長に対し、村重が疑心暗鬼になったため謀反に及んだと言う説もあります。

 

このように、村重の裏切りの理由については、諸説が入り乱れている状況です。

本能寺の変もそうですが、明智光秀が謀反におよんだ動機も、今なお定説がありません。

こういった部分は、人間の心に関わることで、明確な形があるものではないので、なかなか正解が分からないものですね。

 

村重は本当に妻子を見捨てたのか?

信長を裏切った人物と言えば、明智光秀が真っ先に思い浮かびますが、謀反という意味では村重も同じです。

 

結果的に、光秀は本能寺で信長を討ちますが、村重は1年近くの籠城の末、反乱を鎮圧され逃亡しています。

この時の村重は、妻子を見捨て一人で逃亡し、残された妻や子など荒木家の一族は捕縛され、全員処刑されたと一般的には言われています。

 

これは事実ならば、家族を見捨てて逃げ出した村重の行為は、外道の極みと言えるでしょう。

ただし、これには異説も存在します。

 

村重は家族を見捨てたわけではなく、同盟していた毛利家に救援を乞うために城を抜け出しいた、という説も存在するのです。

しかも、この時は城を織田軍に囲まれていて、もし敵に見つかれば一巻の終わりという状況。

それでも、わずかな可能性に望みをかけ、村重はこのような言葉を残しています。

敵に見つかったら最後まで戦い、一人でも多く討ち取って自刃する

 

この説が正しいとするならば、村重は家族を見捨てるどころか、守るために城を抜け出しているのです。

 

しかし、村重が城を出た後に、城内で家臣の裏切りが発生し落城。

村重の妻子は捕縛され、処刑されてしまったといいます。

 

村重の晩年と最期

ともかくも、結果的には謀反は失敗に終わりました。

その後しばらくは、毛利家に身を寄せていたようです。

 

そして、天正10年(1582年)に本能寺の変が発生。

織田信長が亡くなり、変の首謀者である明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北。

ほどなくして光秀も亡くなります。

 

村重は本能寺の変の後、光秀を倒した秀吉に茶人として仕えました。

ちなみに、毛利家に庇護されていた辺りから自虐の意味を込めて『道糞(どうふん)』と名乗っていたようですが、秀吉に近侍する際に『道薫(どうくん)』と名乗りを変えています。

 

この事実を考えると、村重は妻子を見捨てたわけではなかったのかなと思います。

というか、そう思いたいです。

 

かつての主君である信長を裏切り、しまいには家族を見捨てて逃亡したとなれば、はたして秀吉に近侍することが出来たでしょうか?

なにより、妻子が処刑された後も、村重は抵抗を続けています。

本当に逃げ出したのは、妻子が処刑された後なのです。

 

現在の村重は、謀反を起こした挙句、妻子を見捨てて逃げ出した卑怯者のように思われていますが、実際は違った可能性もあるのです。

 

どちらが正しいかは、今となっては確認する術もありません。

しかしながら『本能寺の変後に秀吉に仕えていること』『妻子が処刑された後も信長に抵抗していること』などから察するに、決して一人で逃げ出したわけではないと考えています。

 

そして、本能寺の変から約4年後の天正14年(1586年)、村重は52歳でこの世を去りました。

 

まとめ

以上、荒木村重の謀反の理由と、その後の村重でした。

 

謀反の理由は、諸説あり、

  • 信長に疑われたので、対決せざるをえなくなった
  • 独裁気質の信長に対し、疑心暗鬼になった

 

そして、妻子を見捨てて逃亡したわけではなく、あくまで毛利家に救援を乞うために城を脱出した。

そして、本能寺の変後は、秀吉に茶人として仕え、それから約4年後に52歳で亡くなったのでした。

 

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。