豊臣秀吉の主要家臣一覧!天下統一を成し遂げた武将たち

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

戦国一の出世頭『豊臣秀吉』(羽柴秀吉)

天下統一を成し遂げた秀吉の支えた主要な武将たちの一覧です。

こうやって並べて見ると、そうそうたるメンバーが揃っていることに気づかされます。

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目次

天下統一!豊臣秀吉の家臣団

豊臣秀吉の一門衆

豊臣秀吉 とよとみのひでよし(1537~1598)

天下統一を成し遂げ、戦国時代を終わらせた有名な人物。

貧しい身分から出発し、天下人まで上り詰めた戦国時代一の出世頭としても知られています。

本能寺の変で織田信長が討た際にも、弔い合戦(山崎の戦い)で明智光秀を撃破。

続いて、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を撃破。

小牧・長久手の戦いでは徳川家康に苦戦するも、最終的な政治工作で勝利。

四国の長宗我部元親を蹴散らした後、自身が定めた法令『惣無事令』(大名間の私戦停止令)に違反したとして、九州の島津義久を撃破。

そして、同じく惣無事令違反の罪で、関東の北条を撃破。

この後、東北地方をイザコザを解決し、戦国の世は終焉しました。

このような中で、天皇から『豊臣』の姓を賜って『豊臣秀吉』と名乗っています。

一般的には『とよとみ ひでよし』と呼ばれていますが、天皇から姓を賜った場合は『の』を入れるのが正しい呼び方です。

『たいらきよもり』、『みなもとよしつね』などと同じです。

なので、厳密には『とよとみひでよし』とするのが正解です。

晩年は、嫡子の秀頼や側室の淀を愛しすぎ、ちょっとおかしくなって、千利休を切腹させたり、甥の秀次一家を滅ぼしたりしています。

そして、明(みん、現在の中国)を目指して兵を進め、明の征服を目論みますが、その最中に世を去りました。

享年63

辞世の句は『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢』

まさに、日本史上で最も出世した人物らしい、最後の言葉でした。

豊臣秀長 とよとみのひでなが(1540~1591)

秀吉の弟。

秀吉の右腕的存在で、天下統一の覇業に大きく貢献しました。

長宗我部元親を攻めた四国征伐では総大将を務め、見事に任務を完遂しています。

また、島津義久と戦った九州征伐でも戦功がありました。

そんな秀長でしたが、秀吉に先立ち亡くなってしまいます。

秀長がいなくなったことで、秀吉の暴走を止めることができなくなったという見方もあります。

秀吉に対して兄弟として接するのではなく、あくまで主従の立場を崩さなかったと伝わっています。

豊臣秀次 とよとみのひでつぐ(1568~1595)

秀吉のお姉さんの子で、秀吉の甥っ子。

秀吉の実子『鶴松』が早世したため、秀吉の養子になり、豊臣家の跡取りとなりました。

秀吉から関白の地位も譲られ、名実ともに秀吉の跡取りとなりましたが、そのままスムーズには行きませんでした。

その後、秀吉と淀の間に秀頼が生まれます。

秀吉としては、実子の秀頼に後を継がせたいと考えでおり、秀次の存在が邪魔になりました。

秀吉は、秀次の行動に問題ありと難癖をつけ、高野山に追放。

地位も名誉もはく奪されたあげく、切腹を命じられ自害しました。

しかも、秀次の一族も全て処刑されるという凄惨なものでした。

秀次の行いに本当に問題があったかは意見が分かれています。

乱行が目立ち『殺生関白』などと揶揄されることもありますが、実子かわいさに目がくらんだ秀吉が、無理やりでっち上げただけとも思えてなりません。

いろんな記録が残ってたりしますが、記録にはない人間の感情とか欲望が歴史を動かすことは大いにあり得ると思います。

小早川秀秋 こばやかわ ひであき(1582~1602)

