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拓麻呂です。
戦国時代にはたくさんの謀略家が現れましたが、その代表格が『宇喜多直家』です。
梟雄として周囲を戦慄させた直家と、その嫡男 秀家の主要な家臣の一覧です。
梟雄 宇喜多直家と家臣たち
宇喜多直家の一門衆
宇喜多直家 うきた なおいえ(1529~1581)
『備前の梟雄』の異名をとる戦国大名。
とにかく陰謀のイメージの強い人物。
『斎藤道三』『松永久秀』と並ぶ戦国の三大悪人と言われたり、『毛利元就』『尼子経久』そして『宇喜多直家』を総称して『中国地方の三大謀将』と言われる場合もあります。
元々は浦上家に仕えていたのですが、活躍が目覚ましく、主君の浦上宗景に引き立てられ実力を蓄えていきました。
ここから直家のイメージを決定づける様々な陰謀が始まります。
- 祖父の『宇喜多能家(よしいえ)』の仇である『島村盛実』『中山信正』を謀殺。
- 三村家親という武将が攻めてきた時は、狙撃して暗殺。
- 毛利家に内通し、主君 浦上宗景に反旗を翻す。
- 宗景を追い出し、浦上家の領土全域を奪取。
- 毛利氏が織田信長と対立した際は、羽柴秀吉に寝返り。などなど
主だったものを列挙してみました。
これだけ見ると、確かに悪人のように思えるのですが、自身の家臣には優しい側面もあったようです。
実際、家臣を謀殺したことはなく、弟の忠家や三老と呼ばれる重臣たちは、直家の覇業に大貢献し、最後まで宇喜多家を支え続けています。
上記の悪人と呼ばれる原因も、よくよく見れば祖父の仇討ちであったり、宇喜多家を守る為であったりです。
浦上家の乗っ取りも、戦国時代と言う時代背景を考えれば、いわゆる『下剋上』であり、同じようなことをしている武将は他にもたくさんいます。
確かに非情な側面も持ち合わせている武将ですが、逆に見れば戦国時代を生き抜くための強い意志と決断力を持った武将であるようにも思えます。
一般的な印象とは別の側から見ることで、人間の持つ多様な側面を教えてくれる、とても人間臭い武将だったと言えるのではないでしょうか。
宇喜多忠家 うきた ただいえ(1533~1609?)
直家の弟。
直家の最も側近くで覇業を支えた忠臣。
兄に会う時は何をされるか分からないので、必ず鎖帷子を着込んで出仕していたと伝わっています。
これは、直家の恐ろしさを物語るエピソードです。
ちなみに、大坂夏の陣で、豊臣秀頼の正室であった『千姫』を炎上する大坂城から救出した『坂崎直盛』という武将は、忠家の息子です。
(坂崎直盛の元の名は『宇喜多詮家』)
直家没後も忠義は変わらず、跡継ぎの秀家を支え続けました。
豊臣秀吉は、忠家を大変気に入り、秀家も寵愛されていたそうです。
宇喜多秀家 うきた ひでいえ(1572~1655)
直家の嫡男。
直家没後に家督を継ぎました。
秀吉に寵愛され、若くして五大老に列せらたことでも有名です。
関ヶ原の戦いでは西軍に組し福島正則隊と激突。
戦況は優勢でしたが、小早川秀秋の裏切りにより大谷吉継隊が壊滅。
一気に東軍有利となり、秀家も抗しきれなくなって敗走しました。
戦後は、領地を没収され八丈島へ島流しにされます。
その後もずっと八丈島で暮らしました。
享年84
世俗から隔絶された八丈島で、静かに大往生をとげました
宇喜多直家の家臣団
岡利勝 おか としかつ(??~1592)【宇喜多三老】
直家を支えた『宇喜多三老』の一人。
『岡家利』という名で呼ばれることもあります。
宇喜多家の本拠となる岡山城の改築や城下町の整備、『宇喜多開墾』と呼ばれる干拓事業など、主に内政に手腕を発揮しました。
明出兵(朝鮮出兵)にも従軍しましたが、病のによい陣中で亡くなりました。
戸川秀安 とがわ ひでやす(1533~1592)【宇喜多三老】
直家を支えた『宇喜多三老』の一人。
直家が浦上家に仕え始めた頃からの家臣。
