龍造寺隆信の主要家臣団一覧!沖田畷の戦いに散った武将たち

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戦国大名の家臣団

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

島津、大友と並び、九州三国志の一角を演じた龍造寺。

その龍造寺を戦国大名化させた名将が『龍造寺隆信』です。

 

龍造寺家を九州の大大名に押し上げた隆信の家臣団の一覧です。

 

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肥前の熊と家臣たち

龍造寺隆信の一門衆

龍造寺隆信 りゅうぞうじ たかのぶ(1529~1584)

肥前国(現在の長崎県と佐賀県の一部)を中心に、最盛期には筑前国、筑後国、肥後国、豊前国あたりまで勢力を広げた九州を代表する戦国大名の一人。

少弐冬尚(しょうに ふゆひさ)、千葉胤頼(ちば たねより)、神代勝利(くましろ かつとし)ら、肥前の有力な勢力を次々と撃破し、龍造寺氏を戦国大名に押し上げた名将です。

 

たいへんな巨漢であったらしく『肥前の熊』という異名で呼ばれています。

 

島津義久、大友宗麟ら強豪と凌ぎを削り、龍造寺、島津、大友の三氏による攻防は『九州三国志』と称されることもあります。

 

大友宗麟が攻めてきた時には、鍋島直茂の進言を受け入れ、500人足らずの奇襲隊を結成し、3000人の大友軍に夜襲を仕掛け大勝利しました。

討ち取った敵兵の数は2000人にも及んだと言われています。

この戦いは『今山の戦い』と言い、龍造寺隆信躍進のキッカケになった重要な合戦として位置づけられています。

 

その後、耳川の戦いで大友宗麟が島津義久に大敗。

隆信はこの機に乗じて、大友領に侵攻し勢力を広げて行きました。

 

そして・・・

九州の勢力争いの趨勢を決定付ける出来事がやってきます。

 

龍造寺氏の領内に島津氏(島津家久の軍勢)約1万の部隊が侵攻。

これを撃退するため出陣した隆信の軍勢約2万5千。

龍造寺軍が圧倒的に有利でした。

 

しかし、隆信は島津軍の作戦に引っ掛かり、大軍が身動きの取れない狭い道に誘導されてしまいます。

これにより、有利だったはずの大軍が足枷となります。

身動きの取れない龍造寺軍を島津軍が強襲。

 

大混乱に陥った龍造寺軍は崩壊し、ついに隆信は討ち取られてしまいました。

その後も、有力な家臣たちが次々を討死していき、龍造寺軍は壊滅。

この戦いを『沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)』と呼びます。

 

総大将の大名が討ち取られるというケースは、とても珍しいことです。

桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元と並ぶ、不運な戦いでした。

 

この後、家臣であった鍋島直茂の台頭が顕著になり、幕末に活躍する佐賀藩の『鍋島閑叟(なべしま かんそう)』へと繋がっていくのです。

 

龍造寺信周 りゅうぞうじ のぶちか(1535?~??)

隆信の弟。

隆信に従い各地を転戦し、龍造寺家の隆盛に大きく貢献しました。

 

沖田畷の戦いで隆信が討死した後は、鍋島直茂と連携し龍造寺家を維持。

豊臣秀吉の政権下でも、各地を転戦。

 

権力が鍋島氏に移行した後も仕え続け、龍造寺の血筋を幕末まで残しました。

 

龍造寺長信 りゅうぞうじ ながのぶ(1539?~1613)

隆信と信周の弟。

信周同様、隆信に従い各地を転戦し、龍造寺家の隆盛に大きく貢献しました。

神社の再建や寺の建立などを行い、宗教勢力との関係を良好に保つなど、内政面でも活躍した武将。

 

沖田畷の戦いで隆信が討死した後は、鍋島直茂と連携し龍造寺家を維持。

信周同様、権力が鍋島氏に移行した後も仕え続け、龍造寺の血筋を幕末まで残しました。

 

龍造寺政家 りゅうぞうじ まさいえ(1564~1607)

隆信の嫡男。

沖田畷の戦いで隆信が討死した後は、鍋島直茂と協力し敵軍を食い止めました。

 

秀吉政権下では肥前東部を領地として与えられましたが、病により政務が行えず鍋島直茂が代行していました。

これが、鍋島家の台頭に繋がり、いつのまにか主従関係が逆転。

龍造寺氏は鍋島家に仕えることになりました。

 

龍造寺隆信の家臣団

鍋島清房 なべしま きよふさ(??~??)