秀吉の正室『ねね』のお兄さんの子供。

3歳で秀吉の養子になりました。

そして13歳で、小早川隆景の養子になりました。

関ヶ原の戦いで西軍を裏切って勝敗を決定づけた、悪い意味でとても有名な人物。

個人的には、秀秋の裏切りや、関ヶ原での毛利家の行動を思うと、いつも小早川隆景が生きていたらどうなっていただろう?と考えてしまいます。

結果的に東軍勝利に貢献した秀秋でしたが、関ヶ原の戦いから2年後に21歳の若さで亡くなりました。

アルコール依存症だっという説もあります。

豊臣秀頼 とよとみのひでより(1593~1615)

秀吉と淀の愛息子で、豊臣家の跡取り。

一説には秀吉の実子ではないとも言われています。

秀吉の寵愛を一身に受けて育ちました。

しかしながら、いかんせん秀吉が高齢になってからの子供なので、秀吉は秀頼の行く末を案じながら亡くなりました。

秀吉の不安は的中し、関ヶ原の戦いを経て、天下は徳川家康のものとなります。

豊臣家は領地を削られ一大名家と同程度の石高となってしまいました。

しかし、加藤清正をはじめ、秀吉に恩義のある武将たちは秀頼に忠誠を誓っていました。

そして、秀頼が生きている以上、完全な徳川の世にはならないと判断した家康は、難癖をつけ(方広寺鐘銘事件)秀頼を攻める大義名分を無理やり獲得。

大阪冬の陣は、真田幸村らの活躍で何とか切り抜けるも、夏の陣で大坂城は炎上。

燃え盛る炎の中で、母親である淀殿とともに自害しました。

豊臣五大老

五大老とは、豊臣政権における政務の中枢を担った5名の大名の総称です。

小早川隆景の逝去により五大老と呼ばれますが、元々は6名でした。

徳川家康 とくがわ いえやす(1542~1616)

江戸時代の初代将軍。

信長、秀吉と並ぶ戦国の三英傑。

戦国時代の最終勝利者。

かなりの苦労人で、信長や秀吉の下に甘んじていましたが、両者が亡くなった後は、一気に天下への道を歩み始めます。

豊臣政権下では五大老の筆頭格で、秀吉亡き後も発言力を持っていました。

関ヶ原の戦いで石田三成を撃破。

見事勝利し、江戸幕府を開きます。

その後、大坂夏の陣で豊臣を滅ぼし、名実ともに天下を手中にしました。

ここに、260年続く江戸時代の地盤が完成しました。

『織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うが徳川』

信長から家康に至る権力の流れを、とても的確に表現した詩です。

最後は大好物だった天ぷらを食って、腹を壊し亡くなったとも言われています。

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前田利家 まえだ としいえ(1539~1599)

大河ドラマの主人公にもなった有名な武将。

正室の『まつ』も有名。

槍の扱いにも優れ『槍の又左(やりのまたざ)』の異名でも知られています。

信長存命中は、主に柴田勝家に従い、北陸方面の攻略で活躍。

この関係も有り、本能寺の変後も勝家に味方していましたが、わりと早くに降伏し、以後は秀吉に重用されています。

秀吉政権下では『五大老』に列せられ、徳川家康に唯一対抗できる人物と目されていましたが、関ヶ原の戦いの前年に死去。

利家が生きていれば、関ヶ原の戦いは別の結果になっていたかもしれないと言う人もいます。

加賀百万石の礎を築いた、ある意味、戦国時代を代表する人物です。

毛利輝元 もうり てるもと(1553~1625)

中国地方の覇者 毛利元就の孫で、毛利家の当主。

秀吉政権下では、この輝元と小早川隆景が西国の重鎮。

若かりし頃は、叔父の小早川隆景と吉川元春に厳しく教育されていたようです。

関ヶ原の戦いでは、石田三成らの要請で西軍の総大将になりましたが、豊臣秀頼と一緒に大坂城に居て戦場には出てきませんでした。

もしこの時、輝元が秀頼を伴い参戦していたら、一門衆の小早川秀秋は裏切り行為に及ぶことが出来たのか?あるいは、戦場で日和見を決め込んでいた毛利軍は戦わざるを得なかったのではないか?

