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拓麻呂です。
この記事では『武田信玄』を、西暦や歴史の難しい用語を使わず簡単に解説します。
武田信玄を簡単解説
武田信玄の基本情報
武田信玄は戦国時代の中期頃の人物です。
通称は『甲斐の虎(かいのとら)』。
『信玄』は出家した後の法名で、信玄を名乗る前は『武田晴信』と名乗っていました。
本拠地は山梨県で、長野県、静岡県の一部、群馬県の一部にまで領土を広げた戦国時代を代表する人物です。
享年は53歳。
当時としては平均的な年齢です。
そんな信玄は、中国の孫子の兵法を熟知していたと言われています。
孫子にある一節を切り取った有名な言葉。
『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』
(はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し)
この、いわゆる『風林火山』の旗印を掲げ、戦場に臨んだ武田軍は戦国最強軍団とも言われ、多くの戦国ファンの心を掴んで離しません。
父親と息子との関係
そんな武田信玄の有名なエピソードして、父親と息子との微妙な関係があります。
この父親と息子との関係が、信玄の運命を変え、そして信玄亡き後の武田家の運命を大きく左右したと言っても過言ではありません。
信玄の父親は、生活に苦しむ民衆を顧みない、独裁気質の暴君であったと言われています。
その悪政は、武田家臣団の間でも不安視する声が多く囁かれていまいた。
そこで、父親を領内から追放する為に担ぎ出されたのが信玄です。
信玄と重臣主導の元、父親追放のクーデターは成功し、信玄は武田家当主の座に就きました。
また、信玄は自身の長男とも微妙な関係でした。
信玄の長男に嫁いでいたのは今川氏の娘。
その今川氏の領土に信玄が侵攻しようとしたため、親子の関係にヒビが入ります。
長男は信玄に対する裏切りを画策したとされ、投獄されてしまいます。
そして、幽閉されたまま亡くなるのですが、この死は信玄の陰謀だったのではないとも言われています。
その結果、四男が信玄の跡を継ぐことになるのですが、この四男が織田信長、徳川家康と激突し敗北。
その影響で武田家は衰退し、戦国時代を代表する武田家は滅亡することになってしまうのです。
宿敵 上杉謙信!激突 川中島
武田信玄のライバルとして真っ先に思い浮かぶ人物。
越後の龍『上杉謙信』です。
この謙信と激突した、川中島の戦い(第四次)は戦国時代の中でも屈指の大激戦となった戦いです。
序盤は武田軍の挟撃先戦を見破った上杉軍が攻勢をかけますが、後半は援軍の到着で武田軍が盛り返します。
まさに一進一退の攻防でした。
この戦いで信玄は多くの家臣を失います。
最終的に敗走したのは上杉軍ですが、犠牲者は圧倒的に武田軍の方が多く、いまだにどっちが勝ったのが議論が絶えません。
馬に乗った謙信が武田軍の本陣に斬りこみ、どっしり構えた信玄が采配で受け止めるという有名な場面は、この戦いのワンシーンです。
(後世の創作とされていますが・・)
西上作戦
晩年の信玄は、天下統一に向けて京都への進撃を開始します。
(天下統一の意志があったかは諸説あり)
途中で徳川家康を完膚なきまでに粉砕し、いよいよ織田信長との激突が間近に迫っていました。
しかし、信玄には時間が足りませんでした。
京都へ進撃している真っただ中に信玄はこの世を去りました。
もし、信玄がもう少し長生きしていたら、信長をも蹴散らし、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
様々な意見がありますが、僕の個人的な考えでは、信長は信玄に勝てなかったと思っています。
また、信玄の本拠地である山梨県は、周囲が強敵に囲まれた戦国時代でも屈指の激戦区でした。(北に上杉、東に北条、南に今川)
隣国との争いに時間が掛かりすぎました。
戦国時代の実力者を3名挙げよ!と言われたら、僕の中で信玄は間違いなくランクインします。
政治、戦略、外交、謀略を水準以上に兼ね備えていた信玄に唯一足りなかったもの。
それが『運』でした。
甲斐の虎 武田信玄
以上、武田信玄の簡単解説でした。
信玄に関する歴史は、まだまだたくさんあるのですが、今回は有名で大切な部分だけを紹介させていただきました。
前述の通り、信玄がもう少し長生きしていたら、あるいは長男と不和にならなかったら、戦国時代の結末は変わっていたかもしれません。
残念ながら地方大名で終わってしまった信玄ですが、風林火山の元に集結した戦国最強軍団の存在感は凄まじいものがあります。
昨今では否定する意見もありますが、騎馬軍団が突撃してくる戦国合戦のイメージこそ、まさに戦国最強武田軍のイメージです。
武田信玄は、いつも戦国ロマンを感じさせ、戦国ファンの心を熱くさせてくれる存在なのです。
そんな戦国最強軍団の主要人物はコチラをご覧ください。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。