鍋島直茂の父親。

龍造寺隆信の曾祖父にあたる『龍造寺家兼』の孫を妻に迎えています。

(龍造寺家兼は没落していた龍造寺を再興した人物)

この家兼の孫娘の未亡人で、もともとは龍造寺周家(隆信の父)の妻なので、隆信の生母でもあります。

 

このような親戚関係により、清房は龍造寺家を代表する重臣となり活躍。

後に直茂が龍造寺家の実験を握る下地はここからスタートしています。

 

鍋島直茂 なべしま なおしげ(1538~1618)

鍋島清房の息子。

龍造寺隆信の家臣を代表する人物。

幕末に活躍する佐賀藩の祖。

 

龍造寺氏が戦国大名化する契機となった『今山の戦い』では、夜襲を提案し500の兵で3000を破ると言う大金星を挙げました。

 

沖田畷の戦いで隆信が討死したあとは、隆信の嫡子『政家』を補佐し、龍造寺家存続に尽力。

ところが政家が病気で、まともに政務が行えなかった為、徐々に直茂に権力が集中するようになっていきました。

 

その結果、主従関係が逆転してしまい、龍造寺氏の実権を直茂が引き継ぐような形になりました。

このような事実がある為、直茂は龍造寺健の権力を簒奪した人物と見なされることもあります。

しかしながら、直茂自身は龍造寺旧臣への配慮を優先し、佐賀藩の初代藩主を辞退。

息子の勝茂が初代藩主になっていることなどからも、直茂の実権掌握は、あくまで歴史の流れの中でそうなってしまった感が強いように感じます。

 

ともかくも、この直茂に始まる鍋島家の流れが、幕末に登場する佐賀藩の雄『鍋島閑叟(なべしま かんそう)』へと繋がっていくのです。

信長の野望にも登場する鍋島直茂が説く長所と短所の活かし方
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成松信勝 なりまつ のぶかつ(1540?~1584)【龍造寺四天王】

龍造寺四天王の一人。

 

龍造寺家が飛躍するキッカケとなった『今山の戦い』では、敵将を討ち取る大活躍を見せました。

沖田畷の戦いで隆信が討死した後は、敵の大軍に中に突撃し、隆信の後を追うように討死したと伝わっています。

 

江里口信常 えりぐち のぶつね(1548?~1584)【龍造寺四天王】

龍造寺四天王の一人。

鍋島氏に従っていた武将とされています。

 

沖田畷の戦いでは凄まじい猛攻を見せ、敵将の島津家久に迫るも一歩及ばず討ち取られました。

その凄まじさに家久は感嘆し『信常に子供がいれば養子に迎えたい』と漏らしたと伝わっています。

 

百武賢兼 ひゃくたけ ともかね(1538~1584)【龍造寺四天王】

龍造寺四天王の一人。

 

とても勇敢な武将で武勇が百人力だったことを賞し、隆信が『百武』の名を与えたと言われています。

 

沖田畷の戦いでは、持ち前の勇敢さで奮戦するも、隆信とともに討死しました。

 

円城寺信胤 えんじょうじ のぶたね(??~1584)【龍造寺四天王】

龍造寺四天王の一人とされる人物。

史料によっては、信胤ではなく『木下昌直』を四天王の一人としているものもあります。

 

龍造寺家が飛躍するキッカケとなった『今山の戦い』で、鍋島直茂に従い夜襲を成功させた立役者でもあります。

 

沖田畷の戦いで隆信が大ピンチに陥ると、影武者となり敵中に突撃。

壮絶な討死を遂げました。

 

木下昌直 きのした まさなお(??~1584?)【龍造寺四天王】

龍造寺四天王の一人とされる人物。

史料によっては、信胤ではなく『円城寺信胤』を四天王の一人としているものもあります。

鍋島直茂に従って活躍した武将。

 

沖田畷の戦いでは、直茂の戦場離脱を見届けた後に敵中に突撃し討死したと言われています。

一方で、戦後も生きていたという説もあります。

 

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龍造寺と鍋島

以上、龍造寺隆信の主要家臣団一覧でした。

 

戦国龍造寺氏を見る場合、どうしても鍋島直茂は避けて通れません。

この直茂をどう見るかで、龍造寺のイメージは大きく変わります。

 

隆信は龍造寺を押し上げた名将か、それとも沖田畷で惨敗し鍋島に実権を奪われた暗君か。

 

鍋島直茂を祖とする佐賀藩は、幕末に活躍した4藩の総称『薩長土肥』の『肥』に当たる藩で、藩主は鍋島閑叟。

その結果だけを見れば、龍造寺は敗者になります。

 

ですが、龍造寺家を島津、大友という名門に匹敵する戦国大名に押し上げた隆信の功績があったこらこそ、後の佐賀藩の地盤になったとも言えると思います。

 

そう考えると、龍造寺隆信は各地を席捲した他の戦国大名に匹敵するほどの名将であったのではないかと考えています。

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。