そう考えると、関ヶ原での毛利の存在はとても大きいものだったと思いますし、輝元が動けば結果も変わっていたかもしれません。

関ヶ原の後は、大幅に領地を削られましたが、毛利は幕末まで残りました。

この毛利氏が統治していたのが長州藩で、多くの幕末志士を生み出し明治維新を成し遂げることになるのです。

宇喜多秀家 うきた ひでいえ(1572~1655)

中国地方の梟雄『宇喜多直家』の息子。

秀吉に寵愛され、若くして五大老に列せられます。

関ヶ原の戦いでは西軍に組し福島正則隊と激突。

戦況は優勢でしたが、小早川秀秋の裏切りにより大谷吉継隊が壊滅。

一気に東軍有利となり、秀家も抗しきれなくなって敗走しました。

戦後は、領地を没収され八丈島へ島流しにされます。

その後もずっと八丈島で暮らしました。

享年84

世俗から隔絶された八丈島で、静かに大往生をとげました

上杉景勝 うえすぎ かげかつ(1556~1623)

上杉謙信の後継者。

上杉家の当主。

無口でほとんど笑顔を見せなかったそうです。

景勝の配下には、有名な『直江兼続』がいます。

北条家より謙信の養子に入っていた『上杉景虎』と家督を争いました。

この騒乱を『御館の乱(おたてのらん)』と言い、景勝は見事勝利しました。

秀吉政権下では『五大老』の一人に列せられ、政治の中枢を担いました。

秀吉没後は、家康に難癖を付けられますが全く意に介せず、石田三成に味方します。

なお、この家康の難癖に反論した手紙が、有名な『直江状』です。

関ヶ原の本戦には参加していませんが、北の関ヶ原と呼ばれる『長谷堂城の戦い』で最上義光(もがみ よしあき)と激突。

圧倒的有利な状況でしたが、関ヶ原で三成が敗北したことにより撤退となりました。

戦後は米沢30万石に減封になりましたが、米沢藩からは江戸時代に『上杉鷹山(うえすぎようざん)』という名君が誕生しています。

小早川隆景 こばやかわ たかかげ(1533~1597)

中国地方の覇者 毛利元就の三男。

主に山陽方面を担当し、元就の覇業に大きく貢献しました。

五大老は一般的に『徳川家康』『前田利家』『毛利輝元』『宇喜多秀家』『上杉景勝』とされていますが、隆景も大老に列せられており、彼らと同等の扱いを受けていました。

しかし、隆景のみ秀吉より先に亡くなってしまったので、一般的には上記の5名を五大老としています。

毛利が秀吉と争っていた際に本能寺の変が起き、撤退する秀吉軍をあえて傍観したり、小早川秀秋を養子に向かえたりしていたので、秀吉お気に入りの人物になったようです。

甥っ子の毛利輝元とともに、西国の統治を任された人物でもあります。

黒田官兵衛とも仲が良かったようで、様々な逸話が残っています。

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豊臣五奉行

五奉行とは、豊臣政権における奉行職の最高責任者を担った5名の武将の総称です。

石田三成 いしだ みつなり(1560~1600)

五奉行の一人。

なんとなく悪いイメージを持たれる不運な武将。

秀吉に忠誠を誓っていましたが、非情な政策や堅物な性格が災いし、加藤清正や福島正則と言った武闘派と対立。

その対立が秀吉没後に表面化され、歴史は関ヶ原の戦いへと突入していきます。

なので関ヶ原の戦いとは、家康が天下を狙って起こした戦いと言うよりは、豊臣家が二分された内紛という側面が強いと思います。

結果的には、関ヶ原で敗れ斬首。

処刑される直前まで、打倒家康の志を忘れなったという逸話も残っています。

ともかくも現代の印象が良くない人物ですが、部下への褒美をケチることがなく、一方で質素倹約に務めた人物としても知られています。

確かに堅物な側面もあったのかもしれませんが、三成の地元では、とても親しまれているそうで、もしかしたら現代のイメージとは違った人物だったのかもしれません。

人間は一側面からのみで語れるような、単純なものではありません。

歴史は勝者によって作られると言う事例の、典型的な犠牲者ではないかとも感じます。

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浅野長政 あさの ながまさ(1547~1611)

