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拓麻呂です。
戦国時代における越前(福井県)の大名と言えば『朝倉氏』、その中でも最も有名な人物が『朝倉義景』ではないでしょうか?
織田信長と同時代の人物で、関りもあるため、比較的知名度があるように感じます。
しかし、その知名度とは裏腹に、義景の評価は著しくありません。
これは、京風文化にかぶれていて、最終的には信長に負けていることが要因かと思われます。
しかしながら、そういった公家風の文化に傾倒した武将を蔑むのは、戦国武将を『強さ』でしか評価できていない、いわゆる一元的にしか歴史を見ていない証拠あると考えています。
ということで、戦国時代に京風文化が栄えた越前の一乗谷城を居城とした『朝倉義景』の主要家臣団一覧です。
朝倉義景の家臣たち
朝倉義景の一門衆
朝倉義景 あさくら よしかげ(1533~1573)
越前(えちぜん、現在の福井県)朝倉氏11代当主。
『朝倉孝景』の子。
父の後を継ぎ、京風文化が浸透した領国の統治を安定させた武将。
後に15代将軍となる『足利義昭』を庇護、あるいは浪人だった明智光秀も朝倉家に身を寄せている。
しかし、京都への復帰を望む足利義昭を奉じ上洛する好機を逃したり、信長包囲網に参加するも政務に無関心だったりと、時世の読めない愚将とされることが多い人物でもあります。
しかし、それは『戦国時代は天下統一を目指すもの』という、誤った認識が前提にある考え方です。
また、あまりにも一元的な見方です。
最期は信長と敵対し、居城の一乗谷城を包囲され自害。
生まれた時代が戦乱の世でなかったら、もっと活躍できた人物だったのかもしれません。
朝倉宗滴 あさくら そうてき(1477~1555)
戦国草創期の朝倉家八代当主『朝倉孝景(敏景)』の子。※義景の父である10代当主の孝景とは別の人物。
『宗滴』は出家後の法名で、諱は『教景』。
貞景、孝景、義景の三代に仕えた、朝倉家の重鎮。
30歳の頃に、朝倉家の内紛を鎮圧した功績により、金ケ崎城主に抜擢され、越前国敦賀郡の統治を任されました。
また、朝倉家の総大将として、北陸で勢力を誇っていた一向一揆との戦いでも活躍。
若狭、丹後、加賀、近江、美濃など、越前周辺の国へも度々出兵し、朝倉家の存在感を高めました。
最期は80歳近い高齢を押して出陣しましたが、陣中で病に倒れ、本拠の一乗谷城に帰還した後に亡くなりました。
宗滴が残した言葉。
『武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候』
武士として勝つことにこだわり続けた闘将らしい言葉です。
朝倉家は宗滴を無視して語ることは出来ないと言っても過言でないほど、朝倉家の武威を高めた名将と言えるでしょう。
朝倉景鏡 あさくら かげあきら(??~1574)
朝倉家の一族である朝倉景高の子で、義景のいとこに当たる人物。
陣中では義景の代理として、朝倉軍の総大将を任されることもあった重臣の筆頭格。
織田信長が越前に侵攻してくるも、浅井長政の裏切りで大ピンチに陥った、いわゆる『金ヶ崎の退き口』で、朝倉軍2万の総指揮を任されていた武将でもあります。
このような義景の忠臣のような人物でだったのですが、信長との戦いで朝倉家が劣勢になると、義景の命令を無視し出陣を拒否。
その後、信長に敗れ逃げてきた義景を自領の寺に誘い込み包囲。
義景を自害させ、その首を持って信長に降伏しました。
以降は、信長の家臣となり『土橋信鏡』と改名。
しかし、一向一揆との戦いで討死しました。
朝倉景健 あさくら かげたけ(1536?~1575)
朝倉家の一族である朝倉景隆という武将の子。
朝倉・浅井連合軍が、織田信長と戦った『姉川の戦い』で、朝倉軍の総大将を任された武将です。
志賀の陣と呼ばれる戦いでは、信長の弟『織田信治』、織田家の家臣『森可成(もり よしなり)』らを討ち取る大活躍を見せています。
これらの実績を見る限り、なかなかの猛将であったと思われます。
朝倉家滅亡後は、信長に降伏し『安居景健(あご かげたけ)』と改名。
以後は信長の家臣となりましたが、一向一揆との戦いで劣勢となり一揆勢に降伏。
これを不服とした信長の命令により、自害させられました。
朝倉景連 あさくら かげつら(??~1566)【一乗谷四奉行】
『一乗谷四奉行』
の一人に数えられる人物。
朝倉宗滴に従軍し、加賀の一向一揆攻めで活躍。