ちまみに、秀安の頃は『富川』と名乗っており、息子の達安の代から『戸川』に改められたそうです。
内政でも軍事でも活躍し、直家の覇業に大きく貢献しました。
晩年は出家し『友林』と号しました。
長船貞親 おさふね さだちか(??~1591)【宇喜多三老】
直家を支えた『宇喜多三老』の一人。
直家が備中の三村元親と激突した『明善寺の戦い』では凄まじい活躍を見せ、三村氏は惨敗したと伝わっています。
三村氏が総崩れになったため、この合戦を『明善寺崩れ』と言う時もあります。
直家没後も秀家を支えていましたが、貞親の政治に不満を持った『石原新太郎』という武将に暗殺されてしまいました
花房職之 はなぶさ もとゆき(1549~1616)
宇喜多家の猛将。
直家の美作(みまさか、岡山県の北東部)攻略で活躍した中心的人物で、宇喜多家を武勇の面で支えた武将です。
秀吉政権下では、小田原攻めにも加わっており、戦陣にも関わらず花見にうつつを抜かす秀吉に苦言を呈し、称賛されたという逸話を残しています。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦い、大坂の陣にも老齢でありながら参戦するなど、最後まで戦場で活躍した武将でした。
宇喜多秀家の主要家臣団
以下は、主に秀家の時代に活躍した武将です。
明石全登 あかし たけのり(1566~1618)
名前の読み方が『てるずみ』だったり、『たけのり』だったり、『ぜんとう』だったりで正しくはよく分かりません・・。
また『明石景盛』や『明石守重』という名も残っていますが、一般的には『明石全登』とされています。
キリシタン大名でもありました。
関ヶ原の戦いでは秀家軍の先鋒として西軍に味方。
福島正則を相手に一歩も引かぬ活躍を見せましたが、小早川秀秋の寝返りで西軍は崩壊。
その後、秀家を戦場から逃がすための殿軍(しんがり)も務めました。
大阪夏の陣には豊臣方として参戦し、伊達政宗の部隊と激突しています。
その後の消息は不明です。
戸川達安 とがわ みちやす(1567~1627)
宇喜多三老の一人『戸川秀安』の嫡男。
数々の合戦で武功を挙げた猛将であるとともに、いわゆる『宇喜多騒動』と呼ばれる内紛の中心人物。
宇喜多騒動は、岡山城改修の方向性を巡って、改修に功績のあった長船綱直を中心とする
派閥と、反発する達安を中心とした派閥が揉めた出来事です。
長船綱直が没した後に国政を担った中村次郎兵衛に達安らが反発。
達安は、中村次郎兵衛が厚遇されることに納得いかず、秀家に苦情を言うも受け入れられず、宇喜多家から徐々に離れていきました。
結果、関ヶ原の戦いでは秀家と敵対し、東軍に与しました。
一説には、石田三成の家臣で猛将として知られる『島左近』を討ち取ったのは、この達安だったと言われています。
長船綱直 おさふね つななお(??~1598)
宇喜多三老の一人『長船貞親』の嫡男。
岡山城の改修などで手腕を発揮した内政型の武将。
しかしながら、岡山城改修の方向性を巡って合格である戸川達安らと対立。
岡山城改修に貢献した中村次郎兵衛という人物の処遇を巡って『宇喜多騒動』と呼ばれる問題が発生。
また、綱直がキリシタンであったことも反発を招き、宇喜多家は二分されました。
後に達安とは和解したとされていますが、一説には毒殺されたとも言われています。
THE戦国武将!宇喜多直家
以上、宇喜多直家、秀家親子の主要家臣団一覧でした。
直家の概要でも触れましたが、直家は冷酷な一面がある一方で、家臣とは結束の固い武将でもありました。
秀家の代になって『宇喜多騒動』と呼ばれる内紛が起こりますが、直家の治世下ではそういった内紛は発生していません。
味方にすれば頼もしく、敵に回れば恐ろしい武将『宇喜多直家』。
まさに戦国武将の典型のような人物であったと思います。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。