五奉行の筆頭。

秀吉が信長に仕えていた頃からの部下。

ですが、秀吉の明への侵攻時に石田三成と不仲になり、秀吉没後は徳川家康に接近。

関ヶ原の戦いでも東軍に属しています。

65歳で亡くなりました。

前田玄以 まえだ げんい(1539~1602)

五奉行の一人で僧侶。

もともとは織田信長の嫡男『織田信忠』に仕えていました。

本能寺の変が起こった際は、信忠と一緒に居ましたが、信忠の息子で幼児だった『三法師』を守りなんとか逃げ延びることに成功しました。

その後は三法師の傅役を務めつつ秀吉に仕えました。

関ヶ原の戦いでは石田三成に属すも、西軍の情報を家康に漏らしており、戦後は所領を安堵されました。

増田長盛 ました ながもり(1545~1615)

五奉行の一人。

関ヶ原の戦いでは西軍に属していましたが、本戦には参加しておらず、豊臣秀頼や毛利輝元と一緒に大坂城にいました。

戦後は領地を没収。

大坂の陣で息子が豊臣方だったため、責任を取り自害しました。

長束正家 なつか まさいえ(1562?~1600)

五奉行の一人。

もともとは織田信長の家臣 丹羽長秀に仕えていました。

長秀没後に秀吉に仕え内政面で才能を発揮。

秀吉の九州征伐、小田原征伐などでは物資の輸送を担当し、影で勝利を支えました。

関ヶ原の戦いでは、毛利軍と同じ場所(南宮山)に布陣しましたが、毛利が東軍に内通し動かなかったため、正家軍も動けず何も出来ずに敗北。

その後、居城に逃げますが攻め込まれ自害しました。

両兵衛

両兵衛とは、秀吉に仕えた軍師『竹中半兵衛』と『黒田官兵衛』の総称。

二兵衛と言ったりもします。

しかしながら、秀吉の下で同時期には活躍しておらず、半兵衛没後に官兵衛が軍師になったような感じです。

竹中半兵衛 たけなか はんべえ(1544~1579)

半兵衛は通称で、正しくは『竹中重治』。

黒田官兵衛と並び、秀吉の軍師として活躍した名将。

元々は美濃の斎藤龍興の家臣でしたが、龍興がしょうもない人物でした。

そんな龍興を諫めるため、半兵衛がわずかな手勢で城を乗っ取り、龍興を逃亡させます。

その後、斎藤家は信長によって滅ぼされ、半兵衛も隠退しますが、秀吉に三顧の礼を持って迎えられ、軍師としての活躍が始まったとされています。

荒木村重が信長に謀反を起こした時に、黒田官兵衛が説得に赴きますが捕縛されて帰ってこなかったので、信長が裏切ったと勘違いし官兵衛の息子(後の黒田長政)を処刑しようとしました。

この時、官兵衛の息子を匿い守ったのが竹中半兵衛です。

享年36

もともと病弱だったと言われ、秀吉はその死をたいへん悲しんだそうです。

黒田官兵衛 くろだ かんべえ(1546~1604)

官兵衛は通称で、正しくは『黒田孝高(くろだ よしたか)』。

後年は出家して『如水(じょすい)』を号していました。

竹中半兵衛と並び、秀吉の軍師として活躍した名将。

もともとは播磨(現在の兵庫県あたり)の赤松氏を母体とした小寺氏に仕えていました。

信長が播磨に攻めてきた際には、周辺の豪族をまとめ織田方に組しましたが、別所長治、荒木村重と言った武将が反旗を翻しました。

官兵衛は荒木村重の説得に赴きますが捕縛されて牢獄にぶち込まれます。

とても狭くて不衛生な場所に幽閉されていたため、片足が不自由になり、頭にはアザが残ってしまったそうです。

秀吉の軍師として毛利攻めにも参加。

本能寺の変が起こった際に、悲しむ秀吉を見て『好機がやってきましたな・・』と囁いた逸話は、冷静沈着な官兵衛の恐ろしさを物語っています。

後年は豊前(現在の福岡県と大分県あたり)に領地を持っており、関ヶ原の戦いに乗じて挙兵し九州を制圧しようとしたという説があります。

ですが、関ヶ原がわずか1日で決着してしまったため、官兵衛の野望は果たせなかったと言われています。

小早川隆景とは仲が良かったそうです。

賤ケ岳七本槍

賤ケ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)は、秀吉と柴田勝家が争った賤ケ岳の戦いで大活躍した武将たちの総称です。