朝倉義景の家臣団
真柄直隆 まがら なおたか(1536~1570)
朝倉家の家臣で、怪力無双と伝わる豪傑。
戦場では、1メートル63センチもの長さの太刀を振るい、大活躍したと言われています。
また、弟の直澄、息子の隆基も猛将として知られ、姉川の戦いではともに大奮戦しました。
しかし、敵陣深くに切り込みすぎたため、弟と息子ともども討ち取られてしまいました。
なお、この時に直隆を討った刀は『真柄切』と呼ばれ、現存しています。
ちなみに、直隆と直澄を同一人物とする説もあります。
富田長繁 とだ ながしげ(1552~1575)
出雲の出身で、同地を治めた尼子氏の一族と言われる武将。
織田家との戦いの最中、『前波吉継』らとともに信長陣営に寝返りました。
しかし、織田家中における前波吉継(改名し桂田長俊)との待遇の差に不満を持ち、後に不仲になり、桂田長俊の一族を攻め滅ぼしています。
その勢いに乗じてか、同じく元朝倉家臣であった『魚住景固』の一族をも滅ぼしてしまい、周囲から孤立。
このような無茶苦茶なことをしていたツケを払うかのように、越前一向一揆との戦いの最中に、部下に裏切られ背後から発砲された挙句、首を取られるという悲惨な末路を迎えました。
前波吉継 まえば よしつぐ(1541~1574)
義景の側近。
一乗谷四奉行の一人『前波景定』の次男坊。
織田家との戦いの最中、『富田長繁』らとともに信長陣営に寝返りました。
以降は『桂田長俊』と改名するも、間もなく失明したと言われています。
織田家中では越前守護代に任ぜられるなどの厚遇を受けるも、これが富田長繁から妬まれる要因となります。
そして、長繁が組織した一揆勢に攻められ、一族もろとも滅ぼされました。
魚住景固 うおずみ かげかた(1528~1574)
播磨の出身で、同地を治めた赤松氏の一族と言われる武将。
眼病を患っていたと言われています。
奉行衆として内政面などで活躍。
姉川の戦いにも参戦しましたが、命令を無視して軍を動かさず、朝倉家滅亡直前に織田家に寝返り。
以降は織田家臣となるも、富田長繁が桂田長俊(前波吉継)を滅ぼした事件が起こり、暴走した長繁によってとくに因縁がなかったのに滅ぼされてしまいまいた。
山崎吉家 やまざき よしいえ(??~1573)
朝倉家の重臣。
朝倉宗滴に従い各地で戦い、宗滴が亡くなると後任として活躍。
朝倉氏が織田信長と対立した際には、武田信玄や上杉謙信といった超大物のと外交を担当しました。
志賀の陣と呼ばれる戦いでは、朝倉景健とともに、信長の弟『織田信治』、織田家の家臣『森可成(もり よしなり)』らを討ち取る大活躍を見せています。
最期は『刀禰坂の戦い(一乗谷の戦い)』で、敗走する義景を守るため殿軍を勤め、大奮戦の末に討ち取られました。
富田勢源 とだ せいげん(1523~??)
義景の家臣で剣術の使い手。
梅津某という者に試合を申し込まれた際、真剣で斬りかかってくる梅津に対し、薪で応戦。
一撃で叩きのめし、見事勝利したと言う伝説をもつ猛者。
河合吉統 かわい よしむね(1521?~1573?)【一乗谷四奉行】
『一乗谷四奉行』の一人に数えられる人物。
奉行人らしく、政務で手腕を発揮する一方、義景に従い各地を転戦。
織田信長と戦った『刀禰坂の戦い(とねざかのたたかい)』で亡くなったと言われています。
前波景定 まえば かげさだ(??~1563)【一乗谷四奉行】
『一乗谷四奉行』の一人に数えられる人物。
前波吉継の父親に当たる人物。
小泉長利 こいずみ ながとし(??~??)【一乗谷四奉行】
『一乗谷四奉行』の一人に数えられる人物。
越前の名門 朝倉家
以上、朝倉義景の主要家臣団一覧でした。
一乗谷城を中心に、現在の福井県に勢力を誇った朝倉氏。
信長に敗れたため、イマイチ評判の良くない朝倉家ですが、それはあくまで信長目線で見た評価であり、必ずしも正しい評価ではありません。
これは、桶狭間の戦いで信長に敗れた今川義元などにも当てはまることです。
信長や秀吉、家康などの戦国時代の中心人物の視点を外すことで、初めて見えてくるこのもあります。
特に朝倉義景のような愚将とされている人物こそ、そういった見方をすることで新たな魅力に築くものです。
ぜひ、その武将の視点に立って人物を見るようにしてみてください。
そうすると歴史が何倍も楽しいものになりますよ。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。