加藤清正 かとう きよまさ(1562~1611)

福島正則らとともに、子供の頃から秀吉に仕えていた武将。

賤ケ岳七本槍の一人。

熊本城を築城した人としても有名。

石田三成の告げ口で秀吉から蟄居を命じられるも、地震が発生した時にいち早く駆けつけたことで許されたと言うエピソードがあります。

このような逸話からも分かる通り、反三成派に属しており、関ヶ原の戦いでは家康側として九州で戦い戦功を挙げています。

ですが、豊臣家への忠義は生涯忘れることはなく、秀頼が家康と謁見する際も、秀頼に近侍しています。

そして、家康との謁見が終わった帰途の船中で体調不良になり、間もなく亡くなりました。

あまりにも突然の死であったこと、また、タイミング的にも謁見直後の発病であることなどから、豊臣家に忠誠を誓い続ける清正を、家康が疎ましく思い、毒殺したのではないかという説もあります。

福島正則 ふくしま まさのり(1561~1624)

加藤清正らとともに、子供の頃から秀吉に仕えていた武将。

賤ケ岳七本槍の一人で、七人の中でも一番戦功があったと言われています。

個人的には、七本槍の中でも、特に武勇に優れた猛将のイメージが強い人。

そんな感じの武闘派なので、もれなく三成と不仲になりました。

と言うか、一番に家康へ味方することを誓っており(小山評定)、最も三成憎しと思っていた印象があります。

なので、当然ながら関ヶ原の戦いでは東軍に味方しています。

戦場では宇喜多秀家軍と激突。

苦戦しましたが、なんとか持ちこたえました。

戦後は安芸(あき、現在の広島県)に領地を得ますが、勝手に城を修復したとして改易されてしまいました。

関ヶ原では家康に味方したものの、豊臣家に対する忠義は失っていなかったため、秀吉の息がかかった武将を失脚させるための、徳川方の陰謀とも言われています。

加藤嘉明 かとう よしあきら(1563~1631)

賤ケ岳七本槍の一人で、主に水軍を指揮して活躍した武将。

秀吉の四国征伐、九州征伐、小田原征伐でも水軍を率いて参戦しています。

秀吉が明に攻め込もうとした時(慶長の役)も、日本の水軍を率いて朝鮮水軍を撃破しています。

関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、本戦には参戦していませんが、大垣城攻略で活躍。

大坂夏の陣にも参戦し、豊臣家を滅ぼしました。

片桐且元 かたぎり かつもと(1556~1615)

賤ケ岳七本槍の一人。

もともとは浅井長政に仕えていましたが、信長の小谷城攻めで浅井氏は滅亡、以後、秀吉に仕え長浜城主になっています。

賤ケ岳の戦いを始め、小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐など、多くの合戦に従軍し秀吉を助けました。

しかし、秀吉没後は遺児である秀頼の傅役を担う立場だったにも関わらず、家康に接近。

関ヶ原では西軍に属していましたが、家康に接近していたことが功を奏し、戦後は領地を与えられています。

大坂の陣の契機となる『方広寺鐘銘事件』では、方広寺の大仏開眼などの任務を担っていたため、且元は糾弾の対象となります。

且元は豊臣家の存続を願い出ますが、受け入れられず豊臣家は滅亡。

それからわずが20日後に、且元自身も息を引き取りました。

脇坂安治 わきざか やすはる(1554~1626)

賤ケ岳七本槍の一人。

もともとは浅井長政に仕えていましたが、信長の小谷城攻めで浅井氏は滅亡、以後、明智光秀家臣を経て、後に秀吉に仕えています。

関ヶ原の戦いでは西軍に味方。

一説には、本心は東軍に味方しようとしていましたが、安治が大阪にいた時に三成が挙兵したため、不本意ながら西軍になってしまったとも言われています。

そのような経緯で西軍になったので、戦場では小早川秀秋の東軍寝返りに呼応。

大谷吉継隊を壊滅させ、西軍の敗北を決定づけました。

晩年は出家し、73歳で亡くなりました。

平野長泰 ひらの ながやす(1559~1628)

賤ケ岳七本槍の一人。

関ヶ原の戦いでは東軍に味方。

家康の息子である秀忠の軍に属していまいたが、真田昌幸の上田城攻略に手間取り本戦には間に合いませんでした。

大坂の陣では、豊臣家存続のために活動しますが失敗。

その後は、三代将軍 家光の代まで生き、大往生を遂げました。

糟屋武則 かすや たけのり(1562~??)

賤ケ岳七本槍の一人。

黒田官兵衛に推挙されて、秀吉の家臣となります。

本能寺の変が起こった際の『中国大返し』にも参加しており、明智光秀を討った山崎の戦いにも参戦しています。

関ヶ原の戦いでは西軍に属し、宇喜多秀家隊と一緒に戦ったそうです。

戦後は、所領を没収されました。

その後は、許されて所領を得たとも、間もなく亡くなったとも言われています。

三中老

三中老とは、豊臣政権における五大老、五奉行に次ぐ位置づけで、五大老と五奉行の意見が対立した際の仲裁役も兼ねていました。

しかしながら、三中老という役職は、後世の創作ではないかとも言われています。

中村一氏 なかむら かずうじ(??~1600)

秀吉に仕え、山崎の戦いや賤ケ岳の戦いで活躍。

小田原征伐の後に、徳川家康の抑えとして駿河(現在の静岡県)を治め、三中老に任じられました。

関ヶ原の戦いでは東軍に属しますが、決戦の直前に亡くなりました。

堀尾吉晴 ほりお よしはる(1543~1611)

秀吉に仕え、毛利攻め、山崎の戦い、九州征伐などに参戦。

山崎の戦いでは、敵将を討ち取る活躍を見せています。

小田原征伐にも参戦しますが、この時に息子を失っています。

関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

生駒親正 いこま ちかまさ(1526~1603)

織田信長が美濃(現在の岐阜県)の斎藤氏を攻めた時に、織田家臣となり、後に秀吉に仕えています。

金ヶ崎の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻めなどにも従軍。

関ヶ原の戦いでは、息子は東軍に与しましたが、自身は西軍に与し、戦後は高野山に蟄居しています。

これは、生駒家を残す為の作戦だったとも言われています。

その他の主要家臣

蜂須賀小六 はちすか ころく(1526~1586)

小六は通称で、正しくは『蜂須賀正勝』。

秀吉の身分が低かった時代から仕えている忠臣。

もともとは尾張(現在の愛知県あたり)の国衆。

(一昔前までは盗賊出身とされていましたが、どうやら誤りだったようです)

秀吉が一晩で築城したとされる『墨俣一夜城』の逸話では、小六らの蜂須賀党が活躍したと言われています。

また、秀吉の武勇伝の一つである『金ヶ崎の退き口』でも戦功があったとされています。

他にも、毛利氏攻略、山崎の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征伐などでも活躍しました。

秀吉の出世街道の背後には、必ず小六の存在があったということです。

しかし、秀吉が飛ぶ鳥落とす勢いで天下に迫る中で、病を得て亡くなりました。

秀吉の家臣というと黒田官兵衛や石田三成が有名ですが、秀吉の出世街道を一番支えたのは、この蜂須賀小六と羽柴秀長ではないかと思っています。

大谷吉継 おおたに よしつぐ(1565?~1600)

誠実な性格で知られる、戦国時代の中でも人気の武将。

石田三成の友人。

三成と一緒に秀吉に仕え、ともに出世していきます。

どちらかと言うと内政面で活躍した印象が強いですが、賤ケ岳の戦いでも七本槍並みの活躍をみせるなど、武勇に優れる面も持っています。

三成との美談には事欠かず、関ヶ原の戦いの参戦理由も三成への義理立てだったという説もあります。

吉継はハンセン病だったことでも知られており、関ヶ原の戦いでは自力で歩けないほどに弱っていましたが、三成の要請に応じて参戦。

輿に乗って指揮を振るい、獅子奮迅の活躍をみせますが、小早川秀秋隊の裏切りによってピンチに陥ります。

秀秋の裏切りに呼応し、脇坂安治隊なども寝返り、吉継の部隊を強襲。

吉継隊は一気に崩れ、その影響は戦場全体に及び、一進一退の攻防を続けていた西軍は瓦解。

敗北を悟った吉継は自刃しました。

関ヶ原の戦いで、唯一自害して果てた武将です。

名将 大谷吉継!石田三成とのエピソードと関ヶ原での壮絶な最後
ご来訪ありがとうございます。 拓麻呂です。 人気がある戦国武将はたくさんいますが、その中でも特に人気がある人物。 ...

小西行長 こにし ゆきなが(1555?~1600)

堺商人出身の武将。

キリシタンだったことでも知られています。

秀吉が明を目指して侵攻した際には、一番隊として加藤清正の部隊とともに戦功を挙げました。

しかし、一時劣勢になったことで、石田三成らと相談し講和。

この辺りから、加藤清正らの武断派と溝が出来始めます。

関ヶ原の戦いでは西軍に与し参戦するも、わりと早い段階で総崩れになったそうです。

戦後に捕縛され、石田三成、安国寺恵瓊らとともに、京の六条河原で斬首されました。

その最後はキリシタンらしく、聖母マリアの絵を頭上に掲げていたそうです。

蒲生氏郷 がもう うじさと(1556~1595)

元々は六角義賢の家臣、六角氏が信長に滅ぼされた後は織田家に仕え、本能寺の変後に秀吉の家臣になりました。

茶の湯の達人7名からなる『利休七哲』に一人に数えられています。

キまた、リシタン大名としても知られています。

秀吉の九州征伐や小田原征伐で活躍し、会津に領地を賜いました。

その後に加増され会津92万石という広大な領地を手に入れましたが、畿内から遠ざけられたことで天下取りの野望が潰えたと涙を流すエピソードがあります。

なお、観光地として人気の『鶴ヶ城(会津若松城)』を築城したのはこの氏郷であり、幕末に活躍する会津藩の礎を築いた人物でもあります。

病により若くして亡くなったことが惜しまれる武将です。

当時としては珍しく、側室を持たない武将でもありました。

山内一豊 やまうち かずとよ(1546?~1605)

大河ドラマでも取り上げられた人物。

奥さんの『千代』の内助の功で出世した武将としても有名。

秀吉に従軍し活躍し、掛川城主となります。

関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、掛川城を家康に差し出すなどの行為で称賛されています。

戦後は土佐(現在の高知県)に領地を与えられたのですが、もともと土佐を治めていた長宗我部家の旧臣(一領具足)たちの懐柔に苦労し、郷士という階級制度を設けました。

とは言え、郷士という身分は下級武士とされ、一種の差別の対象となりました。

そして、この郷士の身分から誕生したのが、幕末に活躍する坂本龍馬や武市半平太です。

浅野幸長 あさの よしなが(1576~1613)

浅野長政の嫡男。

小田原征伐が初陣。

加藤清正と同様に、石田三成の讒言で立場を悪くした経緯があり、関ヶ原の戦いでは東軍に味方しました。

後に、紆余曲折を経て、幸長の娘が家康の九男(徳川義直)と結婚したため、徳川一門衆に列せられました。

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秀吉の出世街道は少年漫画の王道ストーリー

以上、豊臣秀吉の主要家臣団でした。

こうやって見てみると、さすが天下統一しただけあって、戦国末期のオールスターと言ったよな面々が揃っています。

秀吉は低い身分からの出世だったので、譜代の家臣と言うものが存在せず、その出世街道の中で徐々に家臣を増やして行きました。

最終的には、毛利氏や上杉氏、そして徳川家康などの敵であった人物も配下に取り込み、最終的には天下を掌握しました。

最初は誰も仲間がいなくて、小さな存在だった秀吉が徐々に強くなっていき、ついには強大な敵に打ち勝ち、そしてその敵が秀吉の味方になる。

まさに、少年漫画のようなサクセスストーリーが秀吉の出世街道なのです。

そう考えると、秀吉の人生は、マンガや小説を読むようなワクワクした感覚を楽しむことができると言えるのではないでしょうか。

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